澪標の花 其ノ三
それから三日間、啓蟄宮の時はゆっくりと流れていった。実質的な軟禁とは言え、那岐とユーリンのおかげで退屈はせずに済んだ。那岐は物言いが率直で世話焼き、ユーリンは自由な気性でいつの間にやらふらりと姿を消し、ひょっこりと戻ってきては甘えるように抱き着いてみせる。二人が何かと気にかけてくれるおかげで、八重は心穏やかに過ごすことができていた。
そして夕刻。とりとめのない話を交わすなかで、那岐はふと思い出したように切り出した。
「それにしても、まさかおまえが先代を知ってるなんてね。おまけに総隊長にも。やっぱり先代みたいに憧れてた?かっこいいよね、あの人」
「……そうですね、憧れもあります」
「も、ってことは、ほかもある?」
八重の頬が朱に染まる。二人の視線から逃れるように俯いて顔を隠す乙女の恥じらいは、春爛漫の景色によく映えていた。ボソボソと蚊の鳴くような声が風に乗って小さくたわむ。
「あの、誰にも言わないでくださいね」
恥ずかしい、でも別に隠したいわけじゃない、堂々と胸を張っていようと決めたのだから。八重はぎゅっと唇を噛んで、意を決するように顔を上げた。
「初恋なんです。ずっと、お慕いしていたもので」
「へえ!やっぱり女の子は強い男が好きってこと?」
「いいえ、そうではないんです」
那岐は仮面の裏で目を見張った。花ぼんぼりの如くぼんやりと灯った炎が、紅がかった瞳のなかでゆらゆらと揺れる。
「お姫さま……先代様は何処までも強くて、気高くて、優しくて。少なくともわたしは、そんなふうな姿しか知りません。だからずっとあんな人になりたいって思って生きてきたんです。でも、煉さんはそうじゃない。それだけじゃなかったんです」
「本気で言ってる?総隊長は強い人だよ、あの人が弱気になってるところなんて見たことないんだけど」
「わたしはあります。一度だけ、あの方の涙を見たことが」
八重は静かに呟いた。
壊れた暁花京、咲き始めの夜桜と灯りの下、朧月の路地裏。それからもう一度、八重はあの美しい金色の瞳に見つめられた記憶がある。彼はもう覚えていないかもしれないけれど、八重はきっと生涯忘れない。ヒビが入った水晶のような人なのだと知ったあの瞬間に、心臓が燃えるように軋んで、それからずっと囚われたまま。
「それからずっと、わたしはあの方をお慕いしているんです」
那岐は二の句が継げずに黙り込んだ。取るに足らない平凡な娘だと思っていた。しかし、何か、何処かに獣が棲んでいるような、そんな得体の知れない予感が胸を突く。
「おめがたかい、ね」
那岐とは対照的に、ユーリンは酷く上機嫌になってすりすりと八重の頬を撫でた。
「レン、なかなかよわいところ、みせないから。ヤエはたぶん、けっこうきちょう」
「えー?弱気な隊長なんて想像できないや」
「ナギはしゅぎょう、たりない」
ユーリンはぴょんと飛び跳ねて那岐の頭を小突く。それから横にふわりと着地し、八重の腕にしがみ付いてじいっと目を合わせた。黒と橙の瞳が夕暮れの影のようにふわりと蕩ける。
「これからも、すきでいてあげて」
「ええ、もちろん」
「ありがと、ね」
ユーリンは小さく、しかし瞬く星のように眩しく笑った。珍しくとぼけた顔を崩して八重にしがみ付く小さなあやかしにつられ、八重も笑みを零す。
しかし生温い空気を叩き壊すように、誰かが寝室の扉を乱暴に叩いた。
那岐は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、ズレた狐面を抑えてユーリンを振り返る。
「あれ、誰か来るんだっけ。ユーリン、なんか聞いてる?」
「なにも」
那岐はふうんと不機嫌に呟いた。啓蟄宮は皇室所有の離宮だ。故に元々立ち入れる人間は限られている。特にサクヤヒメの居所となった今、特務隊員以外の出入りは許されていない。護衛の交代や増員なら報せがくるはずだが。
仮面の裏の眼がすうっと細められる。那岐はいつもと変わらない調子で、しかし油断の欠片もない所作で扉の前に立った。
「侵入者かな。サクヤヒメ、動かないで」
「は、はい。分かりました」
一気にぴしりと張り詰めた空気に息を呑む八重を庇うようにユーリンが一歩前に出る。
「たぶん、にんげんじゃない」
「そう、全部で何体?」
「ろく。ひとり、ぶきみなのがいる」
「穏やかじゃないねえ。警備は何してる」
那岐は腰の刀に手を当てる。そしてふうっと息を吸い込み、腹の底から絞り出すような大音声で怒鳴った。
「何用だ。所属と氏名を言え!」
「これだから人間は嫌なのさ。馬鹿の一つ覚えみたいにペチャクチャと、よくぞ飽きないもんだよ」
ざらついた声を狼煙に、重厚な扉が粉々に砕け散った。
「クソッタレが!」
那岐は思い切り刀を抜き放つ。轟音に息を呑んで後退る八重の前で、ユーリンはパンと手を叩いて飛び上がった。
くるりと空中で一回転、すると童女はたちまち一匹の猛々しい虎に姿を変える。
「ユーリンさん⁉」
「さがって!」
ユーリンはグルグルと吠えながらピシャリと叫んだ。砕けてパラパラと舞い散る木片の向こうから、異形はゆらゆらと柳のように揺れる五つの青い炎を従えてぬっと現れる。
「今晩は、ご機嫌いかが?」
暗夜の化身の如く真っ黒な瘴気を身に纏い、鬼はニヤリと不敵に嗤った。
腰まで伸びた朱殷色のザンバラ髪は、まるで錆び付いた血を頭から被ったよう。額からは黒曜石のような艶のある角を二本生やしている。隙間から覗く両目は左が白銀、右が黒。ベッタリと鮮血で染まった太刀を二振り両手で振りかざし、戯れのように脇の化粧台を両断した。
青い炎は異形の周りを取り囲み、踊り狂うように蠢く。那岐の背筋を冷たい汗が滴り落ちた。
本能が喚いている。この鬼は只の怪異なんかじゃないのだと。
「なにこいつ、黒鬼⁉」
「テンエイキ、だよっ」
「はあっ⁉」
那岐は素っ頓狂に叫んだ。まさかこんなに早く居場所が嗅ぎ付けられるとは。舌打ち一つ落とす暇もなく、青い炎がゆらりと恐ろしい速さで那岐に襲いかかった。寸前で交わしたせいで髪が一束焼き焦げて千切れる。炎は嘲笑うようにくるりと回った。
「お前みたいな雑魚に用はない。ボクはただおひいさまに逢いに来たんだよ。何百年も何千年も、醜い肉の器に囚われたままの可哀想なおひいさまにね」
天詠鬼は八重をピタリと視線で捉え、うっとりと頬を染めて微笑んだ。八重の全身がにわかに粟立つ。一目で魂の底の底まで暴かれる、妖術紛いの恐ろしい笑みだった。
「ナギ、えんぐん、よんで!ふたりじゃ、ダメ!」
「分かってる!」
那岐は素早く懐に手を突っ込み、赤く塗られた竹筒のようなものを勢いよく後ろに放り投げる。炎の合間を縫って飛んでいく竹筒は硝子窓をガシャリと突き破り、ドンッと鈍く破裂して煙を吐き出した。同時にユーリンは八重の服を咥えて、体ごとトンッと上に跳ね飛ばす。
「ユーリンさん⁉」
「だいじょうぶ、しんじて!」
ユーリンは落ちてくる八重の真下に自身の体を滑り込ませ、四本足を折り曲げて衝撃を和らげる。ボスンと柔らかい音に受け止められ、気付けば八重は虎の背に跨っていた。八重の喉からひゅうと乾いた音が鳴った。
那岐は炎を躱しながら一歩踏み出し、天詠鬼をめがけて袈裟に斬り込む。二刀で受け止められ、一歩後ろに下がっては再び上段に切り上げる。鋭い剣戟を彩るように火花が舞った。
青い炎に照らされ、狐面が妖しく光る。那岐はぐんと右足を伸ばし、間合いに捉えた鬼の腹を思い切り蹴り飛ばした。
天詠鬼は毬のように壁際に叩き付けられる。頭から血を流し、雪と闇の両眼がギョロリと那岐を睨み上げる。
「人間にしてはいい腕だねえ、惚れ惚れするよ」
「お褒めにあずかり光栄だね」
那岐は一気に距離を詰め、一刀で首を切り飛ばす。血飛沫が高波のように舞い上がり、壮麗な天井の木彫り細工を赤黒く汚した。
「死んだか?」
「冗談はよしてくれ」
那岐は反射的に飛び退る。まさか、と背後を振り返ると、五尺ほどの距離に首のない天詠鬼がぬらりと立っていた。
「言ったじゃないか、人間にしてはって。可哀想にねえ」
生首は血だまりの真ん中でケタケタ笑った。すかさず追撃を放とうとした那岐に天詠鬼の眷属である青い鬼火が襲い掛かる。彼が炎を躱す隙を衝いて、別の鬼火が首を胴体の元まで運んだ。傷口に宛がわれた首は瞬く間にくっつき、頭の傷も幻のように消え失せる。那岐は思わず舌打ちを飛ばした。
「クッソ化け物が!」
「ボクが今まで何千回殺されてきたと思う?お前如き、何度斬られたって意味なんかないさ。どうせそのうちすぐに死ぬよ、人間だもん」
ギイギイとからくりのネジを巻くように首を回しながら、天詠鬼は冷めた目で太刀を振りかざす。那岐はひょいっと受け止め弾くと、一度跳んで距離を取った。狐面の下の素肌を詰めたい汗の粒がとめどなく転がり落ちる。
「ああ、そうかもね。おまえと違ってこの命は一度きりだ」
「分かってるんなら早くおひいさまを頂戴よ。そしたらすぐにでも帰ってあげる」
「あんまり人間を見くびるなよ」
那岐は後ろ手に革袋から黒い筒を抜き放つ。手のひらに収まる小型の銃は西海からの輸入品で、既に弾は込められている。チラリと視線を寄越したユーリンは心得たように頷いた。
「欲しいなら奪ってみせろよ、化け物!」
那岐はガチャリと引き金を引く。刹那、ユーリンに纏わり付いていた鬼火が四散した。
鈍い破裂音を合図にユーリンは態勢を低く取ると、床を踏み抜くようにダンッと強く地を蹴り上げる。虎の目線を察知した天詠鬼はぐわりと両目をかっぴらいた。
「待て、待て、待て待て!ボクを置いて行くな!おいて、いかないで、やだ、嫌だ、おひいさま、やめろ、行くな、いくなァ……!」
天詠鬼は狂ったように叫び散らし、鬼火どもの動きがピタリと止まる。その隙を見逃さず、那岐は鬼の腹をもう一度蹴り飛ばした。
「早く行けユーリン!」
「つかまって!」
手を伸ばし滅茶苦茶に振るわれる二つの刃を、那岐は紙一重で全て払い落とす。代わりに弾けた鬼火がぶわりと燃え上がり、無数の火の玉がユーリンに襲い掛かる。八重は思わず身を竦ませ、震える手でふさふさとした首にしがみついた。
「ユーリンさん、那岐さんが」
「だいじょうぶ、あのこはつよい」
「でも、あの人の狙いは」
「なにもかんがえないで」
ユーリンは風を切り裂くように跳んだ。四つの足で鬼火を全て躱し、割れた窓に向かって一直線にひた走る。硝子を突き破る直前、橙と黒の温かい目が八重を捉えた。
「ぶじでいれば、それでいい」
ガシャン!
透明の欠片が月夜に散らばっていく。きらきらと大地に降り注ぐ硝子と円舞(ワルツ)を踊るように、一人と一匹は宙に身を投げ出した。
ドスンと走る衝撃を耐え、ユーリンは軽やかに立ち上がって走り出した。八重は背中に跨ったまま呆然と天を仰いだ。上では未だに烈しい鍔迫り合いが繰り広げられている。
「にげるよ」
「でも……!」
「ここにいちゃだめ」
那岐を案じる八重の言葉をユーリンは頑なに拒む。八重を逃がす那岐の判断が最適解なら、ユーリンにも応える義務がある。啓蟄宮に背を向けて走り出そうとしたユーリンに、八重は静かな口調で問い掛けた。
「ユーリンさん、あれは怪異ですか」
「もっと、こわいいきもの。かみさま、にちかい」
「墜ち神、ですか」
「そうとも、いわれてる。はんぶん、おにで、はんぶん、かみさま」
八重は一度瞑目した。拳を握って、開いて、唇を噛んで、そうやって恐怖を喰い殺す。紅玉の瞳が暁の空のように燃えていた。
「なら、わたしが行きます」
「ヤエ?」
「わたしは武器なんでしょう。かみさま、なんでしょう?」
ユーリンは目を見開いた。
八重の瞳は酷く凪いでいる。恐怖と動揺で声も出せなかった姿なんて嘘のように、小さな背中がピンと天を衝くように伸びていた。
駆ける四本の足が鈍り、鮮やかな橙の体がブルブル揺れる。ユーリンは途方に暮れた。
ユーリンの役目は八重を連れて逃げること。那岐を犠牲にしてでも、彼女の安全を確保するのが軍人としての任務だ。分かり切っているはずなのに、八重の瞳を見てしまったから。
何も知らない彼女は、それでも那岐のために命を賭ける覚悟を決めた。恐怖が消えるわけもないのに、必死に魂を奮い立たせて。その強さを、美しさを、ユーリンは知っている。
「……やっぱり、かみさまじゃ、ないよ。あなたも、あのひとも」
「え……」
「かみさまは、そんなかお、しないから」
半端モノのユーリンは知っている。あやかしは賢く、神は恐ろしく、怪異は悍ましい。そして人は何よりも弱くて脆い生き物だ。だから人は命を賭ける。生きるために、生かすために。
かつて覚悟を決めて全てを護り、散っていった乙女を知っている。彼女もまた神様のように恐ろしい力を持っていたけど、人のように命懸けで生きていた。
だからユーリンは、どうしようもなく八重の背中を押したくなってしまうのだ。
「どうしよう、ね」
「ユーリンさん、お願いします!」
「ほんと、どうしよう……!」
思考がグルグル回る。ユーリンは決断が苦手だ。八重を向かわせるべきじゃない、そんなのは分かっている。でも本当は、那岐を見捨てたくなんかない。何より、か弱くて強くて美しいこの子の想いに応えたい。
優しい虎はついに立ち止まり、背後を仰ぎ見て判断を迷う。しかし、その一瞬の躊躇いが命取りだった。
「みいつけたあ!」
鬼火が毬のように跳んでユーリンの頭に襲い掛かる。咄嗟にユーリンは体を捩った。八重とユーリンの視界の隅で、人影がふらりと破れた窓から落下していくのが見える。
暗闇を見通す虎の眼は、影の頭部に括り付けられた狐面を捉えていた。
「ナギ!」
「やっぱり人間は駄目だねえ。おひいさまもそう思わない?」
どす黒い霧を纏った鬼が笑う。しかし八重の目にはひびの入った狐面だけが映っている。心臓が割れるように軋む。ゆっくりゆっくり、那岐の体が地面に近付いていく。
壊れていく世界を、すんでのところで滑り込んだ影が真っ二つに切り裂いた。
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