花神のまにまに 其ノ三

八重が夫婦に挟まれて裏口を出るころには夜の帳は落ち切って、煌々と光るガス灯が地上の星のように辺りに散らばっていた。

汀町の街並みは曙町よりも随分と洗練されていて、下町とは言え貧しさの匂いは感じられない。道を往くのは職人や商人、マントを羽織った書生ばかりで、時折身なりのいい紳士や上品な女学生が混じる。花見の帰りに二頭立ての馬車に乗り込む華族らしき一家は、まるで御伽話の舞台に立つ人々のように見えた。

さんざめく大通りに分け入ると、喧噪が生む熱が八重の体をじんわりと蝕んでいく。重なり合って沸き立つような声の群れ、数多の足音、衣擦れの音、それから。笑い合いながら先立つ二人を追いかける八重の耳に、奇妙な音が飛び込んできた。

 ズルズル、ズルリ。ドロドロ、ドロリ。ズル、ズル、ドロ、ドロ。

 まるで何かが蠢くような、ひしゃげた家畜を引き摺っているような、おぞましい音。

 八重は咄嗟に振り返って辺りを見渡した。しかし後ろには道を埋め尽くす人の列が伸びているだけで、おかしなことは何もない。

「八重ちゃん?どうかしたのかな」

「あっ……いえ、すみません」

 先を行く長治が首を傾げるようにして振り返り、急に立ち止まった八重を仰ぎ見る。八重は慌ててブンブンと首を振ると、小走りで二人を追いかけた。

「そう言えば明日のご飯はどうしようかねえ。今晩は長治さんにお願いするとして」

「なんだ、聞いていないよ。いつの間にか僕の当番になっていたのか」

「そうだよ、よろしく頼むからね」

「何も考えていなかったなあ。まあいい、煮物でも拵えようか」

「やったね!大根は全部使っていいよ、いい加減しなびちまうからね」

 きくはからからと笑う。長治は菓子作りを始める前に料理屋で働いていて、かなりの腕利きだったらしい。顔を寄せ合って献立を話し合う夫婦に挟まれながら、八重はそっと着物の袷をぐしゃりと握り潰した。

 ズルズル、ズルズル。奈落から這い上がってくるような音はひっきりなしに鼓膜を打ち鳴らしてきて、ぐわんぐわんと頭が割れていく。それでも八重は足を動かし続けた。早く帰らなければ、陽典を待たせてしまうから。汗がだらりと伝う頬を何とか持ち上げて微笑を取り繕いながら、時折向けられる会話に相槌を打つ。そして汀町の外れの方、煉瓦の道が砂利道に変わる境目に差しかかったころ。

 ボトリ、ボトボト。

 粘着くような湿った音がすぐそばで鳴り響く。同時に、八重の背後から絹を裂くような悲鳴が上がった。

「いやぁぁ‼ば、化け物!化け物だわ!」

「誰か!誰か早く呼べ!軍を、特務隊を呼べェェ!」

 鼓膜を突き破る絶叫。八重は瞬時にばさりと髪を翻して振り返る。


 日が暮れ、宵闇に包まれる帝都暁花京。花影に照らされて佇んでいたのは、この世のモノとは思えぬ異形の怪物だった。


 身の丈八尺を超える巨体で、ザンバラ髪を振り乱すさまは女のよう。しかし顔は焼け爛れたようにグチャグチャで、ちょう真ん中に爛々と光る真っ赤な目玉が一つ嵌め込まれている。何よりも異様なのは首から下で、全身がびっしりと黒い鱗で覆われている。水掻きの付いた枯れ枝のような腕は生えているものの足はなく、代わりに尾ひれの付いた巨大な蛇のような尾が伸びていた。

 ソレはズルズルと尾を引き摺って、チロチロと真っ赤な舌を突き出して周囲を威嚇していた。ポッカリと空いた不気味な口から覗く牙は、よくよく目を凝らすとべっとりと真っ赤な鮮血がこびり付いているのが見える。

 人の世に降り立つ、人ならざる異形。それはトヨアシハラにおいて、神代の昔より人を脅かす災い。八重はガタガタと震える膝を抑えた。初めて見るソレの異様な姿に、凍り付いたように強張る喉からか細い声が転がり落ちる。

「怪異……」

 刹那、巨体がぶるりと体を震わせた。

 ボトボト、ボトボト。鱗から粘着いた液体が零れ落ちる。怪異はギョロギョロと目を光らせながら、やがて八重の方をゆっくりと振り返った。

 焼き爛れた口がニタリと吊り上がる。

 血を吸わせた水晶のように爛々と光る赤い目は、確かに八重を捉えていた。

 背筋がゾクリと粟立つ。思うように動かない膝はついに崩れ落ちて、しかし悲鳴を上げる本能によって八重は少しずつ後退った。怪異は情けなく這うように逃げる八重を嘲笑うように口の端を吊り上げ、ズルリと歩を進め始める。

 真っ赤な目が、変わらず八重一人を捉えていた。

「八重ちゃん!逃げな!あいつあんたを狙ってるよ‼」

 強張る八重の肩をピシャリと打つように、凛とした声が響き渡る。驚いて仰ぎ見ると、八重を守るようにして長治ときくがジリジリと前に出ようとしていた。

「直に特務隊が来てくれる。その前に逃げなさい」

「でも……」

「陽典くんが待っているんだろう、早く逃げなさい」

 どんな時でも春風のように穏やかな長治の声も今は張り詰めていて、ひびが入った氷のように脆く聞こえる。砕ける前の強さを孕んだ彼の言葉は、八重の心臓にするりと深く入り込んだ。

 神祇特務隊。暁花京を脅かす怪異を討伐する櫻花陸軍の特殊部隊。連日の怪異事件もほとんどは彼らの手で始末が付けられ、襲われた被害者も大半は無事か軽傷で済んでいる。彼らさえ間に合えば、こんな怪異なんて恐れるに足りないのかもしれない。

 ああ、でも。もし、間に合わなかったら。

 ここは大通り。黄昏から夜に変わるころ合いは、最も道が混んでいる。視界を埋め尽くすほど人がいて、誰が襲われてもおかしくない。そして今、狙われているのは。

 煉瓦の上にうっすらと積もった砂が指の間を流れていく。八重はすうっと冷え込んだ頭をそっと抑えて、ヨロヨロと立ち上がった。

「いいえ、長治さん」

「……八重ちゃん?」

「わたし、が、狙われているのなら」

 ズルズル、ズルズル、身の毛がよだつ音を立てながら怪異は八重の方に迫りくる。それでも両足を叩いて、しゃんと背筋を伸ばしてジッと赤い目を見返した。

「わたしが、何とかします」

 そう言うと、八重は一歩一歩踏みしめるように怪異の方へ近付いていった。

「八重ちゃん⁉」

「なにやってるんだ、逃げなさい!早く!」

 初めて聞く長治の怒鳴り声に身を震わせながら、前へ前へ進んでいく。懐に仕舞い込んだ御守り袋にそっと触れながら、八重は目と鼻の先でグルグルと低く唸る怪異を睨み返した。

「そうよ、わたしだけ見ていなさいな」

 怪異は脇目もふらず、ただ八重だけをじっとりと睨み付けている。狡猾な怪異が好んで喰らうという若い女は周りに山ほどいるというのに。しかしそれは八重にとって都合が良かった。きくが、他の娘たちが狙われずに済むなら、その方がずっといい。

 八重は怪異の目の前に立つと、どよめく群衆を背に艶やかに微笑んでみせた。

「さあ、わたしを捕まえてご覧なさい!」

 そして思いっきり地面を蹴り飛ばし、大通りの脇に伸びた路地の方へ駆け出した。

 背後からズルズル、ドロドロと粘着くような足音が追ってくる。ガス灯が立ち並ぶ大通りとは違って、下町の路地は灯りがほとんどないせいで、隔絶されたように闇に包まれている。すぐ後ろでボトボトと粘液を落とし続ける怪異を引き付けながら、八重は夜の街を懸命に走り続けていた。

 破裂しそうなほど酷使された心臓が痛んで、ハッ、ハッ、と荒い呼吸が漏れる。しかしそれでも一向に怪異が引き離される気配はなく、それどころかジリジリと距離が縮んでいく。まるで、泳がされているみたいに。グルグルと唸る声に混じって、すぐ後ろの砂利道にドロリと液体が落ちる音がした。走り続ける足はもう限界を迎えようとしている。最早気力だけでヨタヨタと進んでも思うようには動けない。視界の端で、大きな石が月明かりを跳ね返して黒く光っている。先端は酷く尖っていた。

 あっ、と声が出たころにはもう既に遅く。

 八重の体はぐらりと大きく傾き、ドサリと地面に崩れ落ちる。一瞬反転した世界で、煌々と地上を見下ろす月がやけに目に焼き付いた。

 紅い目玉がグルリと回る。冷たい土の感触が背に触れ、八重の口からひゅうひゅうとか細い吐息が漏れる。もうびくともしない足を持ち上げようと懸命に藻掻く八重を嘲笑うように、怪異はズルズル尾を引き摺りながらニタリと嗤った。

 ぎゅっと目を瞑った彼女の前に怪異が迫る。巨体をぐらぐらとしならせ、血塗れの牙を剥き出して頭から噛み砕かんと襲い掛かった、その刹那。

 バチンッ!

 何かが爆ぜるような音がして、暗闇を黄金色の火花が穿った。同時に、ギュォォォォ!と身の毛もよだつような声が八重の鼓膜に突き刺さる。

 痛みはない。心臓も動いている。

恐る恐る目を開くと、怪異は稲妻のような金の光に包まれ、悲鳴を上げながら真っ黒な尾を地面に叩き付けていた。それはまるで、鞭を打たれて悶え苦しむ家畜のように見えて。

小さな頭が冷や水を被ったようにすっきりと澄んでいった。これこそ好機と、八重は力を振り絞って両足を奮い立たせる。

しかし怪異は立ち上がった八重の姿を捉えて烈しく尾を振り乱し、ザンバラ髪を逆立てて、再びギュォォォォォ!と吠えた。金色の光に身を焼かれながらそれでも何とか八重を捉えようとズル、ズルと再び迫ろうと追い縋る。

 八重の心臓が砕け散りそうなほど波打った。少しでも揺れれば壊れてしまいそうな恐怖と疲労で、絶え間なく動き続ける体がどんどん鈍くなっていく。それでも八重は隣り合わせの死に抗うように腕を伸ばし、必死に砂利道を蹴り上げた。


 その瞬間、びゅうと強い風が吹く。突然の烈風に耐え兼ねた八重の全身は呆気なく崩れ落ち、少女はもう一度転がった。

 しかし、再び反転した八重の視界に映ったのは月ではなく。

 月もろとも闇を切り裂く、鮮やかな金の閃光だった。

 

 絶叫する怪異に身を震わせる八重に背を向けて、一人の男が天から降り立つ。濡れ羽色の髪をすっぽり覆う軍帽、身を包む軍服は黒一色。握り締めた太刀の刃は曇り一つなく、煌めく刀身は金の稲妻を纏っている。

 雷の刃を振りかざし、男は八重の前に立ち塞がる。雄叫びを上げる怪異は既に幾度も切り刻まれ、砕けた鱗の隙間から黒い煙が無数に吹き出していた。

 まっすぐに刀を構えたまま、男はチラリと八重の方を振り返る。髪はほどけ、はだけた着物からジクジク血が滲む膝が剥き出しになっている。酷くくたびれた格好で情けなく地べたにへたり込む八重を見ると、男は僅かに笑みを浮かべる。

「よく耐えたな、あんた」

 ゆらゆら揺れる瞳は稲光のような、琥珀の欠片のような金。ほんのり上がった口角は柔らかい弧を描いて、紡がれる言葉は酷く優しく響く。八重の心臓が再び大きく跳ねた。

 目を見開いて黙り込む八重に背を向け、男は怪異に刃を突き付ける。

 そして静かに体を伏せると、大きく跳んだ。

 バチバチと破裂音を轟かせ、雷光を纏う刃が神速で振り下ろされる。まるで春雷のように鋭く、荒々しく、鮮やかに、彼は一瞬の跳躍で巨大な怪物を木端微塵に切り裂いた。

 ギュォォォォォォォォォォォォッ!

 眩い閃光が迸り、怪異の断末魔が辺りに轟いた。怪異は無数に分かたれた鱗だらけの肉片から黒い煙を大量に放出し、やがて塵になって消えていく。

 八重が浅い呼吸を取り戻したころには、既に全ての欠片が風に飛ばされて散り散りになっていた。

 狭い路地を静寂が覆い隠す。男は溜め息を一つ落とし、へたり込んだままの八重に向き直った。紅がかった淡い瞳と、稲光の黄金が交錯する。八重の喉がひゅうと声にならない悲鳴を漏らした。

「あなたは、ゆうべの……助けてくださったん、ですか?」

 月影を照り返す黒衣、濡羽色の髪、金の瞳。ただぶつかっただけの八重を気遣い、御守りまでくれた優しい人。それからきっと、懐かしい人。

「ありがとうございます、本当に、あなたがいなければわたしはきっと……どうしましょう、何とお礼を申し上げればいいのか……」

 彼は黙りこくったまま何も言わず、温度のない目でジッと八重を見下ろしていた。

 彼は能面のように表情を消し、冷え冷えとした視線を八重に向けている。微笑みが嘘のように彼は眉を吊り上げ、硬質な声を淡々と吐き出した。

紅坂八重こうさかやえか?」

「えっ……」

「質問に答えろ。あんたが紅坂八重で間違いないか」

「ええ、そうですが……」

「そうか」

 男、もとい都小月煉は静かに目を閉じる。眼前には傷付いてボロボロの、か弱く小さな儚い娘。彼女の命を掬い上げたまま、すぐにでも踵を返して去ってしまえたら。それきり何もなかったことにして、彼女に変わらない明日を送らせてやれたら。意味のない仮定が思考を搔き乱す。冷たい宵闇を貫く紅がかった双眸を見つめながら、彼はポツリと零した。

「分かってはいても、やはり会いたくなかった」

「……え」

 八重の肩がピクリと震える。この人は今、何を。わけも分からず渦のような混乱に巻き込まれながら、心臓が疼くように痛んだ。

「それは、どういう、」

「おい煉!何やってんだよ⁉」

 八重と煉は同時にハッと顔を上げた。淡い叢雲に覆われた月を背に、瓦屋根の上から一人の少年がこちらを見下ろしている。彼は夜風に靡く赤銅の髪を高く結いあげ、ぶんぶんと振り回しながら劈くような大音声で怒鳴った。

「早くしろ!人が集まってくる、オレ一人じゃ隠し切れねえんだよ‼」

 煉は途端に顔を顰め、忌々しそうに少年を睨み付ける。

玉兎ぎょくと、お前もう少し保たせられないのか」

「うるせえな、そもそもこの娘(こ)が派手に逃げたせいで騒ぎになっちまってるんだよ。オレの隠術だって万能じゃねえんだ」

「精進しろ半人前」

「ンだとこの半端モノ!」

 玉兎は顔を真っ赤にしてとんと飛び上がり、まるで羽でも生えているかのように軽やかに煉の隣に降り立った。

「なっさけねぇなぁ、煉。いつまで悩んでんだよこの優柔不断が」

「何だと?」

「本当のことじゃんよ、グズグズいつまでも悩みやがって。しまいにゃ奴さんが手を出す隙まで作っちまうんだ、未熟者が」

「クソッ、お前に何が分かるんだ」

「ほらすぐそうやって自棄を起こす。ほんと、いつまで経ってもお前は尻の青いガキだな」

「お前こそ、いつまで修行したら気が済むんだ?生臭天狗が」

「アア⁉このクソガキ、ほんっと腹立つ!」

 赤銅と対の緑青色の双眸がギロリと煉を睨み返す。並ぶと煉よりもずっと背が低い彼が、まるで過ちを犯した子どもを諫めるような表情を浮かべていた。

 突然目の前で繰り広げられた口喧嘩に八重の目が点になる。しかし次の瞬間、火花を散らす二人の背が同時にポンと蹴飛ばされた。

「何をモタモタしているのですか、下郎共」

 スッと闇から浮き出るようにして現れたのは一つの影だ。月明かりに浮かび上がる姿は長い黒髪を下ろした妙齢の女で、両腕に白い髪の小さな童女を抱いている。女は軍服ではなく黒い水干に緋袴を履いていて、騒ぎ立てる二人を睨み付ける視線は蛇のように毒々しい。一方で童女の方はハイカラな異国風の装いだ。淡い青のスカァトにひらひらした白い上着を身に着け、女の腕にしがみついてすやすやと眠っている。童女を撫でながらカランカランと高下駄を鳴らす彼女の姿を目にした瞬間、煉と玉兎はギョッとしたように顔を見合わせ硬直した。二人の額から同時にだらりと冷や汗が流れる。

「随分早かったな寧々子……」

「ほら!おっかねえのが来ちまったじゃねぇか!」

「おい馬鹿、お前そんなこと言ったら……!」

「お前たち、後で覚えておきなさいな」

 地を這うような声に男二人はゲッと顔を強張らせる。寧々子は彼らには目もくれずに、菫色の双眸に柔らかい光を浮かべて眠りこける子どもの頬をそっとつついた。

「ほらユーリン、お前も起きなさい。着きましたよ」

「……ん、もう?」

 童女はパチリと目を覚ました。大きな目は橙色の虹彩と黒い瞳孔を持ち、獣のような色合いに月の光が反射してきらきらと光る。彼女は心得たように寧々子の腕から抜け出すと、とんと地面に降りた。寝ぼけまなこで辺りをキョロキョロ見回す彼女を愛おしげに見守り、寧々子は次いで煉に氷のような眼差しを向ける。

「都小月、彼女ですか」

「ああ」

「承知しました。可哀想に随分とお疲れの御様子。わたくしが分かりますか?」

 満を持して八重に注がれた菫色の視線は柔らかく、棘も毒も感じられない。八重はわけも分からず、夢見心地のような感覚に包まれていた。

「あなた、は……」

「我々は陸軍所属、神祇特務隊の者です。どうぞお見知りおきを」

「特務隊の、方々ですか……?」

「ええ。よく立ち向かってくださいましたね。あの怪異を貴女が引き付けてくださったおかげで、大通りに居合わせた皆さまは一人残らず御無事でいらっしゃいます」

 綿のように優しい言葉が八重を包み込む。皆無事だった、その事実だけで重石のようになった両足も、膝から流れ続ける血も、全身くまなく浸され切った恐怖も、全てが報われていく。

「よかった……」

 思わず天を仰いだ八重をピタリと見据え、寧々子は柔らかく微笑みかける。それは優しく穏やかなようで、じわりと神経を蝕む鈴蘭の笑みだった。

「貴女のお陰ですよ。ですが、同時に貴女の所為でも御座いまして」

「え……」

「あの怪異、貴女を狙っていたでしょう。あれだけの人の命を無視して、こんなところまで貴女を追っていたのですもの」

「それは、どういう意味でしょうか……」

「怪異は狡猾な生き物です。一匹で群衆の前に姿を晒すなんて滅多に御座いませんし、ましてや貴女の他には目もくれないなんて以てのほかです。普通じゃ有り得ません。貴女が余程恨みを買っていれば話は変わりますが、そういうわけでもないのでしょう。あの輩の標的は最初から貴女です」

 まるで小さな子どもに文字の書き方を教えるようにゆっくりと、寧々子は隙のない理屈で八重を攻め立てる。八重は呆然としたまま何も言えずに黙り込んだ。

「さっさと覚悟を決めてくださいませ、都小月」

 打って変わって棘を含んだ声に突き動かされるように、煉は八重の方へと歩み寄る。金色の目に決意の光が灯った。

 示し合わせたように風が止み、口うるさく言い合っていた玉兎も押し黙る。一瞬の静寂を穿つように、煉ははっきりと言葉を突き付けた。

「紅坂八重、あんたの身柄は軍が預かる」

 紅がかった水面に亀裂が入る音が聞こえたような気配がした。動揺に踏み躙られた思考がとどめを刺され、錆び付くようにゆっくりと動きを止めていく。

「は……?」

「天の意志と政府の判断だ。無論拒否権はない」

 からくり仕掛けの人形のように感情を排した金色が冷たく瞬く。怪異に遭遇しただけで酷く戸惑っているのに、雲を掴むような話ばかりだ。正常な思考なんてとうに手放している。ただ、それだけは。それだけは譲れないものがある。

「どういうことですか⁉わたしは何も知りません!わたしは早く、今すぐに帰らなきゃいけないんです!」

「駄目だ、認められない」

「いやです、弟がいるんです!」

 このまま彼らに従えば、今夜どころか永遠に家に帰れないかもしれない。

 それだけは避けなくては。

 帰らなくては、だって弟が待っている。あの子を独りにさせたくない。早く顔を見せて、残り物で夕飯を作ってやりたい。いやあの子のことだ、既に何か拵えてくれているかもしれない。ならなおさら、早く帰らなくては。

「お願いします!家に帰らせてください‼」

「その弟の命が危うくなってもいいのか?長屋の所在も働き先も弟の名前も、あんたが大事なものは全て我々の掌中に収まっているのに」

 煉は仮面のような無表情を維持したまま、密かに拳をきつく握り締めた。八重の気迫にひびが入った一瞬を見逃さず、鋭い爪が皮膚を喰い破って流れた血さえ隠しながら、煉は静かに命じた。

「……悪い、頼んだ」

 その声が夜に溶け込んだ瞬間、とんっと軽やかな調子で細い首筋に手刀が打ち込まれる。途端に八重の体はぐらりと傾いた。ジワジワと塗り潰されるように刈り取られる視界の端で、淡雪のような髪がひらりと揺れていた。

 薄れゆく意識が消えてなくなる寸前、血を吐くような声が耳を貫く。

「すまない。それでも俺は」

 ああ、なんて顔をしているの。

 困惑、焦燥、絶望。それから言葉にならない心臓の熱を抱き締めたまま、八重は闇に落ちていった。

 



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