契約者 嵯峨成浩

「寿命の残りが20年以上の者のみが契約できるとはどういうことだ? 自分の寿命なんて誰もわからないじゃないか」

「それを判断するのはこの本です。今の生活を続けた場合にこの先どれくらい生きられるかを見積もり、20年以上の寿命が残っていると判断された方のみ契約可能です」

「つまりここである程度の自分の寿命がわかるということか。私は60を超えたが、どうやら平均寿命以上は生きられるはずだったらしいな」

「あくまでおおよその目安ですがね」

「売主以外の者はカードの使用はできないと契約書にはあるが、現金の場合はどうなる?」

「その場合も同様です。カードを使用して現金を下ろした場合、売主の手を離れた時点で現金は白紙になります。物品等の購入の際に現金を使用した場合はその限りではありません。ですので現金で物を購入する場合は、引き落としから支払いまで現金を肌身離さず保有することをお勧めします」

「相続や寄付は取引の元に可能というのは?」

「相続や寄付は受け取る相手との間に取引を行う場合に可能になります。物品と現金を交換する形でも構いませんし、売主の要望を叶えるという内容で現金を相続、または寄付することが可能です」

「要望を取引内容にした場合は、それを反故にされる場合があるんじゃないか?」

「それはありません。強制的な形で相手はその要望を叶えるように動きます。しかし、その人自身は従わされているとは感じることはなく、あくまで自分の意志で売主の要望に沿う行動をとります。その期間は売主が提示する要望によります」

「恐ろしい話だな。金で他人を意のままに動かすことができるのか」

 それを楽しめるのはあくまで余命一年の中だけだが、と僕は心で呟く。

「カードを紛失した場合はどうなる? 第三者が拾った場合は不正利用されるのか?」

「その心配もありません。カードは現金と同じで売主の手にある時のみ作動します。もし紛失された場合は僕の方までご連絡ください。新しいカードを発行します」

「もしカードを失くしたと嘘をつき、新しいカードを発行した場合は20億手に入るのか?」

「いえ、10億のままです。このカードはあくまで売主が代金を使用するための媒体でしかありません。また新しいカードが発行された時点で古いカードは使えなくなります」

「その辺りはクレジットカードと同じ仕組みか。この契約はまるで魔法だな。正直信じ難いが自分の寿命を売る対価としては素晴らしい。だが条項七を見ると、余命一年を保証するものではないみたいだな」

「その通りです。通常通りの生活を続けていただければ基本的に余命一年以内に亡くなる可能性は極めて低いです。しかし、中には金に目が眩んで危険なことに手を出してしまう方がいます。その場合は死亡リスクが高くなります。しかしそれは売主自身の責任になりますので、こちらでは対応しかねます」

 今度は、欲のままに余命一年の寿命すら縮めてしまった人を思い出した。今でも遺体と面会した時の悲しみが蘇る。この人が同じことをしないように、とひっそり心の中で祈る。

「君は御先だと言ったか? どんな職種だ? 契約のアシスタントか? もし売主が犯罪行為に金を使おうとした場合でも君は止めないのか?」

「おっしゃる通りです。私達に売主の代金の使用方法について咎める権利はございません。それは寿命という価値のあるものを売った売主の意思を尊重する為です。ですが犯罪行為に使われるわけにもいきません。その為、契約を希望される方は事前にこちらで身辺調査を行っております」

「なるほど。私は書類面接は通ったらしいな」

 目の前の男性の表情がふっと緩む。それを見た僕の肩も少しだけ力が抜ける。この人から滲み出る厳格な雰囲気と威圧感のある口調は、室内の空気すらも引き締めてしまう。

「面会の際は嘘偽りなくと書いてあるが嘘かどうかはどうやって見破る?」

「すべての判断はこの本が行います。見事なまでに嘘を見破りますので、正直に話すことをお勧めします」

「それでは禁止事項を行った場合のペナルティがあるのか? それがなければ無法と変わりない」

「ペナルティはあります。ただ明記されていないだけです。嘘の報告を行った場合は、余命一年の間の出来事が売主の望まない形になります。例えば代金を使用して購入した物は不良品だったり、曰くつきだったりというのがよくある例です。また、相続や寄付の際の取引内容も果たされず、相続等を受け取った人に取引内容の遂行義務も課されません。何が起こるかはそれぞれのケースによります」

「なるほど。犯罪者もこれで嘘がつけなくなるな。嘘は望まない結果を招き、正直に話せば君は通報ができる。後は警察が何とかするからな」

 その通り。あくまで「買主と御先」は介入しないことになっているが、第三者は介入が可能となる。

 流石、元弁護士。纏う風格に恥じない頭の回転と理解の速さに感服する。

 それにしてもいつ質問が終わるのだろう。この本と契約の仕組みから契約内容まで一文字一文字をなぞるかの如く、雨のように質問を浴びせられる。もう三時間くらい経っている。こんなに長い契約は初めてだ。いや、そもそもまだ契約の前段階だ。弁護士はその内容のすべてに納得するまで契約書に署名も捺印もしないと聞くが、それが事実だと体感する。

 目の前の男性は本を手に取り、片手を顎に当て契約書の内容を何度も目で追っている。浅黒い肌に、眉間と額の皺は深く刻まれ、黒々とした太繭は皺に合わせて生き物のように動く。年齢が60を超えたと言っていたが、もう少し年を取っているように見える。恐らく職業上のストレスが顔に出ているのだ。法の住人は想像を超えるような重圧に晒されるのだろう。

「わかった。契約に同意する」

 その人は言った。僕の目を真っ直ぐ捉えて離さない力強い眼差しは、腹を括ったことを表している。

「承知しました。それでは契約に移ります」

 

 契約は無事に終了した。あまりにも久しぶりにこの仕事を引き受けた僕は、緊張して舌が空回りして変な声が出た。にこりともしない男性の雰囲気は、僕の拙さを余計に強調するようで居心地が悪かった。契約者が「では次は面会で」と一言残し、帰っていった。見送った後、大きく息をついた。緊張が肩から抜ける。

 本のページに刻まれた署名に目を落とす。全体の文字が斜めに傾き、所見では解読が難しそうな達筆のそれを見る。

 嵯峨成浩さがなりひろ。62歳、男性。生まれも育ちも加見野市で、高校卒業後は他県の大学の法学部に入学。卒業後にこの地に戻り、弁護士として生計を立てる。結婚はしているが、妻は5年ほど前に病気の為他界。子供はおらず、現在は一人暮らしをしている。数年前に弁護士職から退いた。現職、加見野市市長。

 申し分ない学歴、職歴と強烈な地元愛が有権者の心を掴み市長としての人気を誇っていた。ところが最近深刻化している少子高齢化により経済的に打撃を受け、その対策に苦戦している。もともと大きくもない加見野市からは若者が出ていき、高齢者ばかりが残るようになった。あらゆる職種で人材不足の不満が聞かれ、減っていく税収に市は資金繰りに悪戦苦闘していた。

 若者で溢れていた加見野市も今ではかつての活気が嘘だったかのように静かになった。今後の政策次第では、次期選挙の当選も怪しまれると陰で囁かれているのを耳にした。

 嵯峨市長は10億を政策に使うつもりなのだろう。彼の金の使い方次第で加見野市の将来が決まるかもしれない。

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