自由とはなんと罪な言葉だろう。人に果てしない夢を見せ、そのくせいつも手が届かない程遠くにいる。どれだけ手を伸ばしても届かない。どれだけ生きても手にすることはできない。その神々しく、実態が見えず、常に私達の頭の上に鎮座するその姿はまるで神だ。私は自由に神を見ている。

 私は嵯峨家の長男として生まれた。私には姉が一人いて、名前は恵子けいこと言った。私と同じ浅黒い肌を持ち、大きな目と溌溂とした笑顔はよく人目を惹いていた。立ち振る舞いは活発でありながら品があり、男にも負けない気の強さを携えていた。そして何より賢い人だった。姉には勉強でも知恵でも勝ったことは一度もない。

 しかし嵯峨家で親の期待を背負うのは私だけだった。父も母も姉には常に大人しく、男を立てるように言い聞かせたが、姉は頑として言うことを聞かなかった。

「貰い手がいなくなったらどうするんだい!」

 母はよく姉をこうなじった。

「男がいなきゃ女は生きていけないなんておかしいわ」

 姉はよく笑い飛ばし、言い返していた。


 姉は大学に行きたがっていた。元より勉強が好きだった姉は医学を学ぶんだと意気込み、毎日のように両親を説得していた。怒鳴られ部屋から追い出されても姉は負けなかった。

 両親は元々私を大学に行かせるつもりで、家計を切り崩しながら私の大学費用を捻出していた。それもあってか姉を進学させるつもりはなく、さっさと貰い手を見つけて親を安心させるよう姉に言い続けていた。元より両親は「女に教育など必要ない」と声高に言っていたので、金があったところで姉の大学進学は同じように阻まれていたと思う。

 両者は折れることも妥協することもなかった。遂に話し合いは喧嘩に発展し、毎晩大声で怒鳴り合う声が家中に響いた。そのうち両親と姉は口を利かなくなり、晩御飯の席には姉の料理が出されなくなった。姉は自分で飯を炊いた。

 両親からの許可はもらえないまま時は過ぎていく。それでも姉は進学を諦めていない様子で日々勉学に励んでいた。母は結婚相手に良さそうな男を見つけては無理やり縁談を設け姉をその気にさせようとした。その度に姉は男に知恵比べを挑み、毎度相手を負かしていた。男達は激昂し足音を鳴らして帰っていった。両親は姉を怒鳴りつけたが、姉はそれを見て笑っていた。

 私よりもずっと賢い姉はきっといい医者になるだろう。そう父を説得するも「女が医学など学べるわけがない」と撥ねつけた。頭の良さに性別が関係ないことは私達兄弟をずっと見てきた両親にはすぐにわかるはずだが、それ以上に骨の髄まで染みついた男尊女卑の考えの方が勝っていた。

 ある時叔母が姉の学費支援を申し出た。母の姉であるその人は賢いのにそのまま結婚するなど勿体ないと姉の味方をしてくれた。姉が医者になったら返済することを条件に姉は進学を許可された。叔母からの条件はそれだけだったが、両親からの条件はさらに厳しいものだった。

 他人に金を出させてまで進学したのだから医者になるまで帰ることは許さない、両親の反対を押し切ったのだから親に支援を頼むことも許さない。医者になって初めて実家の敷居を跨ぐ許可を得る。

「もし医者になれなかったら?」

 私は両親に聞いた。両親は何も言わなかった。姉は了承した。

 姉が旅立つ日は私だけが見送りをした。両親は表に出てこなかった。

「姉さんならいい医者になれるよ」私はそう言った。

「ありがとう。成浩も勉強頑張るのよ」姉は笑い、家を出た。


 大学に進学してから両親と姉はほぼ絶縁状態だったが、私は姉と手紙のやり取りをしていた。初めて住む土地に心躍らせ、新しい知識を身につけることの喜びをしたためた姉からの手紙に私は顔を綻ばせた。姉の手紙が私の勉学の励みになっていた。姉のようになりたいといつしか思うようになった。時代の波に飲まれず、寧ろそれに乗って自分の人生を歩む姉を尊敬していた。

 そうして時間が経ち、私も大学に進学し法律を学んだ。姉のように賢い人になるため寝食も忘れて勉強した。忙しさが増すにつれ、姉への手紙の数は減っていた。姉も忙しいからか手紙を送らなくなっていた。


 そうしているうちに叔母が私を訪れた。姉からの手紙が途絶えたので心配しているという。私は忙しさにかまけて適当に返事をしたが、最近どうしているのかふと気になり姉に手紙を送った。返事は返ってこなかった。忙しいのかと思ったが、その後数回送った手紙にも返事はなかった。

 いよいよ心配になった私は姉を訪れることにした。姉が住んでいる木造アパートに着くも姉が出迎えてくれることはなかった。中に入ると姉は昼間から布団を深くかぶり、丸まっていた。

「姉さん、成浩だよ」私は姉に声をかけた。

 姉は一度びくりと動き、もそもそと布団から手を出した。「成浩?」姉の声は酷く弱々しかった。私はその手を握る。

「大丈夫? 心配したよ。手紙も寄こさないんだから」

「ああ、手紙ね。うん、ごめんね」姉はそれきりまた布団にもぐる。

 私は台所に行き茶を用意した。アパートの台所は埃が溜まり、あちこちにカビが生えていた。換気もされていない為か黴臭く、空気が重い。窓はどこも閉まり、カーテンが閉め切られている。昼間でも異様に暗く、夜と間違える程だった。

「姉さん、何かあったの?」

 私は入れた茶を持って姉の元に行く。姉は黙ったままだった。

「言ってくれなきゃわからないよ。姉弟だろ? 話してくれよ」

 姉は泣きだした。嗚咽を漏らし、鼻を啜る音が布団の中から聞こえる。そして姉が布団から顔を出した。

 姉の姿は他人と間違える程に変わり果てていた。ハリのあった肌は砂漠のように乾燥し、目は落ち窪み、頬は痩せこけ、目からは生気が失われている。艶のあった髪はぼさぼさになり手入れもされないまま放置されている。何日も風呂に入っていないのか、姉の身体からは臭いがした。

「姉さん、一体どうしたんだ?」

 姉は暫く黙ったままだった。手にしたお茶をただ黙って見つめた。やがて姉はぽつりぽつりと話し始めた。

 姉は大学でいじめを受けていた。姉が通う医学部に女は姉一人のみ。完全な男性社会の中で姉は様々な困難に遭っていた。女が大学に通うことに抵抗を感じる男が多くいる中、医学部に通う女は尚更白い目で見られた。「女が医者になれるわけがない」と面と向かって言われたこともあった。それでも最初のうちは言い返すことができた。また成績で見返すことだってできた。姉は大学でも優秀だった。

 しかし、多くの男は賢い女を好まなかった。自分よりも賢ければ尚更嫌悪感を示した。やがて姉は目の敵にされ、周囲からいじめを受けるようになった。物を隠され、壊されることは日常茶飯事。道を歩けば野次を飛ばされ、セクハラまがいの発言もよくされた。教授から姉への伝言を受け取った男子生徒はわざとそれを姉に伝えず、姉は重要な情報を貰えないままだったこともあった。時には個室に無理矢理押し込まれ、襲われそうになったこともあったという。教授たちもいじめを知りつつ見て見ぬふりに徹していた。毎日のように浴びせられる憎悪に、姉は精神を病むようになった。姉はこれが社会における女の立場なのだと知った。黙って馬鹿になり男に付き従うことだけを求められた女の役割。親にだけ反発していればよかったこれまでとは打って変わり、今度は社会に渦巻く女性差別に立ち向かわなければいけなくなった。ただ自由に勉学に励むことすら女である姉には許されなかった。

「どうして実家に帰ってこなかったの?」

 私は聞いた。でも答えはわかっていた。両親と交わした条件に反するからだ。私はそんな条件は今の状況で反故にできると思っていたが、姉は違った。

「父さんも母さんも絶対に許さないよ」

 今思えば、啖呵を切って家を出た姉は両親に頼ることに強い抵抗があったのだろう。ぼろ雑巾のような状態ですすり泣く姉を見て、私は呆然とした。

 私達の違いは性別だけだ。同じ家に生まれ、同じ両親の元に生まれ、同じ環境で生きてきたのに、私は争うことなく大学に行く許可を貰い、生活の支援も貰える。大学に行っても白い目で見られることはなく、寧ろ称賛される。何かあったらすぐに両親を頼ることだってできる。しかし姉は親との縁を犠牲に大学へ進学し、「女の身で」と囁かれ、また女が持つことを許されない卓越した賢さ故に理不尽ないじめを受ける。そんな状態ですら実家に帰ることはできない。姉には居場所がないのだ。大学にも、実家にも。

 私はすぐに両親に手紙を書いた。姉が実家に帰ることを許可するように頼んだ。父は「許可しない」の一言で終わらせたが、流石に不憫に思ったのか母は「大学を辞め、結婚するというのなら許可する」と返事をした。姉は答えなかったが、選択肢がないと判断した私はそれを了承し、姉を連れて帰った。

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