秋霜三尺 其ノ三
未明ごろ、曙町を小さな影が一つ駆けていた。古びた着物姿の黒髪の少年は、周囲に絶え間なく警戒の視線を走らせながら暗い砂利道を独り突き進む。そして彼は棟割り長屋が並ぶ下町の北端、ポツンと孤立したように佇む一回り大きい長屋の前で立ち止まると、向かって右手から二番目の扉を四度叩いた。
「ごめんください、桧木さん」
「誰だ?」
「ヒナタです」
「よし、お入り」
お決まりの符丁に合わせて、内側からガチャリと重たい音がする。少年は素早く扉を開けて内側に体を滑り込ませると、間髪入れずに膝を着いた。
「おかえり、よく頑張ってくれたね」
「只今戻りました」
「無事で何よりだ。顔を上げてくれ」
ヒナタは命じられた通りに顔を上げる。七畳ほどの殺風景な座敷の真ん中で、陽典の主君はピンと背筋を伸ばして立っていた。隅に一つだけ置かれた燭台の灯りがぼうっと揺れ、男の清らかな碧眼をうっすらと浮かび上がらせる。
曙町の外れに住み、学にあぶれた少年少女に仕事を任せて本と銭を与える男、『桧木』。正体は第二皇子伊吹その人である。
識別名ヒナタ、本名は紅坂陽典。彼は二年ほど前に聡明さと才を見出されて志願し、彼の『眼』の一人となった。『眼』とは、伊吹が私的に抱える諜報部隊だ。『桧木さんに呼ばれた』は『眼』が任務に赴く際の符丁で、朝廷の炊事場から農村、港、宵花京、東西南北まであらゆる場所に入り込む。暁花京に放たれた『眼』のなかでもヒナタは飛び抜けて優秀で、伊吹は特に目をかけていた。
「報告を聞かせてくれ」
「はい」
一つ命じれば、彼は淀みのない口調で不足なく応える。
「あれから、叔父上の様子はどうだ?」
「大変落ち着かれています。怪異討伐後は恙なく清明宮に入られ、現在は床に就かれています」
「石蕗叔父上を襲った怪異については?」
「後に特務隊より報告が上がるでしょうが、元は雲威の神獣だそうです。天詠鬼の手で捕獲され、怪異に墜とされたのちに放たれたものだと」
「天詠鬼だと?間違いないのか」
「獅子の腹から一匹の蛇が見つかりました。蠱毒によるものだそうです」
百匹の毒虫を壺に閉じ込め殺し合わせる蠱毒術。生き残った一匹は強烈な瘴気を孕み、それを食わせれば神獣でも瘴気に耐え切れず墜ちてしまう。天詠鬼の常套手段の一つだった。
「だが、何故奴は叔父上を狙ったのだろう。あの瞬間、お前は何か見えたか?」
見鬼の才に加え、異常を見つけ出し見極める観察力でヒナタの右に出る者はいない。伊吹の信頼に、ヒナタは打てば響くように即座に答えた。
「獅子の怪異が皇弟殿下に飛びかかると同時に、怪異の口から影のような黒い塊がまろび出るのが見えました」
「塊だと?」
「はい。黒い弾丸のような塊が飛び出し、殿下の左胸に吸い込まれるように消えていきました。瘴気に上手く紛れていたので、あの場で捉えられたのはおれだけだと思います」
「なるほど……」
伊吹は深く考え込んだ。
しかし彼は怪異の専門家ではない。ヒナタが持ち帰った情報を全て帳面に記入すると、伊吹は小さく微笑んでみせる。
「御苦労、助かった」
「お役に立てて何よりです」
「叔父上の監視を続けてくれ」
「はい」
音もなく立ち上がった彼が踵を返す前に、伊吹はグッと頭を下げる。
「すまなかったね」
ヒナタは思わず絶句した。事実上の皇太子である伊吹が頭を下げるなど、天と地がひっくり返っても有り得ないことだ。ヒナタは堪らず再び床に膝を着く。
「顔をお上げください。何故謝るのですか」
「私はお前に、姉君を差し出させてしまった」
優秀な間者と言えども、たった十四歳の少年から唯一の家族を奪った罪は背負わねばならない。誠実な主君の態度に、ヒナタは酷く慌てた様子で首を振った。
「あの人が無事なら、おれはそれで充分です。伊吹さまが頭を下げる必要は何処にもありません。それに、咎められるべきはおれの方です」
「どうしてそう思う?」
「姉の件はもっと早く御報告するべきでした。封鬼術でごまかしてまで隠し立てたんです、叛意と見做されても何も言えません」
『眼』は主に嘘を吐けない。嘘を禁じる呪いで縛られているからだ。だからヒナタは口を噤んだ。サクヤヒメを探しの命が『眼』の総員に下されたのはもう、ひと月も前だった。
ヒナタは優れた見鬼の目を持っている。故に、誰よりも早く姉の異常に気付いていた。霊力が異様に増したことも、人ではないナニカに変じたことも、変質した魂の形が神のそれに酷似していることさえ一目で見抜いた。しかし、神気が定着し切るまで報告を躊躇ったのは、姉が当たり前の日常を失うことを憂いてしまったから。
忠臣とはほど遠い。情を天秤にかけて、結局姉を危険に晒してしまった。
「あなたへ捧げる忠誠に嘘はありません。おれも、おれなりに暁花京を愛している。ですが結局、私欲を切り離すことはできませんでした」
ヒナタはまっすぐ伊吹を見上げる。配下の方から主君と目を合わせるなど不敬だ。それでも、鈍く光る濃紺の目を逸らさないことが彼なりの義の示し方だった。
「よろしいのですか、おれなんかを傍に置いて」
「……お前は素直な子だね」
伊吹はスッと膝を着いてヒナタの頭をぎこちなく撫でた。『眼』になった後も家族と暮らす者はそう多くない。幸せに、と枕詞が付いていたのは彼くらいだった。
「大丈夫だよ。お前は私に従っただけだ。自分を責める必要はない」
「しかし伊吹さま、おれはあなたの心に背きました。おれはもうただの紅坂陽典ではありません。今のおれはあなたの『眼』で、道具なのに」
伊吹はそっと舌をギリリと噛んだ。そうでもしないと、情けない悲鳴が喉の奥から溢れてしまいそうだった。『眼』は軍人ではなく、殉死しても名は残らず名誉も与えられない。しかし身一つで偵察を行うせいで犠牲は後を絶たない。彼らの屍を見るたび、伊吹は自分を殺してしまいたくなる。
「……道具であることは否定しない。私自身がどう思おうと、そう扱っているのは事実だ」
「ならば捨て置いてください。役に立たない道具に何の価値がありましょうか」
「それでも私はお前たちを愛している。だが私はいつか、お前のことも死なせてしまうかもしれない。だから、せめて心だけは死なずにいて欲しいんだ」
本当は誰も殺したくない。傷付いて欲しくない。それでも民を、国を心から愛しているから手を汚し、無数の屍を背負って立つ。沢山の宝物を、もう一つだって失わないために。
瞳に宿る晴天に似合う人間になりたかった。十三年前、家臣の反対を押し切って民の救助を強行して散った兄のように。
誰よりも強欲な皇子は、使い捨てるべき者の幸せさえも希う。
「仰せのままに、おれの主さま」
蒼穹と烏夜、昼と夜の眼差しがぶつかり合う。不器用で歪で真摯な主従は、夜明け前の街の隅でそっと息を吐き出した。
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