花神のまにまに 其ノ二

お天道様が顔を覗かせたら体を起こして、だらしなく着崩れた寝間着を着替える。昨日よりも少しだけ色の濃い紅の小袖は年季が入った相変わらず古着だけど、これは随分と着心地がいい方だった。

まずは棟割長屋の狭い裏庭に出なければいけない。軋む木戸をガラガラと開けて無理矢理外に体を押し出せば、まだ少し冷たい空気が肌を刺す。ぶるりと体を震わせて、彼女は全身を強張らせながら三歩踏み出したところにある井戸に手を着いた。

 ささくれだった荒縄を握り締め、釣瓶桶を落としていく。桶になみなみと張った水面から透明なかたまりをいくらか取り出すと、少女はぴしゃんと音を立てて自分の顔に叩き付けた。

 眠たげな瞼がくっきりと開いて、紅の瞳がいきいきと輝き出す。彼女は一度井戸端に桶を置くと、腕に巻き付けた組み紐で長い髪を二つに分けて緩く編み込んだ。淡い栗色がさらさらと散らばり、家々の隙間から差し込む陽の光を吸い込んできらきら光る。

 そうしてうんと伸びをする彼女の背後から、背の高い影がひょっこりと顔を出した。

「重いからやらないでって言ったよね、それ」

 真っ黒な髪に濃紺の目、ひょろりとした体格の少年だ。幼さに似わないくらい目つきが鋭い。彼は井戸端の桶を奪うように取り上げると、さっさと歩き出す。そして思い出したように振り返って手を挙げた。

「おはよう、八重やえさん」

「おはよう陽典ようすけ。姉さんとは呼んでくれないの?」

「だって血は繋がっていないんでしょう」

「昔は呼んでくれたじゃない」

「もう十四だからね。分は弁えてる」

 陽典はプイッと顔を逸らすと、八重の脇をすり抜けてスタスタと行ってしまう。八重はそっと肩を竦めると、苦笑を浮かべながら開けっぱなしの戸口をくぐった。

 猫の額より狭い土間と、六畳の居間兼寝床。暁花京の下町の端のそのまた片隅で、姉弟はひっそりと暮らしていた。土間の隅の釜を覗き込み、八重は安堵の溜め息を吐く。

「陽典、悪いけど今朝はお米を炊く時間がないの。幸い冷や飯が残っていたから、あとでどうにかだし茶漬けにでもして食べて。わたしはもう行かなくちゃ」

「八重さんは?まだ早いんじゃないの」

「今日は早くからお店を開けるでしょうから。花見の季節が始まったから、どんどん忙しくなるもの」

「ちょっとくらい待ってよ。何も腹に入れずに働いたら倒れかねない」

「平気よ、わたしが丈夫なの知ってるでしょう?」

「うるさいよ、観念しな」

 陽典は丸い目をキッと吊り上げると、桶の水を手早く鍋に移し替えて火にかけた。八重は諦めて戸棚から削り節の壺を取り出し、慣れた手つきで出汁を取る。

「八重さん、ご飯よそっておくからね。あと海苔と梅干出して」

「気にしなくていいのに」

「朝ご飯はちゃんと食べなさいって言ってたのは自分でしょ」

「はいはい。ありがとうね」

 釜の飯を二つ分茶碗に盛り付けて、陽典はジトリと八重を睨む。八重は苦笑しながら冷たい米に海苔を散らし、梅干を乗せる。すると陽典はすぐにだし汁をなみなみと茶碗に注いだ。ほかほかと白い湯気を立てる茶碗が二つ並んだちゃぶ台を囲むように向かい合い、姉弟は揃って手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます。八重さん、あんまり急がないでよ」

「分かったから、そんなに睨まないでちょうだい」

 じっとこちらを睨む陽典の視線を感じながら、八重はそっと箸を動かす。小さな窓から覗く青空の真ん中を、小さな雪のような花びらが横切っていった。

「陽典、今日は家でお勉強?」

「いや。桧木ひのきさんのところに行くよ」

「また?随分気に入られているのね」

「……まあ多少はね」

「またお小遣いを頂けたらいいわね。そしたら異国の本だって買えるわ。ほら、あなたが欲しがっていた……ミステリ、だったかしら」

「いいよ、どうせ大抵のものは読ませてもらえる。それより家賃の足しにしてよ」

「またそんなこと言って」

 陽典が懇意にしている『桧木』という人物について、八重はよく知らない。ただ曙町の外れに住んでいる変わり者の男だと聞いている。話によると陽典のように初等学校を終えた年齢で、なおかつ金銭的な理由で中学を諦めた子どもたちを集めて仕事の手伝いをさせ、代わりに本を自由に読ませるのだという。陽典は頻繁に桧木の家を訪れ、小遣いももらっているらしい。それを何故か家賃と生活費に入れたがる陽典と、拒む八重の攻防戦は続いている。今のところは八重の快勝だった。

「あなたのお金じゃない。それに今はお店が忙しいからって、お給金に色を着けて頂いているの。当面は何とかなるわ」

「じゃあ八重さんの着物でも買えばいい。古着ばっかりなんだから」

「お小遣いで新しい着物なんて買えるわけがないでしょう」

「ずっと貯めているんだから、もうそれなりにはなってるはずだ」

「なら貯めておきなさいな。来年の春までにまとまった額になれば、中学に通えるかもしれないじゃない。卒業するころには大学のお金も何とかなるでしょうから」

「大学なんて行かないよ。十五になったら働くって言っただろう」

「官吏になりたいって言っていたじゃない。それに叔母さんが亡くなってから本は粗方売ったって言っていたのに、難しい法律の本も、史書も、異国の本もまだ手元に残しているでしょう」

 図星を突かれて黙り込む陽典をよそに、八重はそっと箸を置く。いつの間にか茶碗は空になっていた。

「御馳走様でした。陽典、悪いけれど洗い物もお願いできる?いい加減行かなくちゃ」

「分かった。あとでまとめてやっておく」

「ありがとう、助けるわ」

 そして八重は手早く身支度を整えると、僅かな荷物を手に立ち上がる。高く結った髪を翻す後ろ姿に、陽典は僅かに顔をしかめて声をかけた。

「今日はどのくらいあっちにいるの」

「そうね、少し遅くなるかもしれないわ。春はこれから始まるようなものだもの、きっとしばらく忙しいわ。そういう季節よ」

「あなたがこき使われる季節ってこと?これだから春は嫌いなんだ」

「滅多なことを言わないで。よくしていただいているのに。仕事も楽しいんだから」

「……あなたはそういう人だよね」

 ボソリと落とされた声は八重には届かず、小さな窓からじんわりと差し込む朝日に溶けてい消えていく。草履の鼻緒を締め直してから勢いよく振り返ると、八重は花のように微笑んで小さな居間を振り返った。

「じゃあ、気を付けてね。あまり遅くならないで、暗くなったら帰らせてもらわないとだめよ」

「うるさいなあ。八重さんこそ気を付けなよ、見鬼の才が皆無なんだから。怪異に襲われたらひとたまりもない」

「分かってるわ、ありがとう。行ってきます」

「……いってらっしゃい」

 ぞんざいに手を振る陽典にクスリと笑うと、八重はクルリと背を向けた。キイキイ軋む小さな木の扉を開いて、淡い栗色の髪が弧を描いて外に飛び出していく。木造の長屋が立ち並ぶ下町にも朝日が降り注いで、光の粒がきらきらと街を照らしていた。

 日の当たる明るい街に一歩踏み出した八重の後ろで、バタンと音を立てて戸が閉まる。

 薄暗い六畳一間に残された陽典は扉が閉まり切ったのを見届けると、深く溜め息を吐いて天を仰ぐ。そしてポツリと呟いた。

「ごめんね、八重さん」

 陽炎のような独り言は誰にも届かず消えていく。陽典はもう一度溜め息を落とすと、静かに立ち上がった。

 

 暁花京の中でも下町と呼ばれる区域は広大で、大きく五つの括りに分けられている。八重と陽典が暮らす曙町は小さな棟割り長屋がひしめき合う、下町でも特に東端の方に位置する庶民の住処だ。黒く汚れた木造の建物はどれも見るからにおんぼろで、しかし見た目のわりに新しい。天華事変で最も破壊が激しかったのは下町だ。一度は木端微塵に壊れたこの町は、十三年の時を経て朝を迎える住人の声で満たされていた。

 剥き出しの石と土で形作られた大通りを行き交う人波の間を縫うように、薄紅色の雪がひらひらと風に躍る。桜花は帝都暁花京の象徴だ。故に大通りと名の付く道には必ずガス灯と桜並木がひしめいている。曙町も決して例外ではなかった。

 まっすぐ伸びていく大通りを西に向かって歩いて行くと、次第に道の幅は広がっていく。暁花京で下町と呼ばれるのは南東部で、西の上町に近付くほど町の様相も変わっていく。立ち並ぶ建物は棟割り長屋から小さな戸建てになり、人々の身なりも粗末な古着から清潔な小袖や着流しが多くなり、洋装姿の人影もぽつぽつと見られるようになっていく。砂利の歩道が煤けた煉瓦に覆われたあたりで、八重は赤い屋根の家の前で立ち止まった。

 裏口をコンコンと叩くとすぐに開いた扉から、いきいきと笑う恰幅のいい女とひょろっと細長い朗らかな男が顔を出した。どちらも若々しく着物の上に清潔な布をかけていて、女の方は八重を迎え入れると両腕をひらひら振ってみせる。

「八重ちゃん、おはよう。こんなに早く来てくれたのかい」

「今朝も少し早めにお店を開けるのかと思いまして」

 にこりと笑ってみせる八重に、男の方は申し訳なさげにくしゃりと目尻を下げた。

「まあそうだけど……なんか悪いなあ、まだ夜明けからそう経っていないよ。もっとゆっくりしてきていいんだよ」

「長治さんの言う通りだよ、体壊したら大変なんだから」

「いいんです、年で一番忙しい時期ですもの。いつもおきくさんや長治さんにはお世話になっていますから」

 女主人の永井きくと職人の長治のおしどり夫婦が営む菓子屋、『夢見亭』で働き始めてからもう二年。叔母が亡くなって、陽典と二人で曙町に移ってからは一層世話を焼いてくれている恩人だ。毎日温かい眼差しで出迎えてくれる夫婦に微笑みを返しながら軽く頭を下げ、八重は木戸の向こうへ一歩踏み入れる。するとむうっと充満した甘い匂いが鼻を衝いた。

「仕込みはもう終わってしまいましたか?お手伝いしたかったんですが」

「その細腕じゃ折れちまうからね。あたしやあの人に任せて、あんたはいつも通り頼むよ」

「分かりました。今日も忙しいでしょうね」

「南雲公園はこれからが見頃だからね。店からも見えるよ、今年は一段と綺麗なんだ」

 八重はきくの後ろについてするりと厨房を抜け、小さな売り場に入った。二畳ほどの薄暗い空間の一方は大きな窓になっていて、今は樫の板が嵌め込まれている。窓の前には幅いっぱいに横長の机が置かれていた。八重は紅色の小袖を白い紐でたくしあげると、足元の木箱から取り出した小さな箒で部屋を軽く掃く。それが終わると白い端切れで丁寧に机を磨いていく。まるで湖面のように埃一つ見えない飴色の木目をさらに念入りに拭き取っていき、仕上げにシミ一つない清潔な布をかけた。

「八重ちゃん、終わったかい?」

「ええ、一通りは」

「ならもう開けてしまおうか。それじゃあこの子たちを並べておくれ」

「承知しました」

 きくは両手いっぱいに色とりどりの団子で溢れそうな盆を抱えていた。紅色、若草色、萌黄色、花紺青、藤色。真っ白な餅の上に、色鮮やかに染められた餡がたっぷり塗られた夢見亭の名物だ。餡の色ごとに雅やかな名前が付いていて、今の時期は淡い桜色の餡で飾られた「花筏」が花見客に飛ぶように売れる。きくや長治が子どものように大事に作り上げた団子が乗った盆を慎重に並べると、視界が一気に花開くような心地がした。

 最後に八重は両手を伸ばし、窓を覆い隠していた樫の板をゆっくりと取り外す。ガタリと大きな音を立てて枠から離れていく板の隙間から、細い光が漏れだした。

 夢見亭の売り場は大通りに面している。二階には永井夫婦が住んでおり、一階はほとんど厨房が占拠しているせいで売り場はかなり手狭だ。そのため客を中に入れるのではなく、外に張り出した大きな窓から商いを行う。少し変わったこの方法はきくが考えたものらしい。少し離れた道の向こうの広場には桜の木が所狭しと植えられて、三分咲きの花が可憐に咲き誇っていた。

 南雲公園は帝都暁花京でも指折りの花見の名所の一つで、春になると帝都中の住人がこぞって足を運ぶ。

 まだ朝も早い刻限。動き始めたばかりの街はまだ静けさが残っている。しかしほんの少し待つと、ぽつぽつと客の姿が見えるようになる。

「お嬢さん、おはよう。花筏を二本下さいな」

「はい、有り難うございます。銅銭二十枚頂きます」

 受け取った銭を手元の小箱に入れ、八重は桜色の串団子を白い懐紙でくるんだ。真っ白な包みの先から覗いた餡はまるで淡雪の上に舞い降りた花びらのようで、八重と客である婦人は思わず顔を見合わせる。

「相変わらず可愛らしいわねえ」

「ええ、それに今なら出来立てですから美味しいですよ」

「あら、運が良かったわ。ありがとうね」

 にこりと微笑む婦人に包みを手渡すと、八重はまたお越しくださいませと頭を下げた。朝いちばんにも拘わらず、いつの間にか売り場の前には短い列が出来ている。

「花筏を三本、それと紅椿も一本ちょうだい」

「かしこまりました」

「ほらやっぱり言った通りでしょう?こんなの他じゃあ売ってないわ」

「この色、どうやって作るのかしらね。本物の花みたいだわ」

 街に溢れる淡い色に一筋鮮やかな紅が混じると、簡素な白い包みも華やいで見える。四本の団子を抱えて満足げに背を向けた若い少女の隣を、二人の友人がきゃあきゃあ言いながら歩いていた。三人とも二藍色の袴を履いているから、恐らく女学生だろう。学舎に向かう前に立ち寄ったのかもしれない。

 老若男女問わず、花の色で覆われた菓子を買っていく。まるで穏やかな熱にジワジワ浮かされるように。八重はくるくると手を動かしながら、まばらに、しかし絶え間なく訪れる客をにこやかに相手し続けた。

 そうして、次第に日は高く昇って降りていく。

 柔くけぶるような青空は茜色に塗り潰され、黒帽子を被った警邏の軍人が一本ずつガス灯に火を灯していくころ。西の方から唐紅に染まっていく雲をちらりと眺めながら、八重は大きな窓に樫の板を嵌め込んだ。すると厨房と売り場を仕切る戸がガタガタと開き、きくがひょっこりと顔を出す。

「八重ちゃん、後片付けは?」

「こちらは終わりました。厨房の方は何かお手伝いできることはありますか?」

「いいよ、こっちも粗方終わったから。それより、ちょっと話があるんだ」

 きくはそう言って何やら含みのある微笑みを浮かべると、さっと八重の手を取った。骨張ったあかぎれだらけの手をジッと見つめ、きくは僅かに目を細める。

「あの、何のお話でしょう?」

「ああすまないね。実はね、あたしの甥が今度師範学校を卒業するんだけど」

「まあ、そうでしたか。おめでとうございます。先生になられるんですね」

「もう働き先も決まってるんだよ。帝都から少し離れた、港の方の小学で教えるんだってさ。凄いよねえ、あたしなんかと違って頭がいいんだ。おまけに男前でねえ」

 八重から視線を逸らさずにポツポツと語られる話に、八重は思わずポカンと口を開く。まさか、でもこれは。

 ざわざわと波立つ心をきゅっと押し殺す八重に、きくは泣きじゃくる子どもをあやすように朗らかに微笑んだ。

「それでね八重ちゃん。あんたさえよかったら一度会ってみない?」

「えっ」

 八重の口から間抜けな吐息が漏れる。同時にストンと手毬が地面に落ちるように、八重の想像が綺麗に正鵠を射抜いた。

 毎日朝から夕暮れまで働くせいでとんと縁がなかったとは言え、十七歳の八重はいわゆる「年ごろの娘」だった。浮いた話の一つや二つ、ポンと転がり込んでもおかしくはない。

 八重は割れそうなくらい早鐘を打つ胸をきつく抑えながら俯く。きくはハッと慌て出した。

「ごめんね、急にこんなこと言って!何もすぐ見合いってわけじゃないんだ。陽典くんのこともあるしね。ただ甥は賢くて優しい子だし、お天道様が太鼓判を押すくらい正直者だ。歳も近いんだよ。あんたみたいないい子、きっと一生大事にされるに決まってるんだ。あんたもずっと苦労してきたんだし、自分の幸せを掴むべきなんじゃないかと思ってね」

 きくは八重を慮るように覗き込む。柔らかい鳶色の瞳が慈しむように翳った。

 八重の手が僅かに震える。同じ年の娘たちはみな嫁に行くか、家族の元を離れて奉公に出るかをとうに選んでいる。今は夫婦に世話になってはいるが、八重もいずれは後者の道を進むつもりだった。それは決して望ましい道ではない。少なくとも、世間にとっては。

 誰かに嫁いで、夫に守られながらお家に尽くす。女の幸せとはそういうものらしい。事情を知るきくは八重が不幸にならないように心を砕いてくれたのだろう。

八重はしばらく黙り込んだ。そしてきゅっと目を瞑り、僅かに微笑む。

「ありがたいお話ですが……ごめんなさい、お断りさせてください」

 紅がかった瞳がゆらゆらと瞬く。きくは驚いてパチパチと瞬きを繰り返すと、やがて困ったように頭を掻いた。

「やっぱり陽典くんが心配なのかい」

「ええ、それもあるんですが。わたし、お慕いしている方がいるんです」

「えっ⁉」

 八重の白い頬がじゅわりと色付く。それは、誰にも言わずに秘めてきた心の柔らかい部分だった。口に出すだけで胸が締め付けられてどうにかなりそうになる。それでも、嘘を吐くのは嫌だった。

椿のように顔を赤らめながら、八重はぽかんと固まるきくに小さく告げた。

「少し恥ずかしいんですけど、初恋でして。もう随分と昔の話になってしまいましたが」

「その人、今は何処にいるんだい?そんなに好きなら、今が花盛りなんだから逢引きくらい」

「分からないんです」

 静かな、しかし確かな熱を含んだ声が小さな店の床に落ちる。大きく見開かれた鳶色の目をまっすぐに見返しながら、八重は蕾が綻ぶように口の端を緩めた。

「今は何処にいらっしゃるのかも、お名前すらも正確には分かりません。それでもずっと忘れられないんです。だからわたし、誰ともお会いする気はありません」

 数拍の間、売り場をしんとした沈黙が包み込んだ。

 きくはパチパチと瞬きを繰り返すと、やがて呆れたように首を傾げた。しかし垂れた鳶色の瞳から注がれる視線は相変わらず包み込むように温かい。彼女は八重の肩をポンと叩くと、朗らかに笑ってみせた。

「そうかい。難儀な道だろうけど、それがあんたの幸せだって言うんなら仕方ない。余計なことして悪かったね」

「とんでもありません。お気持ちはとてもありがたいですから」

 八重はにっこり笑って頭を下げる。きくがそんな彼女のおさげ頭をくしゃくしゃ撫で始めたところで、ガタガタと音を立てて厨房に繫がる木戸が開いた。

「おきくさん、八重ちゃん」

「なんだい長治さん、今いいところなのに」

「ほどほどにしないと。陽典くんに怒られてしまいそうだ」

 八重の肩をぎゅっと抱き締めながら、きくはジトリと両目を吊り上げる。木戸からひょっこり顔を出した長治はバツの悪そうな顔で頭を掻きながら、困ったように笑った。

「そろそろ暗くなりそうだ。八重ちゃんを帰した方がいいんじゃないと思ったんだけど、何かと物騒だからね。曙町まで送っていくよ」

「そりゃあいい。あの辺は怪異が増えてるんだろう?そうじゃなくても夜道は危ないし」

「でも、お忙しいでしょう。それにそう遠くありませんから、そこまで心配は要りませんよ」

 そう言って笑いながら、八重はそっと懐の御守り袋に手を当てた。夜道は危ない、特に若い女は怪異に狙われる。昨夜の言葉が甦り、心臓がすうっと冷えていく。しかし夢見亭のある汀町から曙町まで歩くと約四半刻。往復すれば半刻はかかってしまう。びくりと震える内心を隠して笑う八重の腕を、きくは逃がさないとばかりにむんずと掴んだ。

「いいから一緒に行くんだよ、もう店仕舞いなんだから忙しいわけないじゃないか」

「でもおきくさん、わたしは」

「これくらいは折れな、八重ちゃん」

 にこりと口の端を引き上げたきくの重圧に、八重は肩を落として降伏した。

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