花神のまにまに 其ノ一
凛と冴え渡る望月に照らされ、咲き始めた薄紅色の花が木立を彩る春の夜。
あちこちで灯されたガス灯が淡い橙色にぼんやりと光る。煉瓦の広場を埋め尽くす並木の桜花が光を吸い込み、月光で柔く霞がかった夜天にひらひらと煌めき散っていく。
帝都の夜は酷く眩しい。
故に、影の色も濃くて深い。
月夜の砂利道をざくざく走り回るのは新聞屋の少年だ。丸めた紙束を握り締め、往来に行き交う人の群れに向かって声を張り上げる。
「
よく通る甲高いかけ声に釣られるように、新聞は少年の手から飛び去っていく。早速道端で広げ出した紳士の横を、一人の少女がせかせかと通り過ぎた。
人形のように小柄で、紅の瞳に温かい光を宿す乙女。薄紅の古びた小袖に、淡い栗色のおさげを緩く垂らした姿はまだあどけない。擦り切れた風呂敷を抱え込む細く小さな手はあかぎれだらけで、華奢な体は少し突いただけで折れてしまいそう。素朴で平凡で、何処か花びらのような儚さを纏う少女だった。
矢絣に緋袴の女学生、マントを羽織った書生に懐中時計を覗き込みながら歩く多忙な紳士。トヨアシハラと西海の文化が混じり合う帝都は、行き交う人影も多種多様だ。しかし彼女は周りには全く目もくれず、半ば駆けるように速度を上げていく。そうしてからんころんと草履を鳴らしていくうちに、曲がり角で誰かにぶつかった。
びゅうと強い風が吹き、薄紅色の雪が舞う。
人よりも細身な少女は見知らぬ誰かに吹き飛ばされ、煉瓦の上にすてんと尻もちをついた。突然の衝撃に目を瞬かせる彼女に、ぶつかった相手はすっと手を差し伸べる。
「すまない。怪我はないか」
「い、いえ……わたしもよく見ていなかったので。申し訳ありません」
躊躇いがちにおずおずと手を取り、少女はぱちりと目を見開いた。
相手は背の高い青年将校だった。
瘦身に纏う軍服は漆黒。一つにくくられた濡れ羽色の髪が風に煽られてひらりと翻る。金で縁取られた軍帽を目深に被りながら威風堂々と歩くさまは、何処か現実から乖離しているように見えた。
「随分急いでいるんだな」
「はい、お仕事の帰りなんです。弟を家に一人で残しているので、早く帰ってあげたくて」
「若いだろうに。身内はいないのか?」
「十三年前、天華事変で母を亡くしまして。叔母に引き取られたんですが、その叔母も昨年の晩夏に病で命を落としました。血は繋がっていませんが、弟だけが最後の家族なんです」
「なんだと?」
青年は微かに目を剥いた。ぴしりと閉じられた唇が僅かに動き、掠れた息が空気を震わせる。声になるかならないかの狭間の囁きは、少女の耳には届かなかった。
「天華事変の被災者、かつ母を失くし、叔母に引き取られ、血の繋がらない弟が……ああ、そうか」
そう呟くと、青年は頭の天辺からつま先までまじまじと少女を見つめる。突然注がれた真摯な視線に戸惑いながら、彼女は恐る恐る声をかけた。
「ど、どうされましたか?」
「……いいんだ、気にするな。それよりあんた、大丈夫なのか」
帽子から覗く金色の目がはっと見開かれ、痛ましげに歪む。しかし少女は気にする素振りもなくにっこりと微笑んだ。
「優しい方なんですね。一応叔母の残してくれたお金とお給金で、何とか食べていけてはいるんです」
「だが、それだけじゃ長く保たないだろ」
「ええ。ですからいずれは本格的に奉公に出ます。いつまで傍にいてあげられるか分かりませんから、今は少しでも一緒にいたくて」
そこまで言うと、少女ははたと我に返った。
赤の他人、それも今ぶつかってしまった相手に話すことではない。彼女は頬を真っ赤に染めるとわたわたと慌て、ぺこりと頭を下げる。
「す、すみません。失礼します!」
「待て」
凛と清らかな声が響く。凪いだ湖畔のように静かで心地がいいのに有無を言わせない不思議な声質のせいで、少女は跳ね上がるように立ち止まった。
「あんた、住まいは何処だ。勤め先は?」
「え……曙町です。お店は
「夜の暁花京は危険だぞ。下町、特に曙町は怪異の出現数が異様に増えている」
ぴくりと瞳を瞬かせ、少女は戸惑いながらもこくりと頷く。
「確かに、よく事件の話を聞きますね」
青年は無言で首肯した。怪異、つまり人にとって害ありと判断された人外による被害は古来より絶えない。しかし、ここふた月ほどは特に顕著だった。つい先日も華族の少女が殺され、その前は花街の女が重傷を負わされている。瞳に宿った怯えを悟り、青年は諭すように言った。
「怪異の餌は人間の肉と霊力だ。特に狡猾な連中は女子どもを選んで襲う。夜警も強化しているが、それでも万全じゃない。今月だけでもう二十人被害襲われて、うち十四人が若い女だ」
「それは……怖いですね。気を付けます」
「そうしてくれ。あんたの行く末に、どうか幸いがありますように」
くすりと笑って歩き出した背中に、彼女は慌てて叫んだ。
「あなたもお気を付けて!どうか、御無事でいてくださいね」
その言葉が聞こえた瞬間、青年はぴたりと立ち止まった。
それから少女を振り返り、きょとんと首を傾げる。
紅の瞳はただまっすぐと青年を射抜き、薄い呼吸を繰り返す。
雑踏から切り離されたように、二人はただお互いを見ていた。
びゅうと強い風が吹いた。再び舞い上がった数枚の欠片が渦を巻き、二人の間に線を引くようにひらひらと躍る。桜吹雪の向こう、微笑んだ青年の目が光る。朧に見えた虹彩は稲光のような眩い金色をしていた。
風が止んだ時、青年の姿はもうなかった。
残された少女の手がわなわなと震え、風呂敷包みがどさりと落ちる。どうしようもなく波打つ左胸をぐしゃりと握り潰すと、少女は呻くように呟いた。
「あの人、やっぱり……」
応える者は誰もいない。
見失った背中の残滓をぼんやり見つめながら、彼女はぎゅっと拳を握り締めていた。
一方、青年は宵の帝都をずんずんと進んでいった。中央広場を突っ切り、華族の邸宅を幾つも通り過ぎて、とうとう帝都を囲う砦壁の南の端まで辿り着く。しかし青年は汗一つ流すことなく軽く肩を回すと、目の前にどしりと構える煉瓦造りの大門をくぐり抜けた。
南の離宮、
門番は彼を見るなり頭を下げ、何も聞かずに道を開けた。女官や管理官の老人も当然の如く闊歩する姿を見ても無言で恭しく下がっていく。青年はそのたびに労うように軽く手を挙げては歩き続ける。そして最上階の長い廊下を突き当り、重厚な樫の扉を一思いに開け放った。
燭台の灯りに反射した金色の眼が爛々と光る。許可も得ずに入室した彼を部屋の主は咎めもせず、むしろ居住まいを正して頭を下げた。
「久しぶりだな、
伊吹と呼ばれた男はびくりと肩を震わせた。彼は青年よりも余程華美な軍服を着用しており、肩には金と赤で装飾されたマントを羽織っている。しかし堂々と闊歩する青年とは対照的に、彼に対する畏怖を隠し切れないでいた。
「任務後に、わざわざすまない」
「別に構わない。鬱陶しいから頭を上げろ」
伊吹はゆっくりと頭を上げる。表情は強張っているものの、柔和で整った顔立ちの若い男だった。緊張で揺れてはいるが、淡い空色の瞳はトヨアシハラを治める皇族の血を引く証だ。
「まさか第二皇子殿直々の出迎えとは。てっきり使者が出てくると思っていたんだがな」
「……下手な人間に悟らせる訳にはいかない」
「そうか」
つくづく夜が似合わない男だとぼんやり考えながら、青年は断りも入れずに来客用の椅子に腰かける。伊吹は青年を恐れているようで、目を合わせれば途端に豪奢な軍服の裾をきつく握り締める。しかし決して目を逸らすことはせず、青年の対面にそっと座った。
「本題に入ってもいいだろうか」
「早くしろ、お前も忙しいんだろ」
伊吹は意を決するように息を吐き出した。
「あなたならよく知っているだろうが、現在暁花京に出現する怪異の数が急増している」
「ああ、よく解っているとも。主に下町、中でも曙町周辺が突出して多い。原因は幾つか候補は上がっているが、絞り切れてはいない。対応は後手後手、人命を守るのが精一杯の現状だ。それを責めるために呼び出したのか?」
「違う!断じてそんなことはない!」
慌てて声を荒げた伊吹に、青年はカラカラと笑った。
「分かっているさ。お前はそんな人間じゃない」
「……すまない」
「いいや、俺が悪かった。からかうのはよそう」
楽しげに笑って頭を掻く姿は少し幼げで、傲岸さの欠片もない。しかし伊吹を慈しむように向けられた金色の視線は、まるで老人が若者を見守っているようにも見えた。
「何か分かったのか?」
真摯な視線に射抜かれる。尋ねながらも何かを察したようにギロリと細められる金色に内心怯えながら、伊吹は吐き出すように言葉を紡いだ。
「暁花京にサクヤヒメの
ガタリと椅子を蹴倒す音が、乾いた空気を砕いた。
琥珀のような金の瞳がぐわりと見開かれる。青年はわなわなと震える拳を潰すように握り締め、溜め息を零すように口を開いた。
「……確かな情報か?」
「既にひと月前、
「だが、サクヤヒメは百年に一度顕現するかどうかだ。現れるには早すぎる」
「最初は私も疑念を抱いた。しかし、よくよく調べると五年で代替わりが行われた例があったらしい。五百年ほど前の記録だが、未曽有というわけではなかった」
青年は少しだけ俯いた。僅かに弱々しく見えた琥珀色に伊吹はハッと息を呑む。しかし青年はすぐに顔を上げ、いつものように飄々と肩を竦めてみせた。
「……相分かった。で、その情報は何処まで開かれているんだ?」
「捜索を担った人員の他、皇族と軍部上層の数人のみが知っている」
「そうか。それにしても発見じゃなくて報告なんだな。官僚か軍人の身内か?」
「……まあそんなものだ。とにかく近日中に回収してくれ。報告によると本人の居住地は曙町だが、昼は汀町の方に働きに出るらしい」
「何だと?」
青年の肩が大きく跳ねた。彼はブンと大きくしならせるように顔を上げると、鳥を打ち落とすような視線で伊吹を射抜く。
「庶民か?神祇の家系の出じゃないのか」
「詳しくは、ここに」
「見せろ」
青年は許可を得る前に伊吹の手に握られた束を奪い取る。それは三枚ほどの紙に記された資料だった。多くは怪異事件とサクヤヒメの関連性について書かれているばかりで、肝心の器に関する情報はごくわずかだ。下町に住まう若い娘など、大した情報は出てこない。しかし最低限の文字列を血走った眼でじっくりと読み取ると、青年はまたジッと伊吹の方に視線を送る。その手は僅かに震えていた。
「まさかとは、思うが。伊吹」
「……どうかしたか」
「この娘には弟がいるか?血の繋がらない弟が」
「何故それを……」
「いるんだな」
琥珀色に爛々とした光が灯る。稲妻のように鋭く闇を切り裂く黄金は、決して人の瞳に宿るようなものではない。人知を超えた煌めきは荒々しい神のようで、何処か獣染みていた。
「伊吹、一つ問おう」
刹那、恐ろしく凍て付いた重圧が伊吹に襲い掛かる。
「この娘を、お前たち政府はどう扱う?」
不敵に微笑む青年の頬がピクリと動く。伊吹の心臓が深く波打った。それでも引き攣る喉を叱咤し、上擦りそうな声を張り上げて朗々と告げる。
「西の離宮にて我々の管理下に置く。警護には神祇特務隊を」
「そうか」
凪いだ湖面のような声だ。しかし、伊吹の肌は滑稽なほど粟立った。
全身が粟立って塗り潰されていくような感覚に本能が悲鳴を上げ、背筋をタラリと冷や汗が伝う。龍の逆鱗の真横を通り過ぎるようなものなのだ。しかし、青年は呆れたように舌打ちを落としただけで、鯉口を切るようなことはしなかった。
「また籠の鳥か。お前たちも懲りない」
「……分かっている。それでも、かの神器を奪われるわけにはいかない」
「お前の立場は分かる。だが、俺はやはり心底気に食わない」
「……すまない」
「謝るな。お前が悪いわけじゃない」
青年はフッと鼻を鳴らして笑い、倒れた椅子を蹴って避ける。ゴンッと鈍い音が響いて飴色の床に引っ掻いたような傷がついた。しかし青年は見向きのせずにカツカツと伊吹の方に歩み寄っていく。伊吹の背後に広がる大きな窓の向こうで、凛と光る月が叢雲に呑み込まれていた。
「サクヤヒメの顕現が事実なら、怪異急増の原因は一つに絞れたな」
「……
伊吹は渋い顔で溜め息を吐く。
天詠鬼。古来よりサクヤヒメの器を執拗に追いかける一匹の鬼。何度も何度も、歴史の裏側でケタケタ笑って姿を表す。墜ち神と鬼の混ざりモノで、トヨアシハラにひしめく怪異のなかでも際立って恐ろしく厄介な孤高の鬼神だ。
「やはり死んでいなかったか。何度斬り伏せれば死ぬんだ、あの悪鬼は」
「一度殺された程度では消えないのだと聞いた。殲滅する方法はないのだろうか」
「怪異と言えど、あれはそこらの墜ち神より厄介な混ざりモノだからな。そう簡単に消えないのなら、何度でも斬り捨てるしかないんだろう。さっさと命じろ、第二皇子殿下」
傲岸に言い放つ青年に、伊吹はまたびくりと身を震わせる。青年の胸元の階級章は少佐位、本来であれば皇族とは言葉を交わすことすら許されない身分だ。しかし咎める者もいない今、彼らの序列が覆ることはなかった。
それでも伊吹は決して目を逸らさずに青年に向き合った。雷のような金色の視線を一身に受け止める空色の瞳は濁らず揺らがず、夏空のように澄んでいる。
「神祇特務隊総隊長、
「承った」
眉一つ動かさずに頷くと、彼は腰の佩刀に目をやった。本来なら儀礼用の軍刀が納まっているはずの腰に差された一振りの太刀。鯉口を切ってすらりと刀身を抜き放てば、ほの白い灯りに反射した刀身がゆらりと陽炎のように揺れた。
「幾らでも手は貸してやる。命を賭けてやってもいい。だがゆめゆめ忘れるな。俺はあくまでも俺の意思で動く」
「分かっている」
清廉な碧眼を見通して金色が僅かに揺らぎ、稲光のように爛々と煌めいた。兄はもういない。炎のような生き様がたたり、三年前から病気がちになっている父帝に無理はさせたくない。幼い末妹には何も知らず笑っていて欲しい。
「命を受けたからには遂行しよう。神祇特務隊は今この時より総力を挙げてサクヤヒメの回収、及び天詠鬼の征討に当たる」
敬礼はない。伊吹も求めなかった。ただ唇をひくつかせるように笑うと青年―都小月煉はクルリと踵を返し、扉を開け放つと闇に溶け込むように消えていった。
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