澪標の花 其ノ一

場面は切り替わり、再び啓蟄宮。鳥の鳴き声に八重はパチリと目を覚ました。

 お天道様が顔を覗かせたら体を起こす。しかし目に映るのは煤けた天井でも六畳の小さな座敷でもなく、精緻な彫刻で飾られた天蓋とだだっ広い西海風の居間。そして八重の隣に丸まってすやすやと寝息を立てる白い髪の童女だった。

 窓から差し込む暁の光は何ら変わらないのに、八重はこのまま一生布団に潜り込んでしまいたくなった。

 夢ならよかったのに。平凡で細やかな日常は何処に行ってしまったのだろう。

 そう思ったのも束の間、視界の外から淡い影が飛び込んできた。

「サクヤヒメ」

「えっ」

 いつの間にか真横に立っていた人物は狐面で覆った顔をにゅっと突き出し、瞬きを繰り返す八重の目をジッと覗き込む。煉や玉兎と揃いの軍服姿から特務隊員であることは伺えるが、如何せんそれ以外が何も分からない。しかし狐面はまるで百年前からの知り合いのように八重の肩を叩いた。

「ねえ、散歩でも行かない?おまえどうせ暇でしょ、ユーリンも叩き起こして行こうよ」

「は、はい⁉」

「あとさ、今日どうする?このままじゃ何もやることないって。総隊長殿の命令じゃ宮から出なきゃいいんだし、少しくらい歩こう」

「待ってください、あなた誰ですか⁉」

 八重は思わず素っ頓狂な声を上げた。すると傍らのユーリンがパチリと目を覚ます。

「ヤエ、どうしたの……ああ、ナギ」

「ユーリンおはよ。寝ちゃダメでしょ、任務中だよ」

「おひさま、でるまではおきてた」

「ならまあ頑張った方かな?どうなんだろ、おまえの生態よく分かんないし」

「ねるこは、そだつの」

「おまえいつまで子どもなんだよ」

 ユーリンの頭を撫でながら、狐面は気まずげに頭を掻く。表情が見えない代わりに、仕草や声色には鮮やかな感情がありありと現われていた。

「あー、ごめん。自分は透切とおきり那岐。神祇特務隊所属、一応第三分隊長なんてやってる。おまえの見張り兼話し相手だよ」

 透切。八重でも知っている高名な神職の家系だ。天華事変で親を亡くしながらも豊かな霊力や才能を持つ子らを救民院から引き取り、一流の術師や神祇省に仕える高位巫女を輩出した話は有名だ。八重はあっさりと納得した。

「そうでしたか。よろしくお願いいたします」

「で何すんの。自分、休暇は好きだけど暇は嫌いなんだよね」

「そうですね……」

 へにゃりと眉根を寄せ、八重はきょろきょろと視線をさ迷わせる。何をしたいのか、と問われれば帰りたくなってしまう。このまま部屋にいても同じこと。趣味もあまりない八重にとって、気を紛らわせる手段はそう多くない。

「いいですね、お散歩。行ってみたいです」

「よし来た、行こう。ここの庭はなかなかだよ」

「ユーリンもいく」

「当たり前でしょ、おまえ護衛なんだから」

 ぺちりと軽く叩かれたユーリンはプイッとそっぽを向くと、八重の胸に甘えるように頬を寄せる。那岐は呆れたように肩を竦めた。

「お子様め。じゃあサクヤヒメ、支度しといてよ。着替えはそっちに揃ってるから。自分は少し出る」

「どちらへ行かれるんですか?」

「朝餉もらってくるよ。少人数じゃ食堂使っても無駄だし、それよりはここで一緒に食べた方いいと思って。おまえはそれでいい?」

「ええもちろん。賑やかな方がありがたいですから」

「自分もその方が好きだよ。じゃあ行ってくる」

 ひらひらと手を振って去る後ろ姿は華奢で、軍人とは思えないほど儚く見える。那岐を見送ると、八重はユーリンに手を引かれて身の丈よりも高い衣装箪笥を開けた。西海様式の箪笥には両開きの扉が付いていて、華やかな洋装が何着もつり下げられている。それも紅や桃、萌季や紺青など、花や宝石のように色合いも鮮やかで、一目で上質と分かる美しい意匠と柔らかい手触りのものばかり。八重は思わず目を剥いた。

「こんなに沢山、しかも素敵なものばかり……こんな花びらみたいな装飾、間近に見たのは初めて」

「それ、フリルっていうの。こっちはレェス。したのひきだし、ふつうのきものもあるよ」

「……こっちも凄まじいわ」

 開いた口が塞がらないとは正にこのこと。松竹梅だの鶴だの牡丹だの絢爛な文様が丹念に織られたものから、淡い色に銀糸で透かし刺繍が入ったものまで、華族の花嫁衣裳かと見紛う一級品ばかりだ。

「どうして。わたしはただの、何もできないちっぽけな女なのに」

「ヤエ」

「分からないわ、わたしは……わたしは一体、何者なの」

 どうして。何度も何度も、一晩のうちに擦り切れるほど反芻した言葉が再びせり上げてくる。これほどの扱いを受けておきながら、自分が何者かはちっとも分かりやしないのだ。サクヤヒメ、神器の依り代、現人神。それぞれの意味を頭が解しても、心は追い付いてくれないのに。

「いいんだよ、ヤエ」

「え……?」

「ふあんになっても、かんがえても、うたがっても、たちどまってもいい。ユーリンにいえるのはそれだけ、だけど、でも、わすれないでほしい」

 ユーリンはぎゅっと八重の腰に抱き着いた。幼くたどたどしい声が、水晶玉のように透き通ってカランコロンと転がっていく。

「あなたが、なんであろうと。あなたはあなた、なんだよ」

 目頭に柔らかい火が灯る。八重は一度両手で顔を覆い、ゆっくりとユーリンの頭を撫でた。

「ありがとうございます、ユーリンさん」

 ほんの僅かに滲んだ、じんわりと温かい声。ユーリンは顔色一つ変えずに、しかしなんだか楽しげに頭をブンブンと振り回す。それから八重の手を引っ張って箪笥を覗き込み、衣装の山を物色し始めた。

「ヤエ、はやくえらんで。ナギきちゃう」

「ええ、そうですね。どうしましょう……」

「なにいろがすき?きものと、いこくのふくと、どっちがすき?」

「色は淡い紅か、鮮やかな紅梅が好きなんです。着物と洋装だったら……少し、洋装を着てみたいかもしれません。一度も袖を通したことがなくて」

「じゃあこれ!」

 ユーリンが選んだのは桜色と紅梅を混ぜたような色合いの、薄紅色のスカァトだった。ふわりと大輪の花のように広がる裾には白いレェスがあしらわれている。それに薄い上衣―ブラウス、というらしい—を合わせる。これは八重自身が黒を選んだ。何となく、花は夜の方が映えると感じたから。

 姿見を覗いた瞬間、息を呑んだのは言うまでもない。

 息を弾ませてあれもこれもと手を伸ばす二人の後ろで、ガチャリと扉が開く。

「お待たせ、っていうか仲良くなってない?あーおまえ、それいいね。似合ってる」

「ほ、ほんとうに⁉変じゃないですか」

「控えめに見えるけど、おまえは芯が強そうだから黒も映えるんだろうね。下のもそれ、八重桜みたいだ」

「でしょ、でしょ!ナギ、わかってる」

「まあ多少はね」

「あっ、ごめんなさい!運んできて下さってありがとうございます!」

 那岐は自慢げに肩を竦めつつ、器用に三人分の盆を二本の腕で運んでいた。八重は慌てて二つ引き取って部屋の中央の脚付き机(テーブル)に並べる。ユーリンもちょこちょこと寄ってきて、三人は顔を付き合わせて座った。

「じゃあ手を合わせて」

「「いただきます」」

「はーい召し上がれ」

「つくったの、ナギじゃないでしょ」

 ユーリンに冷たくつつかれ、那岐は狐面越しにわざと泣き出すふりをする。湯気を立てる朝餉は西海のものではなく、豪勢ではあるが馴染みの深いトヨアシハラのものだ。つやつやと輝く白い米を前に固まる八重に、那岐は器用にも狐面の隙間から味噌汁を一口すすってみせた。

「着る物はどうにでもなるけど、食べ物は慣れてないと辛いこともあるから。基本的には知ってるものが出てくると思う」

「そう、ですか」

「でも美味しいよ。ここの料理番は一流だからね」

 八重は卵焼きを一切れ口に運ぶ。仄かに甘く柔らかい卵がほぐれ、じわりと出汁が滲んでいく感覚はよく知っている。無論自分が作るものとは比べ物にならないけれど、それでも変わらない日常の味がした。

 日常と非日常を往ったり来たりで、頭がどうにかなってしまいそうで。不思議で不安で恐ろしくて、それでも何処か温かくて。ふわふわと心が浮いたり沈んだりする、この感覚は何処か夢を見ているようだった。


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