ただ君想ふ、燦然世界

綺月 遥

起 或る主従の結末

太古の昔より、トヨアシハラには人ならざる魂が跋扈する。其れは時にモノから生まれ、大気から生まれ、草花から生まれ落ちる。時には何らかの理由で人の四魂が変じることさえあった。いずれにせよ、其れらは全て人知を超える力を持ち、本能に忠実であり、己の願いのためならば全てを壊すことも厭わない。

 人の支配が及ばぬ霊魂を、人は三つに分けた。恵みをもたらす上位存在を神と定義して畏れ敬い、人の世に潜み共存する奇々怪々な生き物をあやかしと呼んで共生を試み、彼らが災いを呼び瘴気を撒き散らす異形に変じればモノを怪異と蔑んで祓い殺した。

 トヨアシハラは神の国。人ならざるものがひしめき合う、東の果ての閉じた理想郷。しかし、時代の流れには抗えない。

 東の海に浮かぶ小さな島国を手に入れんと西海せいかいの異国が牙を剥き、トヨアシハラは抗うために三百年続いた鎖国体制を解除する。帝に変わって実質的な統治を行っていた天府てんふは廃され、武家の世は終わりを告げた。

帝が表舞台に返り咲くと、トヨアシハラでは千年ぶりの遷都が行われた。同時に元号も天華てんかと改められ、トヨアシハラの皇族は旧都宵花京よいかきょうより遥か東の暁花京ぎょうかきょうに移ることになる。以後急速に推し進められる変革の先駆けだった。

 文明開化の鐘が鳴り、桜舞い散る暁の都。

四方を砦壁で囲まれ、旧都の都市構造を踏襲しつつ西海諸国の町並みをふんだんに取り入れた暁花京。尖塔を掲げた煉瓦造りの屋敷が立ち並び、ガス灯に照らされた石橋を開通したばかりの四頭立ての馬車がすいすいと渡る。かと思えばくねくねと入り組んだ裏路地には赤い提灯がゆらゆら吊るされ、煤けた木造の長屋がぎゅうぎゅう肩を寄せ合って家族を住まわせていた。

 新しい時代、古い時代。全てが詰め込まれて歯車を軋ませながら、溢れんばかりの人の営みに満たされて廻っていく。

 それがこの街の在るべき姿だった。


 しかし、今現在この街を覆っている光景は正しく異常であった。


 斜陽に赤く朱く染め上げられた帝都に、夥しい数の骸骨が我が物顔で闊歩する。

禍々しい黒霧を全身から立ち昇らせ、手にはボロボロに朽ち果てた鋭利な刃。虚な眼窩に本能的な殺気を迸らせた幾千の骸骨武者が列を成し、目に付く命という命を屠っては無機質に前進していく。

それは正に、百鬼夜行の地獄絵図。

鴉がカアカアと呑気に喉を鳴らす遥か下界で、子どもがワアワアと泣き喚いていた。

 無慈悲な化け物共が通った後には何も残らない。砕けた命は決して戻らず、無力な人の子はただ為すすべなく蹂躙されていく。

 散乱する瓦礫。割れて砕けた無数の硝子。轟く悲鳴、漏れ聞こえる嗚咽。

 そして石畳の上に点在する数多の屍。

 前を向けば人が死に、後ろを向けば炎が木々を呑み込み、横を向けばまばらな人影の中で幼子が泣き叫んでいる。充満する黒煙が誰かの悲痛な懇願を無情に掻き消し、屑ゴミを燃やすよりも容易く目の前の命が奪われていく。

 悪夢だなんて言葉では生温い程の地獄絵図。

 打ちひしがれる暇もなく襲い掛かる非常な現実に誰もが逃げ惑い、理解を拒んで死んでいく。

 辛うじて死を免れた幸運な人間もただ逃げ、せいぜい祈るのが関の山。

 どうしようもない、本当にどうしようもない地獄だった。

 幼子が一人地に転がる。道端に投げ捨てられた赤子を庇い、骨張った背を小さく丸めたおかっぱの童女だ。母親はとうの昔に死の波に呑まれて消えてしまった。

「や、いや……たすけて、おかあさん、たすけて……」

 小さく呟く声は赤子の慟哭としゃれこうべの呻き声に掻き消される。

 頼る背も縋る手も喪った、無力でか弱い小さな命。しかし骸骨武者の魔の手が迫り、その細い身体が刺し貫かれようとした、まさにその瞬間。

 烈風と共に滑り込んだ一条の閃光が、少女に迫る魑魅魍魎共を纏めて薙ぎ払った。


「道を開けろ、下郎共がァ‼」


 ガシャン!ガシャン!

 金色の稲妻が迸り、しゃれこうべの武者を打ち払う。

 一閃の下に砕け散る骨、霧散する黒霧。着地と共に勢い余って蹴り砕かれた瓦礫が砂塵に混じって少女の視界を妨げる。

 赤子をぎゅっと抱き締めた少女が無理矢理瞼をこじ開けた瞬間、視界に飛び込んだのは二つの美しい人影だった。

 一人は黒檀のような黒髪に紅の瞳を持つ美しい女だ。たおやかな背中に身の丈ほどもある巨大な弓を背負い、紅椿が描かれた振袖を翻して微笑んでみせる。もう一人は夜天のような濡羽色の髪を持つ青年で、獣染みた金色の眼光が握り込んだ太刀に反射して煌めく。

 太刀風で桜花が舞い上がる。黄昏に燃える薄紅の向こう、鮮烈な光が少女の目を奪った。


 死の都の真ん中で凛と咲く一輪の花と、その守り人。

 未だ周囲で渦を巻く死を忘れてしまうほど、少女は夢見心地で彼らをジッと目で追いかける。

 

 少女の初心で熱心な視線に気が付いたのか、女はクスリと意味深に微笑んだ。そして少女を優しく一瞥すると、そのまま青年の首に回していた右腕を外して手を振ってみせる。

「その子、見ず知らずでしょう?それなのに身を挺して庇うなんて、どれだけ気高い高僧かと思えば花より可愛らしいお嬢さんじゃない。れん、少し待っていて。こちらの小さな姫君を逃がして差し上げなければね」

「何を悠長に言っているんだ!新手が来る!」

「お前が斬ればいい話でしょう。水を差さないでくださる?」

「ふざけやがって!」

「無礼よ、従者殿」

 切揃えられた髪から脂汗を滴らせ、青年は半ば怒鳴るように声を上げた。しかしその剣幕に反して、彼は女の言う通りに少女の前に立ち塞がって刀を構える。

 ゆらり、ゆらり。

 黒煙を纏いながら襲いかかる骸骨を蹴散らし、瓦礫を焦がして吹き飛ばす。

 ガラガラ音を立てて崩れる音は、少女の耳に届く断末魔をほんの少しだけ掻き消した。

「ねえ、あなた。ご家族は何処に?」

「えっ……」

 紅椿のように凛と艶やかな声が柔く響く。女は青年の腕からするりと抜け出すと、血と擦り傷だらけの少女の頬をそっと撫でた。

「はぐれてしまった?わたくしが探して差し上げましょうか」

「あ……」

 少女はパクパクと口を動かし、着物の裾をギュッと握り締める。白い喉がこくりと動いた。

「おかあさん……もう、動かなくて、どこにも、いないの」

「……そう、でしたの。お父様は……」

「いない、ずっとまえにもう、いなくなっちゃって、もう……おかあさん、おかあさん、まで、いなくなっちゃったの……だから、せめて、この子はわたしが、わたしがっ……」

 少女から零れ落ちた雫ははらりと散って、女の指先を静かに濡らす。ぶるぶる震える少女の細い腕は、それでもしっかりと薄汚れたおくるみを握り締めていた。

「それなら、あなたはお逃げなさいな」

 女は片頬を僅かに引き上げる。幼い少女にはまだ分からなかったけれど、それは身震いするほど凄絶な微笑だった。

「あなたも、にげなくちゃ」

「あら、心配して下さるの?優しい姫君ね、でも大丈夫。わたくしはあなた方を……本当は、あなたのお母様も守るのがお役目だったんだもの」

「でも、でも!あなたもやられちゃうわ、だめよ、だめよ!」

「ふふ、それで済むなら安くってよ」

 女は泣きじゃくる少女の瞼を拭ってやると、玩具のように小さくて温かい肩に手を添えて、くるりと後ろを向かせる。そしてそっと耳元で囁いた。

「どうか、しあわせになってくださいましね」

 少女はハッと目を見開く。そしてまだ溢れてくる涙を乱暴に拭うと、わんわん泣き叫ぶ赤子を抱えたまま一目散に駆け出した。

 遠ざかっていく小さな背中が見えなくなると、女は静かに踵を返す。目の前に開けた大路には無数の骸骨が列を成してこちらへ迫っていた。しかし、爛々と光る刃がどれだけ振りかざされようと、女の喉を掻き切ることは叶わない。

 そしてまた、青年は骸骨を一刀のもと切り捨てた。

 澄んだ刀身は絶え間なく光る稲妻を纏って、青年が振るうたびに風を切って火花を散らす。雷を宿す刃は瘴気に塗れた骨を砕き、化け物がガラガラと崩れるたびに焦げたような匂いが花をついた。

「まだ、この暁花京を護るには足りなかったのね」

六華りっか

「がしゃどくろなんて、わたくしの加護では浄化し切れないもの」

 女は静かに瞑目した。

 がしゃどくろ。無念の死を遂げた人間の怨念の集合体で、墜ち神と並ぶ最悪の怪異の一つ。血が多く流された地、或いは神霊の加護が薄い土地が大量の穢れを浴びた際にたびたび現れる怪異だ。夥しい数の幽鬼を従えて、天を衝くほどに巨大な骸骨の姿を取って現れる。そして手あたり次第に人を喰らうのだ。怪異と言うよりは、天災と呼ぶのが相応しい相手だ。現に今まさに、暁花京は災いに呑み込まれようとしている。

 暁花京を護るのは自分の仕事で、生きる意味だったのに。唇を噛んで天を仰いだ女の背を、青年はそっと擦ってやる。

「あんたのせいじゃない。あの悪鬼の仕業だろう」

 がしゃどくろが最も発生しやすいのは戦場だ。しかし動乱の時代はもう終わった。最後に血が流れてからもう十数年年、今さら自然に顕現するとは考えにくい。

 女はもう一度天を仰ぎ、東の方角をギロリと睨んだ。

「発生源は東……砦壁の近く、恐らく青龍門の辺りかしら。煉、行くわよ。あの悪鬼もどうせいるでしょうし」

しかし、彼は盾のように立ち塞がるばかりで一歩も進もうとはしなかった。白刃を血に向けたまま黒い着流しの袖だけが揺れ動く。女はしびれを切らしたように眉をひそめた。

「何をしているの?このままでは暁花京が壊滅するわ。そうなる前に向かうの、早くなさいな」

「断る」

「何ですって?」

 女はすうっと顎を引き、凍て付くような視線を青年に向けした。しかし彼はゼエゼエと肩で息をしながらも、振り返ることなく金色に煌めく雷の刀を振り下ろす。

 代わりに、血を吐くような声が乾いた風に乗った。

「幾らあんたの命令でもそれは聞けない。あんたを死なせる気はない」

「あら、わたくしもそのつもりだったのよ?でも無理そうね、こうなってしまっては。お前も分かっているでしょう?」

 煉の奥歯がぎりりと軋む。声にならない悲痛な叫びを確かに捉えながら、それでも女は凛然と胸を張った。

「為すべきことからは逃げられないわ。それにもう腹は括ってしまったの。お前も早く覚悟を決めなさいな」

「断固断る!」

 獅子のような咆哮だった。

 怒鳴りながら刀を振り回し、近寄る影を片端から叩き切る護衛の姿をジッと焼き付けるように眺めながら、女はクスリと嘲るように笑った。

「私に逆らう気なの?」

「力づくでも」

「させると思って?お前如きに御されるほど墜ちた覚えはなくてよ」

「……あんたは何処までも無礼だな」

「あら、お互い様じゃなくって?」

「クソ、人間風情が!」

「その人間風情の金魚の糞はどなたかしら」

「クソッタレ!」

 ガシャンと甲高い音がして、また一つバラバラに砕かれた骸骨の破片が地面に落ちる。どれだけ煉が声を上げようと、彼女は暗い方へ歩き出すつもりだ。煉を蝕む焦燥も怒りも全て知りながら、女は残酷なくらい気高く言い放った。

「お前の出自なんぞ知ったことではないの。お前がわたくしに傅く限り、主導権はわたくしのものよ。殉死は認めない。勿論、後追いも駄目よ。自害は許さない」

「クソッタレが……」

「あら、知っていたくせに」

 煉は思いきり唇を噛み締めた。色素の薄い唇が裂けて赤黒い血が喉を伝う。しかし傷は五つ数える前にジワリと塞がった。代わりに、胸の奥の方が槍で貫かれたように痛んだ。

 絶望という感情を、彼は初めて味わっていた。

「玉兎が心配していた、あんたが無茶をして死ぬんじゃないかと」

「……的中させてしまったわね」

「ユーリンは信じていた、あんたは戻ってくると」

「それは困ったわね。代わりに謝っておいてくれるかしら?」

「寧々子は、あいつは最後まで着いて行こうとしていた」

「それはいけないわ、あの子はまだ幼いもの。よく引き止めてくれたわね」

「俺だってこんな、こんなところで死なせるために着いてきたんじゃない……!」

 口に飛び込んだ砂を噛めば、泥を呑み込んだように息が苦しくなる。胃の腑からせり上がる激情が荒い吐息になって吐き出された。顔を合わせなくても分かるほどゴウゴウと猛る呼吸に肩を竦め、女はまた笑う。

「違うわよ、お馬鹿さん。わたくしは確かに幸福を掴もうとした。今だって遅くはないでしょうね。このまま逃げればきっと叶うわ。でもね、それじゃあわたくしが生きた理由が消えてしまうじゃない」

 遠くで瓦礫が崩れる音がした。

 夕暮れに空は赤く燃え上がり、足元には無数の屍と建物の残骸、砕けたしゃれこうべが散らばっている。硝子の破片に反射した朱い太陽が二人を淡く照らした。

 もうじき、夜の帳が落ちる。

 風に翻る髪を抑えながら、女はそっと天を仰いだ。

「愛は生きるための感情だけれど、誇りはわたくしであるための全てよ。そして、この暁花京の安寧はわたくしの誇りそのもの」

「誇りのためなら命を捨てるって⁉ふざけるな、人間のくせに!どうせ僅かな寿命だったんだ、こんな国の安寧なんぞ捨ててみせろよ!」

「嫌よ。元より幾分も生きられないならいいじゃない。人間は愚かで脆くて頑固なのよ、いい加減聞き分けてくださる?」

「生意気な小娘が……!」

「その小娘に逆らえないのはお前でしょうに」

 鈴が転がるような声で嘲られ、煉は酷く不快気に顔をしかめた。しかし直後、心臓の柔らかい部分を粉々に砕くほど優しい声が鼓膜を揺らす。

「お前と出会えてよかった。おかげで望みはほとんど叶ったもの」

「最後の願いを捨てたくせに」

「それは言わない約束でしょう」

 また一つ骸骨を斬り捨てて、煉はゆっくりと振り返る。すぐ後ろで微笑む女は相変わらず気品に溢れた佇まいで、烈風を従えるように凛と立つ姿は腹が立つほど美しかった。

 口の中に入り込んだ砂利を噛み砕き、舌を噛んだせいで溢れた血ごと路上に吐き出す。煉は金の目を吊り上げて、絶命する獣のように息を震わせた。

「……許さない。絶対に許さない」

「お前に憎まれるのは少し恐ろしいわね」

「思ってもいないことを言うな。あんたは俺などこれっぽっちも恐れていないくせに!」

「ええそうね。お前如きにわたくしは曲げられないもの」

 腹が立つほど揺るぎない笑みを思いきり睨み付ける。ずっとずっと、それこそ出会った時からそうだった。人間は脆い。ましてやこんなに華奢な女なんて、煉がその気になれば簡単に捻り潰せる。それなのに、女はいつだって不敵に笑って煉を顎で使うのだ。

 乾いた声を上げながら、煉は微かに笑った。

「俺を縛り付けておいて、あんたは俺との約束を守らないまま逝くのか」

「悪いとは思っているわ。それでも、しばらくはお前が必要だもの。お前の願いを叶えられるのは何もわたくしだけじゃないのよ」

 悪いだなんて微塵も思っていない顔で女はいけしゃあしゃあと宣ってみせる。煉は刀の柄を握る手に力を込めて、最後にもう一度だけ夜天のように艶のある黒瞳を見返した。

「あんたは、本当にそれでいいのか」

「往生際が悪いのね」

「……そうか」

 煉は呆れた息を吐き出して、もう一度骸骨の群れに向き直る。

 その瞬間だった。

 ゴウゴウ、ガシャン!

 ガラガラ、ガラガラ。骨が崩れ落ちる音が絶え間なく鳴り響く。全身をブルブル震わせ、煉瓦造りの倉庫を軒並み踏み潰しながら、巨体がふらりと現れた。

 例えるなら、ソレは天を衝くほどに巨大な一体の骸骨だった。真っ白い骨はところどころ黒々とした瘴気に覆われ、心臓の部分は黒水晶を嵌め込んだように漆黒に染まっている。ポッカリと落ち窪んだ両目にも同じように瘴気の結晶が嵌め込まれ、体躯は身じろぎ一つで建物が破壊されるほどに大きく重たい。

 しゃれこうべの肩に腰をかけ、一匹の鬼がケラケラ笑った。

「もう、ここまで来ていたの」

 女は静かに呟きた。上等だ、もうこれ以上は一歩たりとも進ませない。

 背負っていた弓をそっと取り出し、しなやかな腕を振り上げて構える。ぎいと弦を振り絞りながら、彼女は艶やかに微笑んだ。

「悪鬼の方は任せるわよ、従者殿」

 まるで散り際の紅椿のようだ。凍て付く夜を照らすように凛と咲いて、雪が溶ける前にプツンと落ちる。

「……拝命した、我が主」

 引き裂かれるような衝動を飲み干して、花守りの番犬は黄金の刃を高く掲げた。

 

 天華二十二年三ノ月の十五日、夕刻。

 暁花京に出現した幽鬼の大軍は、変わり果てた街を残して煙が掻き消えるように消失した。

 死者は約五千八百名、怪我人はそのおよそ十倍。

 がしゃどくろの顕現の余波による百鬼夜行。幽鬼どもの侵攻は凄まじく、たった数刻で帝都の三割が壊滅状態に追い込まれた。

 黎明の都を壊し尽くしたこの災禍を、政府は天華事変と名付けた。


 星も見えぬ雨夜に共に齎された報せを、男はぐしゃりと握り潰した。手の骨がギリギリと軋んでも感覚はなく、ただ鮮血がとめどなく腕を伝って袖を濡らす。

「何故、なぜ!ああどうして、どうしてあなたは」

 男は声を張り上げ、獣のように吠えた。泣き喚く主君の姿に慄き、宥めようと伸ばされた近侍の手を払いのけ、彼はひたすらに叫び続ける。

 葉桜の季節、丑三つ時の出来事だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る