秋霜三尺 其ノ一
啓蟄宮は暁花京内に存在する三つの離宮のなかでも最も小さく、その分護り易い。瀟洒な西海様式の庭は高い壁に囲われていて、さながら優美な鳥籠のようだった。
叢雲が風に飛ばされて、朧月が僅かに顔を出す。月下に照らし出された薄紅の雪ははらはらと舞い落ちて、煉が手を伸ばすと途端に闇に溶けて消えていった。
「寧々子」
「なんでしょう」
「八重と相対した時、俺はうまくやれていたか」
「後先考えずに逃がさなかっただけ上出来でしょう」
温度のない声に、煉は安堵するように小さく息を漏らす。宮の二階、光が灯ったままの一室をぼんやりと眺めながら、濡れ羽色の毛に包まれた頭は絶え間なく回っていた。
「あれだけ芳しい霊力を撒き散らしておいて、自覚がないなんて有り得るのか」
「無理もありません。八重さんには封鬼術が施されていたようですから」
「何だと?」
煉は瞠目した。見鬼と対になる、神霊を感じ取る目や霊力を封じる呪術。ほとんどの人間が多かれ少なかれ持って生まれる見鬼とは異なり、複雑な術式を必要とする封鬼を扱えるのは一握りだ。八重のような平凡な娘には縁のない、神霊に関わる世界でしか目にかかることはない。
「誰の仕業だ?術者の家系でも神職の血筋でもない、天涯孤独の娘だぞ」
「考えてもみなさいな、ならどうして彼女が政府に見つかったんですか。そもそも自衛のすべもない少女が自覚もないまま、怪異にも食われず生き延びるなんて不可能です」
サクヤヒメが顕現し、器である紅坂八重に宿ったのはひと月前。神の力が定着し、彼女が現人神として完成するまでの間、器の霊力は急激に増していく。天詠鬼に見つからなかったとしても、野良の怪異に喰い殺されるのは時間の問題だっただろう。
「先ほど遣いから報告がありました。八重さんの弟君は殿下の『眼』の一人、それもかなりの有望株だそうです」
「告発者も弟か」
「そのようで。情けないですね、都小月」
煉は何も言えなかった。ただ渦巻くやるせない感情を押し殺すのに必死で、言葉を選ぶ余裕もなかった。
「現人神の霊力を抑え込んでいたんです、相当な才の持ち主ですよ。もうほとんど解けているも同然でしょうが、よく保たせたものです」
「もう一度封じ直すことはできないのか?」
「大抵の術者には無理でしょうね。わたくしならできますよ。まあわざわざ術をかける理由は見当たりませんけど」
「……そうか」
「命じられればやりますけど、どちらにせよお前の判断です。わたくしには関係のないことですから」
寧々子は感情を全て凍て付かせたような顔で冷たく切り捨てた。彼女が笑うのはユーリンを撫でるときと見知らぬ相手と接するとき、それから四人のうち誰かに差し向けられた呪いを跳ね返すときのみ。晩秋の凩のような彼女を、煉は恐れると同時に酷く頼りにしていた。
「ありがとう」
「なんですか気持ち悪い」
「うるさい。お前がそんなふうにいてくれるから、俺はまだ立ち止まらないでいられると思ったんだ」
「まるで人みたいなことを言うんですね」
刹那、二人の背後から小さく足音が鳴った。菫色の瞳がすうっと細められ、煉は流れるような所作で太刀の柄を握り締める。しかし凍て付いた空気はすぐに霧散した。
「よお、待たせちまったみてぇだな」
「お前ですか。面白くありませんね」
「……そんなに戦いてぇのかお前」
「当然でしょう。あんなに燃やし甲斐のありそうな獲物を譲って差し上げたんですから」
「おーこわ。お前だけは絶対敵に回したくねぇわ」
気が立っている寧々子ほど恐ろしい生き物は存在しない。玉兎は一人溜め息を吐いた。
「で、追加任務ってなんだよ。嬢ちゃん連れて来て終わりじゃねぇのか」
そろそろ月も西に傾く頃合いだ。煉は欠伸を漏らす玉兎と、彼の頭を小突く寧々子を順繰りに睨んでから静かに告げる。
「伊吹から命が下りた。白虎門に向かう」
「ああ?なんでオレたちが。警衛なら当番組んでるだろうが」
暁花京を囲む砦壁の西側に設けられた白虎門は西方からの玄関口だ。帝都に存在する四門のなかでも特に人の出入りが激しく、結界に綻びが生じれば最も致命的な穴になる。故に通常の衛兵に加えて特務隊の精鋭が日夜警備に当たっているのだ。
「アイツらがそう簡単にヘマするかよ。それに今は怪異の気配もしねぇのに」
訝しげに首を捻る玉兎に、煉は淡々と任務を告げた。
「子の刻のころ、
「皇弟殿が⁉」
翠眼が見開かれる。それはまさに青天の霹靂だった。
現在トヨアシハラを統べる帝は風雲児とも呼ばれる男だ。三十五年前、元服して間もなく即位するなり遷都を強行し、以降西海の国々に喰らい付くような改革を大砲の如く繰り出し続けてきた。天華事変の際はその手腕を駆使して膝元たる上町から曙町のような下町まで復興を推し進めた。苛烈な気性は嵐にも例えられるが炎のような生き様がたたり、三年前から病気がちになっている。現在は公務の半分以上を伊吹が引き継いでいる状態だ。
十歳下の皇弟・石蕗はふわりと楽天的で、風のように掴みどころのない温厚な気質の男だ。兄とは正反対に政争を嫌い、旧都宵花京にて蟄居同然の生活を自主的に行っていたはず。
寝耳に水を振り撒かれたような事態に玉兎が目を剥く。煉はちらりと寧々子に視線を向け、彼女は呆れたように溜め息を吐いた。
「八日前、数人の従者だけを連れてお忍びで発たれたそうで。街道に赴いていた『眼』の報告で初めて政府に伝わったんですよ」
「有り得るのか、そんなこと?」
「有り得ないに決まっているでしょう。お上は泡吹いてますよ、ただでさえサクヤヒメと天詠鬼で手が足りていないのに。実に哀れで大変結構です」
玉兎は実に嫌な顔をした。
「……お前はそういうやつだよな。それにしても、怪異が異常発生してるって時に皇族を入れるのかよ」
「追い返すわけにもいきませんよ。まあ無礼で不義理なのはあちらですから、公にはせず歓待するそうですよ。あとは我々の他に、既に『眼』の監視が張り付いているとか」
「にしてもなぁ。おかしいだろ、どう考えても」
玉兎は酷く胡乱な顔で西の方角を見る。何ともきな臭い話だ。
「あの喧嘩嫌いの頑固者が暁花京まで出てくるもんかぁ?確か引きこもってたはずだろ。存在自体が争いの芽になっちまう身分なんだから」
現帝と正反対の性質を持つ石蕗。現帝の即位前、その強引な政断に反発する勢力が水面下で彼を擁立しようと暗躍した。故に彼は謀反の芽が芽吹く前に継承権を破棄し、遷都後も表舞台には決して近寄ろうとしなかった。それが今になって、何故姿を見せたのか。
「探るのはこっちの仕事じゃない。それに目的が不明瞭な以上、大事をさけるために今夜は伊吹も出てこない」
「なるほどなぁ。お前の役目は皇族の名代か」
「……不本意だが」
「主上の体調は芳しくないようですし、伊吹さまは天詠鬼の件でお忙しいのでしょう。
伊吹の兄である第一皇子・槐は天華事変で命を落としている。暁花京に住まう直系皇族は帝と後継者である伊吹、そして幼い末姫のみ。故に煉に白羽の矢が立つのは初めてではなかった。
カラカラに乾いた唇を噛んで、煉は肩口に手を伸ばす。縫い付けられるはずの階級章は小さな針で固定されているだけで、引き抜けば呆気なく外れた。
少佐位という楔を外す時、彼は正式に皇族と対等な身分になる。
「行くぞ」
視界の端で灯がふっと消える。煉は一瞬だけ暗い帳が下りた二階に目をやると、花嵐に背を向けた。
啓蟄宮から四半刻ほどひた走り、三人は白虎門の前で短く息を吐いた。篝火に照らされた巨大な門扉は硬く閉ざされている。門の両脇と壁の上では、黒衣の軍人たちがそれぞれ数人ずつずらりと居並んで周囲を警戒しており、彼らは煉の姿に気付くとパッと目を輝かせて一斉に敬礼を取った。
「総隊長!寧々子様!お疲れ様です!あっ副隊長もいたんですね」
「お二人ともご無沙汰しております!お待ちしておりました!玉兎さんお疲れ!」
「なんかオレだけ扱い軽くねえか⁉仮にも副隊長だぞ⁉」
「今朝も宿舎で裸のまま歌ってた輩を敬う趣味はない」
「……お前ら、ウチ以外じゃ首切られんぞ」
玉兎は小さくぼやいた。陸軍において、神祇特務隊の立ち位置は特殊だ。陸軍の一組織でありながら、神祇の一切を司る神威省の管轄でもある。采配は全て帝の信任の下、第二皇子の伊吹と総隊長の煉が行っている。事実上の独立部隊だ。故に生粋の軍人はほぼ席を置かず、陰陽師上がりだの呪術の専門家だのあやかしだの前科者だの、はぐれ者の寄せ集めと化している。空気感も独特だった。
構成員はたおやかな老人からあどけない少年少女、青瓢箪のような青年に妖艶な美女、強面の大男とまるで統一性がない。なかには狐面で顔を覆い隠している者さえいる。煉は彼らを諫めることなくグルリと見回すと、僅かに口角を緩ませた。
「夜更けまで元気で結構。お前たち、伝令は届いているか?」
「はい!クソ忙しい時に何してくれてんでしょうね本当に!」
「とっとと帰ればいいと思います!」
「副隊長、追い払ってくれよ」
「ほんとに元気だなテメェら!他所の連中だっているんだぞ⁉」
仮にも皇族に対してこの言いよう。他の衛兵たちから突き刺さる視線に頭を抱える玉兎をよそに、彼らはワイワイと賑やかに声を降り注がせる。しかし煉がスッと片手を上げると途端に水を打ったように静まり返った。
「お前たちはいつも通り任務に当たってくれ。それから
「どうしましたか、総隊長殿」
名を呼ばれ、壁上から狐面を被った人物がスッと進み出る。肩口で切り揃えられた髪は淡い白金色で、痩身と高くも低くもない声のせいで男女の判別はできない。煉と同じように太刀を一振り腰に差し、柳のような風情で凛と佇んでいる。
「明朝、啓蟄宮に向かってくれ。ユーリンと合流してサクヤヒメの護衛、及び監視に当たって欲しい」
「了解です。お任せあれ」
「頼んだぞ」
従順に一礼を返し、那岐はすぐに下がる。強烈な存在感とは裏腹に、所作は夜凪に溶け込んでしまうほど静かだった。
蝶が横切るように辺りが沈黙に包まれる。もう一度喧噪に火が付く前に、壁上の一人が目をすぼめながら高らかに叫んだ。
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