秋霜三尺 其ノ二
「前方に複数の馬影を確認!石蕗皇弟殿下御一行で間違いありません!」
「そうか、分かった」
途端に空気がきんと張り詰める。口では好き勝手に囃し立てたとしても、彼らは皇族から絶大な信頼を寄せられる特務隊の精鋭。手を抜くことは決してない。
門前に並べられた篝火がパチパチ音を立てる。弱々しく吹き付ける風に火の粉がふわりと舞った時、壁上から再び鋭い声が降る。
「開門します!」
ゴオンと銅鑼が鳴り響き、両脇に控えていた衛兵が鉄の錠前を解いて八人がかりで巨大な門扉を押し開けた。ギイギイと音を立てて扉が開いていくたび、壁の外にポッカリと空いた穴のような闇が垣間見えていく。
一寸先も見えない闇に塗り潰された穴の中央、街道の真ん中に馬影が五つするりと滑り込む。闇を切り裂くようなそれが現れた瞬間、周囲の者は示し合わせたように同時に跪いた。
「すまないね、こんな夜更けに」
先頭で手綱を握る男がそっと進み出る。白髪交じりの髪、穏やかに凪いだ青い双眸を持つ壮年の男。身を包む旅装は質素だが上質なもので、匂い立つような品格を纏っている。
石蕗は晩夏の夕暮れのような微笑を浮かべて、心底詫びいるように眉を下げる。
「忍んでくるつもりが見つかってしまうなんて。返って面倒をかけてしまったね」
誰もが顔を伏せ押し黙るなか、煉は立ち上がったまま静かに一歩踏み出した。篝火の躍動に合わせるように、濡れ羽色の髪が微かに揺れる。
「気にする必要はない。無事で何よりだ」
「あなたは……そうか。そういうことか」
「今上帝、並びに第二皇子殿の名代として、このタケミカヅチが馳せ参じた。清明宮まで御身の安全は保障する」
金の瞳の奥底で閃光が迸る。稲妻が人の形をかたどったような男は、自らを都小月煉ではなくタケミカヅチと名乗った。
石蕗の笑みに小さく亀裂が入る。
「あなたが御出ましになるとは思わなかった。ましてやその名を自ら名乗るとは。与えられた名など、あなたにとっては取るに足りないものだっただろうか」
「己から逃げるのを辞めただけだ。煉も都小月煉もタケミカヅチも、結局俺に変わりない」
琥珀と黒曜石が交わり、目には見えぬ火花を散らせる。しかし石蕗はすぐに目を逸らし、蛍日のような微笑を作り直した。
「すまない、動揺してしまったね。雷神の加護に感謝を」
「……何故暁花京に来た?今この都は何かと物騒だ」
「なに、ただの物見遊山だよ。すまないが、そろそろ連れて行ってもらえないだろうか。もうたんと迷惑をかけてしまったんだ、これ以上無駄な時間を使わせるわけにはいかないんだ」
「承った」
煉が応えると同時に玉兎と寧々子が立ち上がって彼の脇を固める。しんと静まり返った夜の地平に獣が通るような奇妙な緊張がすうっと解けようとした、その時。
「総隊長!外から一匹侵入します‼」
ゴウゴウと空気が爆ぜるように烈風が吹き荒れ、辺りを手当たり次第に蹂躙する。
篝火が怪物のように膨れ上がって掻き消え、ずらりと並んだ木の足が音を立てて崩れ落ちる。ぼんやりと浮かび上がる朧月の下、真っ黒な獣が一匹闇の向こう側から飛び出した。
鎧のような漆黒の皮膚に覆われた、獅子によく似たソレは獲物を見定めるように白く濁った眼をぐるりと回す。そして石蕗と煉を見つけると、獣は三日月のような口をニタリと歪めてヒュウヒュウと黒い煙を纏わり付かせたような炎を吐き出した。
「怪異、か……?」
「恐れ入りますが殿下、お下がりくださりますよう」
「衛兵、門を閉めろ!特務隊は全員臨戦状態で待機だ!煉に道を譲れ!」
呆けるように獣を見つめる石蕗を庇い、寧々子がスッと前に出る。傍らでは玉兎が札を取り出して構えていた。護衛役の二人に石蕗を任せ、煉は一人真っ向から獣と対峙する。
「黒い皮膚、白い眼球、瘴気混じりの炎を吐く獅子か。神獣たる獅子がそう簡単に怪異に落ちるとは考えにくいが……」
「今考えることではないでしょうこの愚か者。後で調べさせなさい」
「煉、生け捕りにしとけよ。殺したら消えちまう」
振り返らずに頷いて、煉は力強く地を蹴った。
風を突き抜けるように駆けながら太刀を抜き放つ。稲妻を纏う白刃が電光石火で閃き、雷光が空中に鋭い軌跡を描く。風に煽られた軍帽が地に落ちるより早く、雷の刃が獅子の怪異に打ち付けられた。
ガキン!豪快に刃が跳ね返され、鈍い音が鳴り響く。煉は顔を顰めた。
「やはりあの人魚のようにはいかないか」
獅子は狛犬と並び立つ神獣であり、常に芳しい神気を纏っている。故に怪異が放つ瘴気への耐性も強い。怪異と成り果てた今、強い加護は瘴気の鎧となって刃を弾いていた。
獅子の怪異はグルグルと唸りながら鋭い牙と爪を振りかざして煉に襲いかかる。隙間なく繰り出される攻撃を刀で受けると、狙いすましたように炎の咆哮が吹き荒れた。煉は猛攻を躱し、いなし、弾きながら怪異を石蕗から遠ざけていく。それから、煉は刀を思い切り振りかぶって力任せに怪異の腹を殴った。獣は劈くような咆哮を上げながら吹き飛び、既に閉ざされていた白虎門にぶち当たる。
ひっくり返って藻掻く怪異をジッと見据え、煉は太刀を正眼に構え直す。刀身が光を放ち、金色の瞳が焼き焦がすように燃え盛る。それは、彼が持つ膨大な霊力が純粋な神気に還元された証だった。
琥珀が熱を帯びる。煉は再び飛びかかろうと身構える怪異を見据え、握った太刀を幾分か離れた間合いから大きく振り下ろした。
閃光が闇を切り裂く。雲もまばらな晴れた夜天から突如轟いた雷鳴に、石蕗や従者たちは思わず耳を塞いだ。
音が消え去る瞬間、石蕗の視界に空から降り注ぐ一筋の稲妻が飛び込んだ。黄金の光は流の如く空を駆け巡り、槍のように収束して怪異を貫く。禍々しい怪物は雷に貫かれたあと、ビクリと体を跳ねさせて動かなくなった。
恐る恐る塞いでいた手を離す。反動のように静まり返った門前に、刀が納まる音がカチャリと響いた。
「これが
石蕗は静かに呟いた。霊力を封じる、記憶を消す、瘴気を浄める。人間やあやかしが扱う術の類いとは比べ物にならない。もっと原始的で強靭な、事象そのものを操る神の力の、その片鱗。かつては素質のある人が振るう方法もあったが、過ぎた力を疎んだ時の権力者によって封じられて久しい。今となってはもう誰にも扱えぬ、忘れ去られた力だ。たった一人、この男を除いては。
「あなたは強い。ただ人では到底敵わない。人が辿り着く至高の、その先にいる」
石蕗の心臓が熱を帯びる。
都小月煉は人ではない。あやかしでもなく、怪異でもない。しかし神とも言い切れない。
タケミカヅチ、それが彼を示すもう一つの名だった。神と人の間に産み落とされ、四百年の時を生きる半神半人。故に彼は皇族と対等であれる。トヨアシハラでたった一人、人と神の狭間に立つことを許された調停者なのだから。
熱が爆ぜるように鼓動が加速していく。稲妻が掻き消え、篝火が倒されたせいで濃い闇に覆われた門を朧月が淡く浮かび上がらせる。石蕗は小さく息を吐き出した。
「それだけ強く気高く在りながら、何故。なぜ、あなたは」
その先は紡がない。どうしようもないと分かっていたから。
石蕗はただ口を噤んだまま、目の前の光景をジッと見つめた。
意識が途絶えて動かなくなった怪異を特務隊員たちが拘束する。幾重にも縛の術式で戒められた獣を一際大きな男が肩に担ぎ、詰め所が置かれる北の総督府まで運んでいく。その様子をぼんやり眺める石蕗に、控えていた寧々子が恭しく膝を折った。
「畏れながら殿下、夜も更けて参りました。清明宮まで我らが御供いたします」
「ああ、よろしく頼むよ」
笑え。そうすれば世界は回っていく。
石蕗は微笑み、軽く手綱を引いて歩み始める。初夏の風のように穏やかで清々しい、非の打ち所のない微笑だった。
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