花神のまにまに 其ノ四

張り詰めたもの寂しい空気が肌を撫でる。パチリと瞬く目に映るのは長屋の煤けた木目肌とは似ても似つかない、精緻な花の透かし彫りが至るところに施された淡い色の天井。ずきんと痛む頭を抑えながら、八重はゆっくり上体を起こす。手に当たる柔らかい感触、全身を覆う白い毛布。どうやら上等な寝台の上に寝かせられていたらしい。そこまで思考を巡らせたところで、部屋の隅からガタリと椅子を蹴倒す音が聞こえた。

 濡れ羽色の髪、漆黒の軍服、腰に佩いた太刀。

 金色の両眼をこちらにピタリと向け、彼は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。その後ろでは、件の三人が漆喰で塗り固められた壁に寄りかかってジッと八重の様子を伺っている。ドクドクと心臓が早鐘を打った。

 ここは一体何処だろう。視界に過った白い髪と、酷く乾いた声を最後に記憶はプツリと途絶えている。痛む頭を抱えて小さく肩を震わせる八重を見下ろしながら、煉は軍帽を取って深く頭を下げた。

「すまなかった」

「え……?」

「あんたを連れてくるために気絶させた。後遺症は残らないが、手荒な真似だったと思う」

「ここは一体、」

啓蟄宮けいちつきゅう。詳しい場所は教えられないが、皇族が所有する離宮の一つだ」

「どうして、そんなところに」

 開いた口が塞がらないまま、八重はぐるりと辺りを見渡した。

西海様式の広い部屋は細部まで磨き抜かれ、床は緋色の絨毯が隙間なく敷かれている。寝台横の机の上では鈴蘭のような形のランプが、頭上では燭台を環状にぐるりと束ねたような華やかなシャンデリアが、それぞれ眩く辺りを照らしているせいで昼のように明るいが、窓からちらりと覗く空は濃い闇の色に塗り潰されていた。

 陽典が待つ小さな長屋とは何もかもが違う、見知らぬ豪奢な世界。下げていた風呂敷がランプの隣に置かれているのを確かめると、八重は咄嗟に懐に手を突っ込んだ。そして手に触れた小さな袋の感触にほっと胸を撫で下ろし、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「どれくらい経ちましたか」

「一刻と少し。夜も更けてきた」

「いつになれば帰れるんですか」

「今は何とも言えないが、当分は難しい。離宮からは出られないと思ってくれ」

「どうしてですか⁉」

 喉がひりつく。声を荒げたのは何年振りだろうか。

 ゼエゼエと肩で息をする八重を、煉はただ拳を握り締めて見下ろしていた。

「言いたいことは山ほどあるだろうが、まずは事情を説明させて欲しい」

 八重の表情が岩のように硬直し、やがて警戒を覗かせながら小さく頷く。煉は自嘲するように微かに笑った。

「ここにいるのは神祇特務隊の核を担う者たちだ。俺は総隊長の都小月煉という。……昨夜ぶりだな」

 思わず顔を上げた八重の視線から逃げるように軍帽を引き下げ、煉は硝子細工のような声音で淡々と語り始める。

「曙町を中心に下町で怪異による事件が多発していることは知っているだろう。今月だけでもう二十件、今晩の奴も合わせれば二十一件。尋常な数じゃない。しかも、出現した怪異にはいずれも不可解な点がある。例えば先刻の、あの鱗の怪物」

 黒曜石のような黒い鱗に覆われ、蛇のような下半身を持つ異形。手足には水掻きが、尾の端には尾ひれが付いていて、全身がドロリとした液体に覆われていたソレは、そういえば生臭い匂いを放っていた。まるで巨大な魚のように。

「あれはあやかしの種族の一つ、人魚が怪異に変じた姿だ。故に本来は海辺の集落でしか発生しない」

「ま、待って下さい!この辺りに海なんてありません。空帆うつほの方になら港だってありますけど、帝都から歩いたら半日はかかります」

「その通り。そのうえ帝都には神器由来の結界が貼られているのだから、外界の怪異はまず弾かれる。だが、内部で生み出されたものなら話は別だ」

 神霊と共に生きるのがトヨアシハラの民だ。どんなに小さな村にも神を祀る社が建てられ、加護の依代である神器が結界の源になる。旧都宵花京や国を貫く龍脈の根本に位置する雲威くもい、三百年間天府が置かれ人工的に数多の守護が張られた空帆など、強大な神の力がひしめき合う地はそれだけ結界も硬く、不浄な存在を許さない。

しかし暁花京は違う。遷都から僅か三十二年、古くは辺境だったこの地は神霊の加護が薄く、内部から発生する怪異を清めることはできない。だからこそ神祇特務隊が存在するのだ。

つまり、此度の真相は。

「暁花京内で、何者かが自然に発生し得ない怪異を人為的に作り出して放った」

「そんなこと、できるんですか」

「至難な上にそもそも禁忌だが、不可能なわけじゃない。あんたを狙っている手合いの常套手段だ」

 災いを振り撒く怪異を創り出し、闇夜に潜んで世を壊す。卑怯で悪辣で苛烈な彼らの名を、煉は骨身の奥深くまで刻み込んでいた。

「奴の名は天詠鬼。ある女神に執着し、千年以上トヨアシハラの各地で蠢き続ける半神半鬼だ。公にはされていないが、十三年前にがしゃどくろを顕現させ、天華事変を引き起こした張本人でもある」

 天華事変を引き起こした大逆者。巨大な鉄塊が落ちてきたような事実に、八重の心臓が大きく飛び跳ねた。唇が、手足が、全身がすうっと冷えていく。

「待って、下さい。どうしてわたしがそんな人たちに狙われるんですか……?わたしには神に通じるような力も、神霊と交わる強い才も、何もないのに」

「それはわたくしから御説明差し上げましょう。よろしいですね、都小月」

 射干玉の髪が翻る。黙って頷いた煉を横目でチラリと確かめると、それまで黙って壁際に佇んでいた寧々子が徒花のような甘い笑みを浮かべて数歩前に進み出た。

「古来より、このトヨアシハラには時折現れる神がいらっしゃるのですよ。かの神々は己が体を保つことができず、見込んだ人間を依代に選び宿ります。只人に寄生し人ならざる権能を一方的に与える形なき神、その一柱がサクヤヒメです」

「もう分かったんじゃねえか?それがアンタなんだよ、嬢ちゃん。今のアンタはただの町娘じゃない。天詠鬼がこの世で最も執着する神様なんだよ」

 夏の晴天のようにからりとした声が、ひびの入った八重の警戒心に楔を打ち込んだ。パリンと音がして、鎧に覆われていた心に情報の渦が雪崩れ込んでくる。声にならない叫びを絶え間なく吐き出そうとする八重に構わず、寧々子は言葉を連ねていく。

「サクヤヒメの権能は破魔。人ならざるモノの魂を破壊する力です。故に墜ちた神や怪異、人に徒なすモノを狩る最上の武具とされています。我々とて貴女をみすみす奪われるわけには参りません」

 途方もない話に、八重の喉がようやく動いた。

「待ってください!そんなわけありがありません!だってわたし、見鬼が苦手なんです。小さなあやかしなら全く見えないくらいなのに、霊力なんて……」

 神もあやかしも怪異も、全て元は同じく人ならざる魂。それらの姿形や霊力を感じ取る力は個人差があり、八重はそれが人より弱い。帝都に溶け込むあやかしだって、陽典に言われない限り気付けないほどだ。しかし寧々子は全く表情を変えなかった。

「神器になった人間は生来の資質に限らず、莫大な霊力を得て現人神に変質します。ですから、八重さんは既に完全な人の身とは言い難い状態なのですよ」

「現人神、ですか……?わたしが、まさか、だってそんな、いつから」

「本当に何も気付かなかったのですか?」

「ええ。だって今まで何も……何も、変わったことなんて」

「そうですか」

 寧々子は意味深に微笑んだ。隣の玉兎がゲッと呻く。ユーリンは眠たげな目を少し傾けて煉を眺めた。彼はただ淡々と、いっそ痛いくらいまっすぐに目の前の少女を見ている。

「天が定めた宿命だ、受け入れろ」

 金色の双眸に映る少女は俯いて、己の身を守るように寝台の上で縮こまっている。煉は浅く小さな溜め息を一つだけ残して扉の方に視線を向けた。

「報告に行ってくる。寧々子、一緒に来い」

「承知しました」

「玉兎とユーリンはここにいろ」

「へいへい」

「わかった」

 それだけ言うと、煉は振り返ることなく部屋を出る。すぐ後ろを寧々子が影のように歩いた。柔らかい絨毯は硬質な軍靴の音さえ掻き消して、やがて扉の閉まる乾いた音が八重の鼓膜を揺さぶる。喉が小さく引き攣って、声はついぞ出なかった。

煉と寧々子が部屋を後にすると、八重はモゾモゾと毛布の山のなかからほんの少しだけ顔を覗かせる。その両目が石を投げられた水面のように潤んでいるのに気付いたユーリンは、何も言わずに玉兎の上着の裾を引っ張った。

「……オレか?」

「ん」

「お前行けよ」

「さいしょ、やだ」

「人見知りのガキかよ」

 硝子玉のような瞳にじっと見上げられ、玉兎は呆れつつも少し屈んで小さな頭を撫でる。どちらかと言えば小柄な自分よりもさらに二回り以上小さな体を軽々と抱き上げ、玉兎は蹲る八重に向かってニッと笑った。

「嬢ちゃん、アンタ何かしたいことあるか?」

「え……」

「ギョクト、あいさつ」

「いてっ」

 八重の困惑を拾い上げるように、ユーリンは容赦なく玉兎の脛を蹴り飛ばす。硝子玉のように無垢な群青色の瞳はさらりと凪いだままきょろりと瞬いた。

「ごめん、なさい。ギョクトはたんさいぼう、だから」

「オイお前何処でそんな言葉覚えたんだよ!」

「ネネコがいつもいってる」

「あのクソガキ‼いつか絶対言い負かしてやる」

「たぶん、いっしょうむり」

 柳眉を吊り上げて怒鳴る玉兎に、ユーリンは人形のように淡い表情を崩さないままぷいっと顔を背ける。それはまるで、近所の年の離れた兄妹が口喧嘩をしているようで。

「ふふっ」

 張り詰めていた心の一部がするりと解け、笑い声になって宙に溶けていく。いつの間にか八重の頬はほんの僅かに緩んでいた。

「よかった、まだ笑えるみてぇだな」

 人間は身も心も脆い生き物だ。喜怒哀楽のうち、どれか一つでも欠ければ壊れてしまう。怪異に追い回された挙句、拐かされるように連れて来られた彼女の心には既にヒビでも入っていやしないかと肝を冷やしていたのだが。玉兎は安堵を押し隠すようにユーリンの頭を撫でた。

「初めまして、オレの名は玉兎。一応オレの方が年上なんだけど、ここじゃ煉の右腕だ。で、こっちがユーリン。大陸の方の生まれでな、聞き慣れねぇ名前かもしれんが覚えてやってくれ」

「ユーリン、です。よろしく」

差し出された小さな手をそっと握りながら、八重はぎこちなく微笑んだ。

「……紅坂八重と申します。皆さまは御存じのようでしたけれど、念の為。よろしくお願いいたします」

「おう。本当にわりぃな、こんな急に連れて来ちまって。何かあったら遠慮なく言ってくれ」

「しんぱいなこと、とか。なんでもいい。レンとギョクトがなんとかするから」

「お前も協力しろよ⁉」

「ユーリンにできるなら、もっとまえにみんながやる」

 小さいが見た目ほど幼くはないユーリンにすげなく返され、玉兎はがっくりと肩を落とす。しかし再びクスリと笑みを漏らす八重と目が合うと、真っ白な歯を覗かせて力強く笑ってみせた。

「ここは護りが硬くてな、アンタにはまず逃げ出せねぇ。この部屋は好きに使っていいけど、何処に行くにも必ず誰かが付いて回る。窮屈な思いさせちまうことになるんだ、ならせめて辛い思いはさせたくねぇ」

 八重は少し頭を捻ると、やがておずおずと口を開く。

「弟とお店の方に、無事だと伝えたいです」

「いいぜ。他には?」

「弟が、ちゃんと暮らしていけるのか、心配で」

「様子なら見に行ってやるよ」

「お金も、いつ尽きるか分かりませんし、あの子はまだ元服もしていません。お腹を空かせていたら、わたし」

「その心配はいらねぇよ。お上は清も濁も呑み込むが吝嗇じゃねぇからな」

「それから、それから」

「むり、しないで」

 はらはらと零れ落ちる涙を拭いながら、ユーリンは八重の肩にぶら下がるようにして抱き締めた。触れた肌から伝わる温もりに、八重の口から僅かにくぐもったような声が漏れる。振り乱れた三つ編みをいじるように撫でまわすユーリンを眺めながら、玉兎は困ったように頭を掻いた。

「強いようで脆いな、アンタ」

 ユーリンはピクリと肩を震わせて玉兎をジッと見つめる。途方に暮れた迷い子のような八重に、これ以上の問答は酷だ。壊れてはいなくとも、限界を迎えた心はうまく働かない。玉兎も心得たようにひらひらと手を振ってみせる。

「分かってらぁ。また来るよ、嬢ちゃん」

 忍びのように音もなく去っていく玉兎の背中に、掠れた声が投げかけられた。

「ま、待ってください……!」

「んー?どうした、まだなんかあったか」

「気遣ってくださって、ありがとうございました」

 玉兎の足がピタリと止まる。彼はほんの少し口の端を吊り上げてから手を振って応えると、振り返ることなく部屋を出ていった。

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