始 花影とけだもの 其ノ二

「人は嫌いだ」

 天華十一年、空帆。玉兎に手を引かれるようにして浮世に降り立った煉は、引き合わされた少女を前に虚ろな眼で吐き捨てた。

「……玉兎、説明して。このブレイモノはどこで拾ってきたのかしら」

「宵花京の近くの山奥だな。かなり掘り出し物だと思ったんだけどよ」

「おとな、のひと?なら、こわい」

 壁際にちょこんと座り込んだまま、白髪の少女が小さく首を傾げる。玉兎は慌てて、黒と橙の目でジッと煉を睨む彼女の頭を撫で回しした。

「まあ図体はでけぇけど、中身は赤ん坊みてぇなもんだからさ。見逃してくれよ」

「……ならまあ、いい、かも……?」

「いいわけないじゃない!」

 きんと甲高い声が響く。広い座敷の真ん中、背後には金銀があしらわれた豪奢な屏風。嫁入り道具にしても仰々しい螺鈿の脇息に凭れかかって、七歳の少女は紅の瞳をキッと吊り上げて憤った。

 八雲六華やくもりっか。天府を治める瑞将ずいしょうの位を代々受け継ぐ武家の頂点、八雲家の傍流出身の姫君であり、五歳でサクヤヒメに見出され器となった現人神である。玉兎は八雲と懇意にしていた師から彼女の元に遣わされ、幼い姫神の護衛役を担っていた。

「お師匠に会いに行くのは許したけれど、拾いモノをキョカしたおぼえはないわ」

「ごもっともだぜ、でも考えてみろよ。お嬢の回りにはわるーいおとなが一杯いるんだって。剣も盾も多い方がいい」

「わたくしはお前とユーリンだけでたくさんだっていったでしょう」

「足りねぇよ。武器を持つ人間ほど選べる道は多くなる。誰がどんな思惑を抱えて近付いてきても、払いのけられるだけの力は持っとかねぇと」

 玉兎の言葉に渋々頷くと、六華は脇息に肘を乗せてじいっと煉を見つめた。

彼女は既に帝の勅命で皇族との婚約が結ばれており、サクヤヒメの力を奮って国に尽くす一生が定められている。しかし朝廷との争いに敗北し、失墜した天府のなかには六華を利用して復権を目論む勢力も存在する。

 朝廷と天府、暁花京と空帆。激動の時代で、二つの巨大な力に挟まれて利用されながら生きなければいけない利発で聡明な少女を、玉兎は哀れだと思った。煉を連れて来た理由の半分は、六華が少しでも意志を貫ける土壌を整えるためだ。

 そして残りの半分は。玉兎は溜め息を吐くと、煉の目をジッと見つめた。

「で、お前はなんで人を嫌う。人がいねェと神は存在を保てず、神がいねェと人は生きられねェ。そもそもタケミカヅチ神は人好きで有名だろうに」

「……父上の記憶は朧げで、ほとんど覚えがない。ただ記憶にあるのは炎と、悲鳴と、叫びと、父上が泣いている顔だけで、何も分からない。ただ、それが人のせいであることは知っている。だから俺は人が嫌いだ」

 玉兎は堪らず座り込んだ。あのボロボロの社で何が起きたのか、玉兎に知るすべはないが、焦げた柱の後や刀傷が刻まれた壁から察することは容易だ。どうしたことか、と不器用に考えを巡らせる玉兎をよそに、煉はボソボソ言葉を続けた。

「人は嫌いだ、それ以外は何も分からない。でも最後、父上は俺に人と共に生きろと言った。人は愛おしい生き物だと、確かに言っていた。それがずっと耳に残っている」

「へえ、そうか」

「俺はどうしても理解ができない。そもそも、愛が分からない。生きる、もよく分からないんだ。ただ息をするのは寒くて、しんどかった」

 ああ、やっぱりただの赤ん坊だ。玉兎は少しだけ安堵した。人間を憎んでいるわけじゃない。ただカラッポなだけで、ちゃんと血が通っている。心は、魂は決して死んでいない。

 死んでいないのなら、幼くも気高い姫神は決して見捨てない。

「やっぱりお前、わたくしの従者になりなさい」

「……は……」

「知らないなら知るべきだわ。わたくしと来なさい」

 六華は桜模様の振袖をクルクルと弄びながら、にっこりと口角を上げてみせる。年齢にも背丈にも見合わない、散る寸前の大輪の花のように艶やかな笑みだった。

「生きる意味も愛も、わたくしは既に知っているもの。わたくしは人を、この国を愛している。だから護りたくて仕方がない、これが生きる意味よ」

 不機嫌が嘘のように自身に満ちた仕草で、六華は目を丸くして固まる煉に右腕を差し出す。

「わたくしのものになりなさい、煉」

 サクヤヒメの器とは言え、六華は元々只人だ。比べて煉は人の血が入っているとはいえ神の子で、神話の時代から生きる天乃神の力をそっくり受け継いでいる。そうでなくとも、七歳の少女の腕など容易く握り潰せるほど細く脆い。

 しかし気付いた時にはもう、煉は傲慢で美しい少女の手を取っていた。

 紅の瞳が花開く椿のように揺れる。

「ケイヤクセイリツね。これでお前はわたくしのシキガミよ」

 式神、その言葉にも煉は首を傾げるばかりだ。玉兎はまた頭を抱えたくなった。この力と図体だけは立派な半神様は、今自分がどれだけ軽薄で取り返しのつかないことを仕出かしたのかもさっぱり分かっていないようだった。

「よかったね、レン。もう、しんどくない」

 橙の瞳をきらきらと揺らすユーリンを、煉は伽藍洞の目でジッと見つめ返した。


六華の式神になった煉は、機が熟すまでは人間の護衛として傍に置いた方がいいという玉兎の案で部屋が与えられた。やがて全ての身分の人間が姓を持つよう法が変わると、六華は煉を呼びつけ自信たっぷりに半紙を見せびらかした。

「お前は今日から都小月煉よ」

「とおづき……」

「そう、都の小さな月。覚えなさい」

 六華はそう言うと微笑んだ。煉の手を引いて窓辺に寄り、白い腕を南の天上に向ける。

凍て付くような冬の夜だった。半分ほど開かれた障子の隙間から見える月は糸のように細く、張り詰めた空気を溶かすように凛と煌めいている。

「わたくし、空帆の月が好きよ。でももう見られるのはあと僅か」

 小さな口から白い吐息が吐き出される。あどけない無垢な横顔は月から少し逸れて、北東の開けた沃野に向けられている。遷都で荒野から生まれ変わった黎明の都の方角だった。

「雪が溶けたらわたくしは暁花都に行くわ。主上の命でもなく、天府の思惑でもなく、わたくしの意志で。きっともう空帆には戻れないでしょうから、春が来たら空帆の月は見納めになる」

「……それとなんの関係があるんだ」

「分からないの?都にはお前も連れて行くのよ。お前の目は雷のようだけれど、月の光にも似ているじゃない。お前が代わりになってくれるのなら、幾分かは寂しくないわ」

 煉はジトリと六華を睨んだ。己の背丈の半分もない小さな主君は、紅の瞳を勝気に瞬かせてジッと見上げてくる。今の煉には、それが途方もなく不気味に思えた。

「俺はあんたの手慰みの道具か?」

「いいえ、お前にも働いてもらうわ。いくらわたくしでも、一人では神器なんて造り出せないもの」

 六華はぎゅっと煉の手を握り締める。震える指先を誤魔化すように、少女は凛と前を向いた。

「わたくしは暁花京を、この国の夜明けを護りたい。わたくしの命は都の安寧に捧げるわ」

 きらきらと輝く瞳は篝火に照らされた桜の花びらのように眩しく、力強く、儚くて。煉の穴ぼこだらけの心臓が酷く軋んだ。

「……サクヤヒメの器の寿命は短いと聞いた。依代になってから、保って三十年だと」

「ええ。わたくしは五歳でこの体になったから、あと二十五年」

「神器を造ればますます削られる。俺が手を貸しても、零れ落ちる命は止められない」

「分かっているわ。だからなんだと言うの」

「許嫁殿と文通しているあんたの姿を見ると、どうも止めたくなる」

 六華はハッと息を呑んだ。

 サクヤヒメになった三日後に結ばれた皇族との婚約。許嫁は顔も知らず、会ったことすらない皇弟だ。しかし彼が月に一度贈り物を添えて送ってくる文はどれも慈しみが滲むような文面で、優しく穏やかな人柄が手に取るように分かる。

「初恋だと言っていたじゃないか。……俺にはよく分からないが、大事なことなんだろう」

意志も自由もない縁だ。しかし十歳の六華の体を案じ、聡くならざるを得なかった子どもの心を憂いてくれる人間なんて空帆にはいなかった。五年間欠かさず机に向かって返事を書き続ける小さな背中を見れば、流石の煉だって六華が婚姻を待ち焦がれていることくらいは分かる。

ただ破魔の力を行使するだけでも命は削られる。神器造りなんて、何年分が燃えカスになるのか検討も付かない。しかし六華は前を向いたまま、決して俯くことはしなかった。

「それでも、わたくしは歩み続けなくては」

「理解ができない。どうしてあんたがそこまでする、まだ赤子も同然のくせに」

「バカにしないで!」

 紅の瞳が燃え上がる。

「わたくしは、わたくしの意志で人のために力を使うと決めたの!たとえ天下の神全てに止められようと振り返らないわ」

 凛と背筋を伸ばして煉を睨み上げる姿は、まるで大輪の椿のようだった。

 天華十四年、年の瀬。凍て付くような月の下、煉の心臓は大きく波打った。

 六華が声を荒らげた理由など、煉にはまだ分からない。しかし、六華の言葉は何故か煉の記憶に焼き付くような痕を残した。


 天華十五年。今上帝との謁見の際に早速とんでもない啖呵を切ってみせた六華は、煉を連れて速やかに暁宮の千寿殿に籠もり始めた。

 千寿殿は神威省が厳重に管理する社の一つで、結界の要である神器を祀る神聖な宮だ。しかし六華は足を踏み入れるなり呆然と天を仰ぎ、深い溜め息を吐き出した。

「見事にもぬけの殻ねえ……」

「こんなざまで、よく都なんぞ作ろうと思ったな」

 背負ってきた細長い包みを床に放り投げながら、煉も呆れたように吐き捨てる。社の中央に設えられた荘厳な神棚は見事にカラッポだ。花宮の社には目もくらむほど多くの神器が鎮座し、行き交う巫女が忙しなく神事を行っていると聞くが、千寿殿はいっそ清々しくなるほどに伽藍洞だった。

「よく怪異以外の災いが起きなかったものだわ」

「地形には恵まれている。山からも海からも遠くはないが、ある程度離れている。近くを流れる川も大きさのわりに穏やかで、氾濫の兆しすら見えない」

 六華は満足げに頷いた。神霊の加護がなくとも選ばれた土地に、人の力だけで築き上げられた街。まだ拓かれ始めたばかりだが、肥沃な上に広大な平野はいずれ東国屈指の農地になるだろう。

 発展途上で安定にはほど遠く、強固な護りもない。それでも六華の目には、他の何処よりもトヨアシハラの夜明けにふさわしい都に見えていた。

「足りないのは結界だけね。安心したわ、わたくしが役に立つ」

「本当にやるのか……」

「当たり前でしょう、早く出しなさい」

 煉は酷く複雑そうにしながら渋々包みを手に取り、何十枚も張られた護符を丁寧に剥がし始めた。巻き付けられた和紙をくるくると解くと、ざらついた木肌が顔を出す。

 中身は篝火の灯りを弾いてつやつやと光る、一張りの梓(あずさ)弓(ゆみ)だった。

 六華が許嫁に融通を頼み、遥々雲威から届けられた梓の神木の枝を削り出し、格の高い鴉天狗である玉兎の師が弦を張った逸品だ。最も六華が抱えるには大きすぎたせいで、空帆から煉が背負って運ぶ羽目にはなったが。

「やっぱり綺麗ねえ……」

「今はまだ、単なる木弓だがな」

 魔除けの力を持つ梓、それも雲威の神木の枝とは言え、弓自体には大した力はない。それでいいのだ。この弓は神器の原形、いわば依代のようなものなのだから。

「生粋の神様なら、何もないところから神器を生み出すものなんでしょうけれど。わたくしには厳しいもの。依代の質だって、良い方がやりやすいわ」

 神は本来、神器を一から十まで己の霊力で生み出す。タケミカヅチの神器である煉の太刀は雷神が誰の手も借りずに洞窟に籠もり、三日三晩で生み出したという。

 しかし六華は純粋な神ではない。無から器を造る方法だって誰も知らない。原形を用意させては見たものの、さてどうなることやら。

「失敗したらどうするんだ」

「主上の前でも言ったでしょう、お前がなんとかするのよ」

「違う、あんたの体の話をしているんだ。ただでさえ負担が大きいのに、ヘマなんすれば死ぬかもしれないんだ。怖くはないのか? 」

 六華はパチリと目を瞬かせた。小さな指先で振袖の端をきゅっと握り締め、彼女は初めて手足の震えを自覚する。それでも決して俯くことはなしかった。

「怖いに決まっているじゃない。それでも、わたくしにしかできないことよ」

 やはり、この娘の意地は理解できない。聡明なくせに、どうしてもっと安全で容易い道を歩かないのだろう。

煉は溜め息を吐くと、砂のように淡々と少女を諭した。

「俺がやればいいだろう。俺も純粋な神じゃないのだからあまり変わりはしないだろうが、あんたが死ぬよりマシだ」

「マシって、なにが」

「少なくとも俺には、死んで悲しませるような許嫁はいない」

「嫌よ!」

 紅の瞳が泣きそうに歪んだ。いや、いやと必死に首を振って駄々をこねる姿は、何処からどう見ても年相応だ。そのくせ意地でも下を向かない。

「嫌よ、許さないわ。この国の、トヨアシハラの民の行く末を護るための大仕事を、ぽっと出のお前なんかに譲って堪るものですか」

 ぽっと出と評され、推定四百歳の半神は酸っぱいものを呑み込んだような顔をした。不服を絵に描いたような口もとを指差すと、六華はいつものように勝気に笑う。

「黙って手を貸しなさい、煉」

涙で濡れた頬をふっくらと赤く染め、小さな姫神は凛と笑う。煉はまた一つ溜め息を吐くと、渋々彼女の御前に膝を着いた。

「死んでくれるなよ」

「何よ、そんなにわたくしができないって言いたいの」

「そうじゃない」

 煉はほんの少し口の端を吊り上げると、へにゃりと不器用に笑った。

「今だけじゃない。俺はまだ愛なんて感情も、生きる意味も分かっていないんだ。だからせめて、あと二十五年。寿命が来るまでは生きていてくれよ、俺の主」

 人の命は儚い。サクヤヒメはもっと短くて脆くて、春の花のように散ってしまうと聞いた。だからせめて、あともう少し、ほんの少しでいいから。

 この人の子の行く末を見ていたい。

 難儀な道を自ら選び取って、短い生を燃やすように生きる彼女の物語を見届ければ、何かが掴めるような気がした。

 そしたら四百年さ迷った魂に終止符を打てると、そう思っていたのに。


 がしゃどくろと対峙し、力を使い果たした彼女は忽然と姿を消した。


 灯火が風に煽られるように六華の霊力が消えていくのを、煉は肌で感じ取っていた。

それでも決して振り返らずに、目の前の鬼を何度も何度も、何度も殺し、屠り。

がしゃどくろがガラガラと音を立てて崩れた時、六華の姿は何処にもなかった。れ慌てて霊力を辿ったが、欠片は愚か残滓すらも感じ取れない。喰われてしまったかと煉は軋むほど唇を噛んだ。しかし同時に煉の右腕を切り払おうと刀を振り上げた悪鬼は血相を変え、ふり絞るように叫んだのだ。

「おひいさま、おひいさま!待って、何処に行くんだ、やめろ、おひいさま!おひいさま、嫌だ消えないで、消えないで、消えないで!」

 ひとしきり叫んで暴れて辺りを見回し、やがて天詠鬼は朱殷の髪を振り乱して虚ろに笑った。

「ああ、愚かな番犬」

 そう言って鬼はすうっと煙のように姿を消す。傷だらけで呆然と息を吐き出す煉の眼前に、ところどころ煤けたように黒く染まった梓弓が置き土産のように落ちていた。


 天華二十二年三ノ月の十五日、夕刻。

 八雲六華は天華事変を身一つで封じ込み、その命を散らせたとされている。

 享年は十七歳。ただでさえ短い寿命にも届かぬ、泡沫の生だった。


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