始 花影とけだもの 其ノ一

都小月煉は人ではない。あやかしでもなく、怪異でもない。しかし純粋な神とも言い難い。

 雷神タケミカヅチ。その名はかつて、彼を育てた父のものだった。

 

 八百万の神が棲む国、トヨアシハラ。そのうち神代と呼ばれる時代に生まれた古い神々は、大きく二つに分けられる。

あらゆる神霊の力の源である龍脈の作用で産み落とされた天乃神あまのかみ、民の願いが魂と神格を得て生まれた地乃神ちのかみ。神話の時代、両者は激しく対立し、龍脈の根本に位置する雲威の地を巡って争った。

大地を削り、天を焦がし、人知を超えた力のぶつかり合いの果て、戦は天乃神の勝利で幕を閉じた。それから五百年ほど、天乃神は雲威に君臨してトヨアシハラの覇権を握り続けた。しかし天乃神の王アマテラスは人の世を神が支配する世界を厭い、ある少女に力を授ける。あらゆる試練を乗り越えて人々を救い、トヨアシハラを統べる始まりの帝となった彼女は神々の力を借り、雲威を出て新しい都を築く。

 そして宵花京にて、人の時代が幕を開けた。

 天乃神の一柱である雷神タケミカヅチもアマテラスらと共に宵花京に祀られ、結界の礎として力を貸し続けた。しかし、少しばかり気ままで自由を好む彼は次第に飽きを覚えた。どうせ宵花京には強大な加護が集まっているのだし、自分が抜けたところで問題はないとうそぶいて、人の世の戦乱に乗じて上手く宵花京を抜け出した。

「硬く護られた地など、いずれ腐っていくだけだ。それよりも、我は名もなき地に生きる民草の命を拾い上げてやりたい」

 そして宵花京より遥か東に下ると、彼は山奥の小さな村の古びた社に己が生み出した神器を据えて住み着き始める。四方を山に囲まれ、狂暴な獣と怪異に脅かされていた村は、タケミカヅチの加護のもと穏やかな暮らしを手に入れた。タケミカヅチも丁寧に真心を込めて祀られる生活に喜びを感じ、毎日のように社を抜け出しては村の民たちと触れ合うようになる。幸せな日々のなかで、やがて彼は村の娘と恋に落ちた。

 神と人、同じ時を歩むことはできない。しかしそれでもふたりは愛を育み、娘は神の子どもを身籠った。神の子を産み落とす代償に娘が息絶えてからも、タケミカヅチは涙を超えて忘れ形見である一人息子を愛し、慈しんだ。まだ生まれたばかりで朧げな魂を包み込み、うつらうつらと微睡むばかりの赤子を抱き締めながら怪異から村を護った。

 しかし幸福は長く続かない。泡沫が弾けるように、破滅は一瞬だった。

 アマテラスが国を人の手に明け渡した時、結ばれた制約がある。

『天乃神は人に加護を与え、悪しき神霊から人を護る。しかし人と人の争いには一切の手出しを行わない』

 それはアマテラス以下、全ての天乃神を縛る枷だった。

 タケミカヅチの降臨から僅か二十年後、村は人の手によって攻め滅ぼされた。奪われ、殺され、嘆き苦しむ愛おしい民を、タケミカヅチは救えなかったのだ。

「すまない、すまない、すまないすまないすまないッ!我が、我が在りながら、お前たちを死なせてしまった、護れなかった!すまない、すまない、すまない……」

 散らばった瓦礫の真ん中で、タケミカヅチは焼けて炭になった村人の躯を両手いっぱいに抱えて哭いた。

 燃え尽きて灰になった村は雨と共に忘れ去られ、タケミカヅチは霊力を擦り減らしていく。もう人の世に光を見出すこともできず、跡形もなく消え失せることを願った。しかし最後の一瞬、彼の手を握る手のひらがあったのだ。

「ああ、ああ、そうか。我にはまだ、お前がいたのか」

 最期に一粒涙を流すと、彼は消えそうな腕を伸ばして息子を抱き締める。

「吾子よ、愛しい吾子よ。我の代わりに、お前は人と共に生きなさい。どれだけ醜くても、愚かでも、人は愛おしい生き物なのだから」

 そうして灯火のように残った霊力を全て小さな体に注ぎ込むと、彼は光の粒になって大地に溶け込むように消滅した。


 ざあざあ、雨が降っていた。雨はいずれ雪に変わり、いつの間にか雨に戻っている。ずっとずっと、その繰り返しだった。

 滅んだ村の朽ちた社で、幼子はただ息をしていた。時折空を見上げても、外に出る気は到底起きない。移ろい、巡っていく山の景色を眺めながら、彼は微睡んだまま生きていた。

 名前はない。母は顔も知らず、父はただ吾子と呼んでいた。己の体を巡る力の名前だけは知っていたから、時折父の名でもあるそれを諳んじていた。

 神の血を引く幼子は何も口にせずとも死ぬことはない。代わりに五十年経っても五歳程度の背丈しかなかった。心も記憶も朧げで、ただ人に対するうっすらとした嫌悪と果てしない孤独がじわじわと小さな心臓を蝕んでいく。百年、二百年と経つうちにそれは病魔のように彼の魂を侵していった。

そして気付けば、四百年の時が過ぎようとしていた。

 いつの間にか体は青年といっていいほど大きくなって、濡れ羽色の髪は背丈ほど伸びていた。何百年も出していなかったわりに、声も順当に低く太くなっていて。

 ただ飢えたようにギョロリと闇を裂く、父譲りの金の瞳だけが変わっていなかった。

 人からは忘れ去られ、四百年間野ざらしのまま彼を隠し続けた社はとうに崩れかけている。それでも到底動く気にはなれず、ジッと微睡み続けていたある夜。

「お前、一人か?どう考えても人の子じゃねえよなぁ、混ざりモノの匂いがする。なんだってこんな山奥のボロ屋に転がってんかは知らねぇけど、この分じゃお前明日にゃ脳天から潰れてるぞ」

 錫杖片手にひょっこりと顔を出した一匹の天狗が、むんずと枯れ木のような腕を引いて彼を外に連れ出した。唖然としたまま声も出せず、雷神の子は引き摺られるままに一歩踏み出す。

 四百年ぶりの外は草が生い茂り、瞼の裏に焼き付いた瓦礫と屍の山はとうに土に還ったあとだった。呆然と辺りを見渡す無知な子どもの頬を、晩夏の生温かい風が撫で下ろす。

「この力、お前ひょっとして神か?にしては若すぎるけど、あやかしでもなさそうだからなぁ。名前は?そもそもお前、口きけるのか?」

 ズルズルと手を引きながら好き勝手並べ立てる天狗に腹を立て、彼は黒い翼の根本を狙って思いきり蹴り上げた。

「あっぶねえ!何すんだよ!」

「お前、誰だ」

「なんだ喋れんのか」

 風を切って振り上げられた足をひょいっと躱すと、天狗は肩を竦めてニッと笑う。

「オレは玉兎、修行中の天狗だ。お師匠に会いに山を巡る途中にお前を見つけて、あそこにいたってしょうがねえから連れて来た。お前は?」

「は……?」

「だからお前は誰だって聞いてんだよ」

 金色の目がパチパチと瞬いた。それからしばらくして、乾いた唇がゆっくりと動く。

「タケミカヅチ」

「はあ?」

「タケミカヅチ、だ」

 玉兎は目を丸くした。タケミカヅチの名は無論知っている。天乃神でも強大な力を持ちながら宵花京で丁重に祀られることを嫌い、飛び出して辺境に住み着いた逸話は有名だ。しかし凛々しい男神として伝えられるタケミカヅチが、こんなにみすぼらしい社で、浮浪児のような身なりで蹲っているなど有り得ない。しかし金の瞳に偽りの色はなく、ただポッカリと虚ろだった。

「タケミカヅチ、それいがいは、何も」

「オイオイ、どういうことだよ」

 玉兎はあんぐりと口を開け、虚ろな眼をした半神の手を引いて社に駆け戻る。ボロボロの本殿の奥、錆びた錠で閉ざされた神棚。本来板一枚程度では到底抑え切れない芳しい神気が漂っているはずなのに、僅かな残り香すら感じられない。玉兎は失礼、と小さく呟いてから錫杖の先で木を割り、懐から小刀を取り出して棚を割る。

 口を開けた神棚の真ん中に、一振りの太刀が鎮座していた。黒光りする鞘はまるで黒曜石を削り出したよう。金糸の柄巻と併せると、闇夜に迸る閃光にもよく似ている。玉兎は跪き、丁寧な手付きで刀を捧げ持った。

「神気も加護も残っちゃいねえが……間違いねえな。これは雷神タケミカヅチの神器だ。でもそれにしちゃあ妙だな?」

 朽ち果てた山奥の社。周囲に人の気配はなく、加護もクソも残っちゃいない。

 信仰を失い、忘れ去られた神は消えるか墜ちるか。カラッポだろうが神器が形を保っているということは、タケミカヅチは何処かにいる。ならば墜ちたか、と周囲を警戒しても社は愚か村の跡地の何処にも瘴気の気配は感じられない。首を捻る玉兎の脛を、彼は容赦なく蹴飛ばした。

「タケミカヅチだって、言ってるだろう」

「いやだってお前がタケミカヅチなわけ……まさか」

 玉兎は目を剥く。神気ならここにあるじゃないか。とびっきり芳しくて稲光のような鮮烈な力の気配は、きらきら光る琥珀の瞳の奥から噎せ返るように漂っていた。

「そうか、お前……そういうことか。そりゃあ確かに、お前はタケミカヅチなんだろうなぁ……にしてもお前、しんどいなぁ」

「しんどい?」

「ここでずっとひとりぼっちだったんだろ。何も知らず、自分の名前も持たねぇで、何百年も膝抱えて。そりゃあしんどいだろうよ」

 しんどい。三百年間心臓を蝕み続けた痛みを表すにしては随分簡潔で柔らかい響きは、どういうわけか穴ぼこの心臓にぴったりと嵌り込む。

 パチパチと瞬きを繰り返す金色をジッと見つめ、玉兎はニッと笑った。

「お前、行くとこも生きる理由もねェんだろう。ならオレと来ねェ?」

「お前と……?」

「そんなカラッポの目ェしてちゃもったいねェよ。お前はちゃんと、親父さんの分まで生きねェと」

 玉兎は元人間だ。一介の山伏から身を立て、人の身から山神へ這い上がるため鴉天狗を師と仰いで善行を積み続けて六百年。今はある神に仕える身で、ちょうど同僚兼弟分が欲しかったのだ。何も知らないようで、いい具合に可愛げもある。図体ばかり大きいのが玉に瑕だが。

「名前がねぇのは不便だろ。オレがつけてやるよ」

「名前ってなんだ」

「お前がお前である証だよ。そうだなぁ、お前の親父さんの神器は太刀か。だったらそれこそ煉はどうだ?」

「れん……」

「鉄を火にくべて、余計なもんを取り除いて鋼を作る工程を、オレの故郷じゃ煉って呼ぶんだよ。我ながらいい名じゃねぇか」

 分かっているのかいないのか、パチパチと目を瞬かせ続ける煉の右腕を玉兎はもう一度引っ張った。

「行こうぜ、もう一生分座り込んだろ?」

 そう笑って天狗は枯れ枝のような長身を問答無用で肩に担ぎ、トンッと空に舞い上がる。

 ひとりぼっちだった半神は、全身を包み込む風に目を見張り、ふうっと溜め息を一つ落とした。


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