3_神居晴雪
①神居神社と怪奇現象
西暦1954年9月16日(木)11:13 天候『晴れ』
観測者は空腹でも死ぬことはない。
その代わり空腹の感覚がずっと続くだけ。
観測者は水分を取らなくても死ぬことはない。
その代わり喉が乾く感覚がずっと続くだけ。
生きるために食事をするのではなく不快感を消すために食事をする。水分もまたしかり。
観測者として貧しい国に滞在していたときは数日間ほど食事を取らずに生活していたこともあった。別の国では観測者を神と崇め、食糧難にもかかわらず貴重な食物を私たちに捧げて飢え死にする者がいた。その者らの腐敗臭がフラッシュバックし、食欲が失せて数か月も食事をとれなかったこともある。
空腹を忘れるなんてことはよくある話だ。気付かないだけで食事を取らなかった日もあったかもしれない。それでも体調を崩すことはない。餓死することもない。そこが人と根本的に違うところだ。
私に限らず観測者にとって食事というのはその程度のものだった。それでも私は、他の観測者たちと比べて食事を好むタイプだったと今では思う。
この世界にひとり残されてからさまざまな国の料理を口にした。ほっぺが落ちる、という感覚だって知っている。舌でとろける肉だって食べたこともある。一時期は美味しいものを巡る旅だってした。
やがて数年が経ち、
数十年が経ち、
季節は何度もめぐり、
数百年が経ち、
数千年が経った頃だろうか。
正確な年月はあまりよく憶えていないが、ただ長い年月が経過したことは確かだった。変わっていく世界と代わり映えのしない私。
だけど変化は唐突に現れた。
小さな幸せを求めて回らない鮨屋に行ったとき、そこで私は”美味しくない”と感じた。刺身の舌触りは悪くない。板前だって雑誌に載るほどの腕前だ。他のお客さんは美味しいと声を漏らして幸せそうに食べている。それなのに私は何を食べても美味しくなかった。それがきっかけだった。
駅前にできた洋菓子専門店のシュークリームが美味しいという噂を聞いた。
『美味しくなかった』
喫茶店のパフェが流行っているという噂を聞いた。
『美味しくなかった』
ピザ、ケーキ、麻婆豆腐、キャビア、A5ランクの牛肉、フカヒレ。
『どれも美味しくなかった』
新鮮食材を使った料理も、素材を厳選した高級料理も、何を食べても美味しくない。不味いわけではない。ただ美味しくないだけ。味覚が無くなったわけでもないのにドーパミンが働かない。舌が肥えているのとはまた違う。こんな感覚は初めてだった。
どんなに空腹でも美味しくない。何を食べても美味しくない。食事が”楽しくない”。
『……あれ?』
食事だけが唯一の生きる楽しみだったのにそれが削られていく。そもそも生きることすら苦痛を感じているのに、そんな小さな幸せすらも奪われていくのか。この先、私は一体何を削られていくのだろう。削られていった先に残るものは何だ? それを想像するのが怖い。そんな悩みを持ったときだった。
『なあなあカレンよ、これ俺が作った黒ゴマおはぎやけん』
昭和中期、まだ木造校舎だった黒姫高等学校に在籍していたときのことだ。そんな悩みとは一生縁がないだろう坊主頭の同級生が私の席でタッパーを広げる。砂糖の甘い香りがした。
『うちは代々、家業と黒ゴマおはぎを受け継いでおって、親父からレシピを伝授したんじゃが、どうにも上手くいかなくてな。そんで観測者として世界中の黒ゴマおはぎを食べてきたお前に味見して欲しいんじゃ』
タッパーには六つの黒ゴマおはぎが敷きつめられていた。その一つを食べろと言わんばかりにタッパーを寄せてくる。
そもそも家業と黒ゴマおはぎを受け継ぐ家系なんて聞いたことないわ。それになんで黒ゴマなんだよ。おはぎの定番はあんこかきな粉だろ。というか世界中に黒ゴマおはぎなんて存在しないわ。認知しているのは日本くらいだわ。観測者として数千年生きる私だって数回食べたことあるかないかの程度だわ。
当時の私は、誰とも馴染まない無口クールキャラだったため、そんなことを心の中で思いながら仕方なくタッパーに入った黒ゴマおはぎをひょいと口に放り投げた。
『不味っっ!!?』
思わず感情が声に出てしまった。それくらい驚くほどの不味さだった。コイツの言う『上手くできなくて』というのは謙遜ではなかった。コイツは不味いものを悪びれる様子もなく他人に食わせるバカ野郎だった。それよりか不味いなんて感覚は久しぶりだった。数百年、いや数千年ぶりだとも思った。それくらい圧倒的不味さだった。
『なははっ! 不味かろう不味かろう!』
そんな私をみて、彼は大きな口を開けて笑っていた。当時の私は心底、不機嫌そうな顔をしていたに違いない。
私はそいつの名前を、悪い意味で、一生忘れないと心に刻んだ瞬間だった。
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