澪標の花 其ノ四

「あっぶねえ!」

 太陽を吸い込んだ赤い髪、煌めく翠眼。玉兎は額の冷や汗を誤魔化すように笑うと、真っ黒な翼で宙を泳いで意識を失った那岐を拾い上げた。

「大丈夫だ生きてる!そう簡単にくたばらねぇよ!」

「玉兎、適当な場所に下ろしてください。わたくしが手当します」

 地上では黒髪を靡かせ、寧々子が凛然と立っている。那岐が呼んだ援軍か、と脳が理解する前に八重は勢いよく振り返った。紅玉の虹彩の真ん中、映り込んだのは黒鬼と対峙する濡れ羽色と金色の青年の姿だった。

「サクヤヒメを守れ、ユーリン。俺が相手をする」

煉は雷の太刀を抜き放ち、電光石火で宙を飛ぶ鬼火を全て叩き落とす。冷酷な金の瞳を睨み付け、天詠鬼はギョロリと目玉を回した。

「前のおひいさまの金魚の糞か!愚かな番犬だ、久しいねえ」

「相変わらず陰気で憎たらしい面だな、悪鬼めが」

「何しにきたんだい?お前じゃボクは祓えないだろうに」

 天詠鬼はケタケタ笑った。白銀と黒の虹彩が月光を吸い込んで妖しく光る。神速で叩き込まれる斬撃を紙一重でいなし、鬼は愛おしげに目を細めた。

「あのおひいさまはよかったよねえ。気高くて綺麗で、どうしようもないくらいバカで。あの散り際は惜しかったよ、がしゃどくろを祓って消えてしまったなんて」

「黙れ」

「何処に行ったんだろうねえ、マア生きてないだろうけど。こんなちっぽけな国見捨てちゃえばよかったのに。おひいさまが守る価値なんかないじゃないか」

「黙れ!」

 激高した煉の眼が激しい光を灯す。刃に纏わせた稲妻が大きく揺らめいて幾重もの螺旋を象り、天を穿つように上へ廻っていく。煉は雷の鉾のように伸びたそれを、剛腕に任せてブンと大きく振りかぶる。

 太刀風が月光を切り裂いた。

「お前に、お前のような下郎に!俺の主の誇りが理解できるものか!」

 雷神の怒りに夜空が応える。鬼を射抜くようにまっすぐと、藍色の天上から閃光の矢が降り注いだ。一拍遅れて、荒い呼吸を掻き消すように轟音が鳴り響く。

 息を吐き出すたびに上下する肩を、煉は何処か他人事のように感じていた。

「ああ怖い、やっぱり天乃神は恐ろしいなあ。また死んでしまったよ」

「……悪鬼め、しつこいぞ」

「ボクの台詞だよ、早く手を引いてくれればいいのに」

 全身を真っ黒に焦がし、焼き切れた肉から骨を曝け出しながら、不死身の鬼はニタリと口角を吊り上げた。しかし流石に分が悪いと悟ったのか、大きく後ろに跳んで間合いの外へ出る。

「お前の相手をしに来たわけじゃないんだ。無駄な運動は遠慮するよ」

 そして鬼は眷属の炎を従え、軽やかに空へ舞い上がった。間髪入れず追ってきた玉兎を躱し、最後に八重をうっとりと見下ろす。

「おひいさま、今晩は堪忍してくれるかい?また迎えに上がるからね」

 二つの虹彩に八重は映っていない。その魂の奥底に眠る一柱の神に熱を注ぐようにじっとりと目を細め、フッと微笑む。

 次の瞬間、天詠鬼の姿は跡形もなく掻き消えていた。

「いなく、なった……?」

「あの鬼の十八番ですよ。玉兎、どうですか」

「ダメだ、うっすら広範囲に瘴気を張り巡らせてやがる。追跡ができねぇ」

「お前は何百年経ったら役に立つようになるんですか?」

「おいふざけんなよ相手は半神半鬼だって言ってんだろうが!格が違えんだよ、クソ……次は上手くやってやる」

 玉兎は歯を剥き出して虚空を睨んだ。喧噪と剣戟が嘘のように訪れた静寂と月影が、啓蟄宮の惨状をはっきりと浮かび上がらせる。

 抉れた地面、折れた木、踏み潰された花々。辺りには硝子の破片が屑のように散らばり、割れた窓の向こうは真っ黒に塗り潰されている。

 夢から引き戻されたようにハッと目を見開き、八重はユーリンの背から飛び降りた。

「那岐さんは無事なんですか⁉」

「心配なさらずとも血は止めました。あばら骨が何本か折れていますけれど、まあ大人しくしていれば治ります」

 駆け寄った八重に、寧々子は僅かに微笑んでみせる。しかし菫色の瞳は冷え冷えと傷一つない彼女を見据えていた。ぐったりと倒れる那岐の白い手足から血は拭き取られ、傷口の一つ一つに清潔な布が貼られている。夥しい数の傷に息を呑む八重の肩を、大きな手がポンと叩いた。

「嬢ちゃん、アンタの気持ちは分かるぜ。だから抱えんなとは言わねえ。でもな、オレらの仕事は元からこうなんだ。今日はたまたま那岐が怪我をして、任務の中身がたまたまアンタの護衛だったってだけで」

「それでも、わたしが動けていれば」

「結果は変わったかもな。でもそんなこと言ったってしょうがねえよ。だからさ、悔やむより誇ってやってくれねえ?凄いんだよ、こいつ。人の身で見事に時間を稼いでみせてさあ。こんな細い体だけど、煉と同じくらい腕っ節が強いんだ」

 そう言って玉兎はニッと笑い、那岐をひょいと拾い上げて肩に担いだ。

「アンタが無事でよかったよ。なあ寧々子、お前もそれは異論ねえだろ」

「わたくしは何も言っておりませんけど?」

「お前自分が思ってるより分かり易いんだよ。じゃあオレたちは総督府に帰るぜ、那岐を医局に連れて行く。ユーリン、お前もそろそろ辛いだろ」

 ユーリンはピクリと毛むくじゃらの耳を揺らし、ゆっくりと寧々子の傍らでくるりと回って人の姿に戻る。幼い童女はゼエゼエと肩で息を切らしていて、倒れ込むように寧々子の肩に寄りかかった。

「がん、ばった……」

「よしよし、えらい子ですね」

「お前の五倍年長だけどな、そいつ」

「黙らっしゃい」

 寧々子に容赦なく頭を叩かれ、玉兎はチェッと口を尖らせてから煉に向き直った。赤い髪が鞭のようにしなって宵の空へ流れていく。

「煉、嬢ちゃんは任せたぜ」

 翠眼に映る煉は未だに刀を抜いたまま天を仰ぎ、喘ぐような浅い呼吸を繰り返していた。しかし玉兎の一声でモソモソと納刀し、ゆっくりと振り返る。カラッポの琥珀は世界を映し出し、正気を取り戻して気まずげに動いた。

「玉兎、八重も一緒に」

「連れて行かねえよ、医局に向かうって言ったろ。居場所が割れた以上嬢ちゃんはもうここに置いて行けねえし、お前が責任持って暁宮まで送ってやれよ」

「暁宮……伊吹に預けるのか」

「それが一番安全だろうが、何呆けた面してんだよ。そんなんじゃ何も守れねぇぞ」

 玉兎はギロリと煉を睨んだ。煉の心臓の最も柔くて繊細な部分に彼の言葉が突き刺さる。こういう時、玉兎は決まって正論以外を口にしない。

いつだって正しさで背中を蹴飛ばしてくれる年上の親友に、煉は何度救われてきただろう。寧々子とは違って、絶対に口に出したりしないけれど。代わりに小さく頷くと、玉兎は吊り上げた両目を和らげた。

「悪い、分かってる」

「だろうよ。じゃあな、精々気張れ。嬢ちゃんもおやすみ」

 那岐を担ぐ玉兎とユーリンの手を引く寧々子が揃って踵を返し、啓蟄宮を後にする。残された煉はそっと去り行く彼らの背を見送る八重の傍らに立った。

 声をかけようと口を開き、眉間にシワを寄せて黙り込む。今更、何を言えばいいのだろう。

 桜月夜の下で会った時は柄にもなく高揚してしまって、余計なお節介まで焼いてしまったのに。次の夜にはもう、微笑みかけることすらできなくなっていた。

 喉が強張る。こんなところを見せたら、玉兎にはまた笑われるだろうが。

 黙りこくって俯く煉の隣で、少女は小さく呟いた。

「ユーリンさんにお礼、言えませんでした。あんなふうになるまで頑張って、守ってくださったのに」

 煉は何も言わずに目を泳がせる。ユーリンはきっと気にしていないし、次会う時にでも言ってやればいい。思い付いた言葉はやはり喉の奥で詰まってしまう。しかし八重は返事を求めずにゆっくりと言葉を綴り続けた。

「那岐さんはわたしを逃がしてくださいました。玉兎さんが空から飛んできて、寧々子さんはいつの間にか現れて手当てを済ませてしまって。煉さんはあの怖い鬼を退かせて。目に映る全てが絵巻物みたいに浮世離れしていて、何処か違う世界の出来事みたいに思えました。そう信じて、思い込んで、逃げてしまいたいって思ってしまったんです」

 胡蝶の夢のような光景だと思っていた。しかし荒れた庭が八重に現実を突き付ける。

 傷も、叫びも、覚悟も、全て本物だった。まるで十三年前のように、目の前で命が奪い合われる。そしてその元凶は間違いなく、自分の存在そのもので。

「だからこそ、目を逸らさないって決めたんです」

 サクヤヒメとして、現人神としてどう在るべきか。きっと求められる道は沢山あって、その上で那岐は自分で決めろと言ってくれた。だから八重は覚悟を握り締め、グッと顔を上げる。

「煉さん、わたしを神祇特務隊に入れてくださいませんか」

「駄目だ!」

 思考を通す間もなく、煉の本能が全霊で拒んだ。

 凍て付いていたはずの喉も、瞬時に曇った紅の瞳も、今は意識の端にも入らない。あるのは焦燥と拒絶だけだった。

「駄目だ、拒否する。あんたを受け入れるつもりはない」

「確かに今はお役に立てないかもしれません。でも、わたしのなかにいる神様には破魔の力があるんでしょう。それを上手く使えるようになれば、きっと」

「必要ない!」

 吠えるように叫んでからようやく、煉は己の感情がこれ以上ないほど沸騰していることに気付いた。八重がはっきりと傷付いた表情を浮かべていることも。煉は唇を噛み締めて俯いた。

「すまない、だが駄目だ。あんたはこちらに来るべきじゃない」

 彼女が悩み抜いて打ち明けた決意を叩き落とす瞬間、血を吐くような心地がした。しかし煉の心はとうに決まっているのだ。何か言いたげな八重に構わない振りをして、煉はさっさと歩き出した。

「今から暁宮に向かう」

 背後で八重が息を呑んだ。暁宮に庶民が立ち入ることはまず有り得ない。しかし今の八重は第二皇子の庇護の下で生きる現人神だ。恐らく、啓蟄宮の襲撃は既に伊吹には伝わっている。待っていてもいずれ指示は来ていただろう。

「国で最も安全な場所だ。天詠鬼の脅威が消えるまで、あんたはそこにいればいい」

 八重は返事をしなかった。ただゆっくり、重たい足取りで後ろを着いて来る気配が一つあるのみ。煉も振り返らなかった。今の表情を見られるわけにはいかない。

 恨まれるくらいがちょうどいい。八重という少女の生きる道に、己が影を落とすわけにはいかないのだから。

「天詠鬼の始末が終わったら、あんたはもう不要になる」

「え?」

「そうなるように俺が何とかする。だからあんたは身の振り方を考えろ」

「どういう意味ですか」

「あんたが知る必要はない」

「ふざけないでください!」

 煉は目を丸くした。煉にとって、紅坂八重とは儚くか弱い少女だ。怯える顔は痛いほど知っている。笑顔も、ほんの少しだけなら。

 しかし、声を荒げて怒りを顕わにした姿なんて、一度たりとも見たことはなかった。

「十三年前、あなたはわたしを救ってくださいました。あなたと先代様が拾い上げてくださった命なんですから、お二人のように暁花京を護りたいんです」

 八重の瞳が淡く燃える。かつてのサクヤヒメによく似た、しかしほんの僅かに淡い紅色。まるで篝火に照らされた桜花のように、儚く激しい光が淡く瞬く。

 煉は酷く億劫そうな仕草で振り返ると、ギロリと彼女を睨み上げた。

「あんたに何ができる。ただ守られるばかりのあんたに」

「それは、その通りです。でもわたしに、わたしのなかに神様がいるんでしょう。だったら今からでも、神様の力を借りられるように努力を」

「はっきり言わないと分からないのか?」

 ぎりりと噛み締めた唇から、タラリと鮮血が流れ落ちる。

「あんたはサクヤヒメに相応しくない。覚悟も技量も、何もかも半端な者に務まる役目じゃないんだ。ただの町娘が、暁花京を護るだと?笑わせるな」

 紅の瞳が傷付いたように揺らめいた。煉は俯くように目を逸らし、そっと前の道に視線を戻す。

「数日以内にケリを着ける。用済みになるまでは何もせず、ただ生きていてくれ」

 煉はそれきり口を噤んだ。これ以上喋れば、心が溢れてしまうと知っていたから。

 サクヤヒメになんて、なって欲しくなかったのだ。

血の匂いも命の感触も知らずに生きていて欲しかった。もう手遅れだとしても、これ以上は何も見なくていい。見て欲しくなかった。

 だからどうか、こちら側には来ないで。ただ人として生きて、いつか眠るように死んでくれればいい。

 願わくば、なんの変哲もない平凡な幸せを。

 なんせ、壊れかけた自分を救ってくれたのは他でもない彼女なのだから。

 言葉にならない願いが小さな溜め息となって、ひとひらの花と一緒に宵闇に消えた。背後の足音がやけに弱々しいのは決して気のせいではないだろう。ざくざくと煉瓦を踏み付けながら、煉は粛々と月夜を歩き続けた。


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