5
それからの面会はただの雑談で終わった。市長は明るく振舞い、冗談すら言うようになった。僕は気まずさを残しながらつられて笑う。市長の計画はほぼ終わったため、それ以降はただ市長の日常を聞くだけだった。金の動きはほとんどなかった。
「今度飲みにでも行かないか?」
市長はふと思い出したように僕に言う。
「飲み、ですか?」
「こんな殺風景な事務所でしんみりと話すのもつまらないだろう。うまいものでも食いながら話そう」
11回目の面会は市長の誘いで飲みに行くことになった。
市長が選んだのは鮨屋だった。こじんまりとした、それでいて品のある佇まいの店。隠れ家的な雰囲気を醸し出すその店は訪れる人をVIPのように思わせる特別感を演じる。
市長は店主と長い付き合いのようで、軽く挨拶を交わした後、僕達は席に案内された。
「仕事上いろいろな店に行くがね、ここに勝る鮨はまだお目にかかったことがないんだ」
市長は徳利を取り僕のお猪口に日本酒を注ぐ。僕が慌てて酌をしようとすると「男の酌はうまくない」と笑い飛ばす。
カチンとお猪口を合わせて乾杯する。
「前はすまなかったね。またまた熱くなってしまった」
「それは僕も同じです」
「こういうことを言うと人は怒るんだが、君は冷静だな」
「怒っていましたよ。でもそれ以上に図星だったんです。御先の仕事について言われた時は、僕自身が見えない檻の中にいることを知らされました」
「それにみんな怒るんだ。知りたくないことを知らされることに、信じていたものを覆されることに、みんな我慢ならない。君はそれを受け入れるだけの器があるんだ」
「買いかぶり過ぎです」
「いや、そんなことはない」
市長はあっという間に徳利を開け、次の酒を注文する。鮨が届くとさらに酒が進み、僕達は酔い始めた。お互い顔も赤くなり、市長はとろんとした目で僕を見る。
「市長が不自由の話をした時、ふと思い出したことがあったんです」
「ほう、なんだね?」
「加見野市にいることが自由と感じるなら残る。不自由と感じるなら出ていく。あれって刑期を終えた出所者に似てるなって」
「出所者?」
「出所者の再犯率は問題視されていますが、その一部は刑務所に戻りたいがために再犯に走るんです。出所後の生活はつらいことだらけだそうで、住む場所がない、仕事もない、金もない、おまけに周囲の目もある。一方で刑務所は寝床があり、仕事があり、金も貰える。周囲もみんな受刑者。社会で暮らしていくよりも住みやすいんだそうです」
「ははははは、君は加見野市を刑務所と例えるか!」
「ただそういう話を思い出しただけですよ」
「そうか。いや、いい例えだ」市長は豪快に笑いながら言う。「加見野市市民が犯罪者とは言わないが、私のやっていることは結局檻の中を快適にすることだけだ。人を檻から出すことじゃない。どこにいても人は自分の檻からは出られやしない。ならそこを快適にするしかない。私はね、望む望まないに拘わらずここに生まれてきた人達に幸せになってほしいだけなんだ」
笑っていた市長はその言葉を最後に少しずつ頭を垂れ、テーブルに突っ伏して寝てしまった。僕はその寝顔を酔った目で見つめる。
私はね、望む望まないに拘わらずここに生まれてきた人々に幸せになってほしいだけなんだ。
これまで理論的に話してきた市長の言葉はどこか『市長』という肩書を通したものとしか感じられなかった。そこには人の感情よりも役職の責任感の方が重くり、人の感情を感じられなかった。しかし、最後の言葉に初めて『嵯峨成浩』という人間の本音が見えた気がした。
最後の面会は自宅で行った。市長はベッドに横になり、ウイスキーを飲んでいる。
「お気に入りのやつだ。これが最後だと思うと名残惜しいな」
「最後の晩餐はどうされました?」
「この近くに住んでいる佐藤のおばあさんに作ってもらった。梅おにぎりだ。小さい時から作ってもらっていたが、あの味が忘れられなくてね。最後の晩餐はあれと決めていた。若い頃にそう話したら佐藤のおばあさんには『私より先に死ぬ気かい』とげんこつを食らったよ。まさか本当になるとはな」
市長は豪快に笑った。僕は笑えなかった。
「もう思い残すことはありませんか?」僕は聞く。
「ないと言えば噓になるな。まあこういったものは尽きないからな。ただやれることはやった。後は妻の元に行くだけだ」
「そうですか」
「君には感謝している。ぶつかることもあったが、君の助けなしではできなかった。君の尽力に心から感謝する」市長は言ってから、またははっと笑う。「いつまでも『君』と呼ぶのは失礼だな。悪いね、これは私の癖なんだ。だがこれも最後だからな」
市長は深く深呼吸して私に向き直る。その挙措に僕は少しだけ緊張する。
「柳澤君。柳澤将義君。これまで本当によくやってくれた。仕事とはいえ、君にはつらいことばかりだっただろう。それでもこうして仕事をやり遂げ、私の最期を見届けてくれることに感謝してもしきれない。本当にありがとう」
深々と頭を下げる市長に僕の胸は震える。僕もつられて頭を下げる。
ああ、またこの人も逝ってしまう。
「君は見届けてくれるか?」
「何をですか?」
「加見野市のその後だ。私の死んだ後ここがどうなるのか、どうしても気になってな」
「随分と弱気ですね」
「強く見せるのは仕事の時だけだ。今は無礼講だ」
「僕は加見野市には住みませんよ」
「他の市に住んでいても加見野市の子に会うだろう。その時に確かめてくれるだけでいい。その子が幸せかどうか。それだけでいい」
「わかりました」
「ああ、頼んだよ」
市長の最期は静かなものだった。静かにベッドに入り、僕が傍にいることを確認して静かに目を閉じ一つ息を吐いて「ごめんね」と一言残し、眠りについた。そしてその呼吸は少しずつ弱まり、止まった。静かに旅立った市長を見届け、僕は手を合わせる。
どうか、安らかに。
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