澪標の花 其ノ二

散歩、と称して那岐が二人を連れ出したのは啓蟄宮の庭園だった。まだ朝ぼらけの時間帯、ひやりと張り詰めた空気を差し込んだばかりの陽光が溶かしていく。ユーリンは無口なようで、ぎこちなく言葉を交わす八重と那岐をよそに黙りこくって着いてきた。しかしやがてふっと姿を消してしまう。

「あっ、あの那岐さん。ユーリンさんが」

「あー……大丈夫、どうせフラフラしてるだけ。なんかあったら飛んでくるよ」

「でも、うっかり転んでしまったら危ないですし……」

「大丈夫大丈夫、てか聞いてない?子どもじゃないんだよ、あいつ」

 さっさと歩き出す那岐の背を追って、八重は慌てて駆け足になる。あたふたと辺りを見回す八重の気配に肩を竦めると、那岐は狐面を弄びながら立ち止まった。

「ユーリンは母親があやかしでね。半妖ってやつなんだけど、あれでそれなりに生きてるんだよ。百三歳くらいだったと思う」

「ひゃ、ひゃくさんさい」

「びっくりでしょ。特務隊は人間じゃない奴も多いよ。総隊長も、玉兎さんだってそうだしね。だから大抵の珍事は気にしなくていいの」

「そういうものなんですか……?」

「そういうもんなの。よし、今日も綺麗だ」

 那岐は周囲をぐるりと埋め尽くす桜の大木をぐるりと見渡して、満足げに両手を伸ばす。八重は吊られるようにほうっと溜め息を吐いた。

「本当に、この街は何処に行っても桜が綺麗ですね」

「桜は要なんだよ。この暁花京を護る花だからね」

 那岐はそう言うと、手近な桜の木にそっと触れた。淡雪に一滴の紅を垂らしたような淡い花びら。この季節は帝都の何処を切り取っても同じ色の雨が降っている。

「どれも同じ品種なんだよ。八重桜や墨染桜もなくはないけれど、ほとんどは吉野桜って名前の、人の手で作り出された種の木が植えてある。下町は特にそう。濃い色の桜は滅多に見ないでしょ」

「確かに、言われてみればそうですね。どうしてなんでしょうか?」

「吉野桜は子孫を残せない代わりに成長が早くて病気にも強い、苗木を作るのも生み出すのも簡単。とにかく数が必要だったからね、都合がよかったんだ」

 そして那岐はまるで悪戯でも仕掛けるように、八重にグッと詰め寄った。

「いい機会だから教えてあげる。この帝都が如何に安寧を保っているのか、その仕組みを」

 顔は全て狐面で覆われているのに、何故か視線で射抜かれているような凄味が伝わってくる。八重は思わず唾を呑み込んだ。

「古来より、結界の強化として花木を植えるのは常套手段でね。宵花京には月草や菊が、雲威には梅が、空帆には椿が咲き乱れているんだ。いずれも結界の核になっている神器や、それを生み出した神々にまつわる花で、尚且つ魔除けの作用があるものばかり。暁花京はそれが桜だった。ねえ、どうしてだと思う?」

「えっ、どうしてと言われてもわたし、ちっとも」

「外してもいいから。なんで帝都の守護は桜なんだと思う?」

 八重は首を傾げて俯いた。どうして街に桜が溢れているか、なんて考えたこともなかった。生まれた頃から帝都は桜の園だったのだ。それこそ、天華事変で壊されるよりも前から。

「……桜の神様の加護を受けているからでしょうか」

「うん、まあ間違いじゃないよ。じゃあ質問を変えようか。おまえは何?」

「サクヤヒメ、ですか?」

「そう。桜はサクヤヒメを象徴する花だからね。この都に加護を与えたのはサクヤヒメだったんだよ」

 紅がかった瞳が零れ落ちんばかりに見開かれる。

「わたし以外にサクヤヒメがいるなら……その方は、今何処にいらっしゃるんですか」

「もういないよ。十三年前、天華事変で命を落とした。命を引き換えに、がしゃどくろをたった一人で祓って百鬼夜行を鎮圧したって聞いてる」

 八重は息を呑み、グッと拳を握り締めた。十三年前、あの災禍で命を落とした先代。きっとこの世で最も知らなくてはならないのは自分だ。どれだけ戸惑おうと、せめて知ることからは逃げてはいけないと思った。

「サクヤヒメの器は人から現人神に変ずる。半端な存在だけど、膨大な霊力と芳しい神気を自在に扱えるようになれば、それはもう純粋な神と大差はない。その点、あの人は信じられないほど優秀だったらしい」

 那岐は桜の大木をそっと撫でる。狐面が天を向いた。透き通る空の向こう、雲居の果てにいる誰かを見ている。

「元々この地は神霊の加護が薄い。帝は本来、天府のある空帆に都を移すつもりだったらしいよ。あそこはこの辺りじゃ特別で、天府を治める八雲家が人為的に張り巡らせた加護と結界が三百年間機能し続けてる。武家の都として、既に宵花京より栄えてたしね。でも結局できなかった」

「武家の反発があまりにも多かったことと、独自の結界のせいで降伏後も天府の機能の完全な解体はままならないと判断されたから、ですよね」

「へえ、よく知ってるじゃん。特に後半は知らない人も多いんだけど」

「弟に教えてもらったことがありまして。賢い子なんです」

暁花京は特に地形に恵まれているらしい。農地は多く、大きな川の流域で、三方は山で囲われている。しかし、都ができる前は荒れ野も同然だったらしい。

「神の力の源は龍脈から湧き出る霊力だけど、それを維持するのは人の信仰だ。人がいなければ神は形を保てない。だから辺境にはまともな土地神がいなかったりするんだ。この辺りもその例に漏れなかった」

不毛の地に築かれた暁花京。勅令の下で完成してからも数年放置され、天府と朝廷の争いの終結を待って都となった。何千人もの人間が更地を切り開き、石を運び、煉瓦を敷き詰めて造り上げた黎明の都は、天華十年の初夏にようやく帝を迎え、名実ともに首都となったのだ。

灯火の下で本を見せてくれた陽典の眼が輝いていたことを、今も何となく覚えている。

「西や南は古くから栄えたせいでわだかまりが多すぎる。北は遠すぎて他に目が届かないうえ、未開の地も多い。結局東国のなかでも地形に秀で、かつ空帆や西国にも目を光らせていられるこの地が選ばれた」

「そんな経緯があったんですね……」

「あんまり知られてないんだけどね。でもやっぱり、神霊の加護の不足は深刻だった。そこで力を奮ったのが先代のサクヤヒメ。当時はほんの小さな女の子だったらしいよ」

 神事を司る神威省が総力を挙げたが、土地一つ覆えるほどの結界は只人がどれだけ死力を尽くしても作り出せない。故に首都になってからも五年間は怪異が頻発し、少なくない犠牲が出たらしい。唯一の例外である空帆の人口結界は失われた技術である神通力と人柱が核になっており、そう易々と真似ることはできない。八方塞がりの最中、殿上したサクヤヒメは帝に向かってはっきり言い放ってみせた。

『何故このようにお粗末な守りを許しているのですか』

 跪くことさえせず、十歳の現人神は階の上の玉座をまっすぐ睨み付ける。緋袴を颯爽と揺らす彼女の背後で、膝を着かせようと泡を食って飛んできた大人が五人ほど千切っては投げられた。腰の刀を抜くことなく朝廷の武官を伸した護衛の青年は腕を組み、傲然と辺りを睨み回している。さながら野生の獣のような男を従える少女は、大人たちから向かられる畏怖と敵意を背に艶やかに笑った。

『ここは無能と腑抜けばかりね。主上、あなたはどうかしら。わたくしのような小娘にこの地を、都の民を託すだけの気概はお持ちでらっしゃる?』

『お主に何ができる』

 玉座の天蓋から薄い紗が垂れ下がっているせいで、帝の姿を見ることは叶わない。しかしだからこそ、その言葉の響きは正確に彼の真意を伝えていた。

 糾弾ではない。帝はただ問うている。お前には、現人神には何ができるのか。どうすればこの地を護ることができるのか。

 少女は花が綻ぶように瞳を輝かせる。話が分かる大人を見つけた、と言わんばかりの高揚を声に滲ませて、彼女は優雅に首を垂れた。

『暁花京の守護の要となる神器を生み出して御覧に入れましょう。紛い物とは言え、わたくしも破魔の力を持つ神の一柱には違いないのですから。ねえ、煉』

 少女の背後で、彼はジッと玉座を見上げる。心底不本意だと言わんばかりに唇を尖らせ、金色の瞳はじんわりと瞬いた。

『……人間は嫌いだが、六華とは契約を交わしてしまったからな。俺も力を貸してやる』

『御安心下さいな、この男は雷神タケミカヅチの血と名、霊力と神気を余さず受け継いだ半神。わたくし一人では不足とお思いでも、コレがいれば安心なさるでしょう』

 現人神の少女と半神の青年。紛い物と混ざり者、半端モノ同士の歪な主従。しかし彼らこそ、暗雲が立ち込める暁花京に差し込んだ一筋の光芒だった。

「都小月総隊長は半分が神、半分が人の半神でね。そのころは特務隊もなくて、サクヤヒメの従者兼用心棒で召し抱えられてたらしい。その前は何やってたか知らないけど、当時はサクヤヒメの右腕ってことで神器造りにも尽力したとか何とかで」

「そう、なんですか……」

「びっくりだよね。結構伝説なんだよ、あの人」

 息を呑んで硬直した八重の反応をどう受け取ったのか、那岐は曖昧に狐面を逸らした。

「二柱の神が力を注いでできあがった神器は暁花京の結界の要になった。内側で発生した瘴気は払い、外側からは魔を寄せ付けない。雲威や宵花京はともかく、空帆の結界に劣らない強度だったんだよ。天華事変まではね」

 天華事変。その単語が出た途端、八重の肩がまたピクリと動いた。

「……そういえば、煉さんが仰ってました。結界は怪異の侵入を防ぐことはできるけど、内部で発生したとなれば話が変わると」

「その通り、今はほとんど外側に対してしか機能してない。天華事変で神器が損傷を負ってね、修復もできなかった。特務隊はその代替に作られた組織なんだよ。暁花京内部に巣食う魔を祓い殺すのが自分らの仕事。無数の吉野桜も同じだよ。幾らあっても足りないんだ」

 花の盛りの暁花京。同じ時期、同じ香り、同じ色の桜が狂ったように花を咲かせて、散っていく。決して消えない傷を抱えて、今年も春が巡っていく。またひとひら、護り花が空へ昇る。那岐はそれをジッと見ていた。

 一方、八重は呆気に取られていた。

 暁花京の加護、先代のサクヤヒメ、壊れかけた結界。平穏に影を落とし続ける十三年前の災禍、それから。

『どうか、しあわせになってくださいましね』

冬に咲き誇る花のような人。彼女を護るために振るわれる閃光の刃、守り人だった青年。忘れられない、魂に焼き付いて離れない二つの存在。

 思考が、感情がグルグルと渦を巻く。しかし口から零れ落ちたのはその片鱗にも満たない、とぼけたような言葉だった。

「……あの方、サクヤヒメだったのね」

「え、まさかおまえ知ってんの?」

「十三年前、わたくしと弟を救ってくださった方が二人いたんです。一人は煉さんでした。もう一人は先代様だったんでしょう。美しく気高い、大輪の椿のような方でしたから」

 胸が潰れるような心地がする。守るのが役目だと笑って、軽やかに駆けていった人。

「ずっとずっと、憧れていました。お姫さまみたいで、でもかみさまみたいで。本当に神様だったなんて知らなかった。確かにぴったりだわ」

 ざわざわと静まらず、妙に浮かび上がるような感情が熱を帯びる。八重は大きく息を吸い込んだ。そして心を吐き出すように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「那岐さん、一つお聞きしてもいいですか」

「うん、なぁに」

「先代様が神器を造られたのなら、わたしは何をすべきなんでしょうか」

 己がサクヤヒメであること。破魔の力を持つこと。それが事実だとして、なら自分はどう在るべきなのだろう。少なくとも、こうして花見をして微睡んでいるだけではいけないように思えた。

 八重の問いに那岐は少し考え込んで、それからフッと顔を背ける。

「酷なことを言うと、サクヤヒメの依代になった時点でおまえの寿命は縮んでいるんだ。人が神の力を得るんだからね。破魔の力を使えば使うほど、際限なく削られていく。サクヤヒメとしておまえが何かを為そうとするのなら、それは自分の命を燃やすのと同義だ」

 思わず目を見張った八重に、那岐は知らなかったの、と口のなかで呟いた。仮面の裏で少々目を見開きながら。玉兎や寧々子ならともかく、煉がこんなに大事なことを教えていないとは思わなかったのだ。八重の唇が小さく震えた。

「どれだけ長く見積もっても、おまえに残された時間は三十年ってところだろうね」

「……長くはないですね」

「おまえを飼い殺して、その長くない時間を費やさせるのが政府の役目だ。なんでも命じられるだろうね。囲い込んで駒にしたがる者も出てくる。知らない男と結婚させられるかもしれない、謀略に巻き込まれるかもしれない」

 サクヤヒメは人ではない。純粋な神でもない。人のための武具であり、道具だ。伊吹も分かっているから八重を囲い込んだ。誰かの心を踏み躙ってでも守るべきものがあると、四半世紀も生きていない彼は既に知っているから。蒼褪めていく八重の顔を眺めながら、那岐はそれでも、と妙に語気を強めて言い放った。

「おまえの心はおまえのものだ。おまえはただ、おまえが望むように進んでいけばいい」

 神でも、あやかしでも、人でも、心を縛ることなど誰にもできないのだから。

 曖昧で無責任な答えだ。しかし、きっとこれ以上に誠実な言葉もないのだろう。

「あなたは、あなただから。だいじょうぶ」

「わっ!」

死角からにゅっと首を突き出してきたユーリンに、八重は軽く飛び上がった。しかし那岐は慣れた様子で頭を撫でてやる。子どもではないと言えど、甘やかすのは習慣らしい。

「おー出てきた。何処行ってたの」

「おくのほう、フリージアがきれいだよ」

「ふりーじあ……?」

「西海の花だよ。香雪蘭こうせつらんって呼んだりするんだけど。水仙みたいな白い花でね、香りがすごくいいんだ。見てみる?」

「いこう、ヤエ」

 ユーリンはぴょんと飛び跳ねて八重の腕にしがみ付き、じいっと目を合わせてみせる。

「見てみたいです。連れて行ってくださいな」

八重はにっこりと微笑んで、降りしきる花びらのなかを一歩踏み出した。


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