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「これが僕の家系に伝わる神話だよ」長い話の後に一息つき、柳澤さんはそう言った。
「よくできたお伽話でしょ?」
いらずらっ子のような表情がこちらに向く。
「僕もこの話が本当だとは思っていないけどね。でも御先の仕事は一人の少女から始まったというのは本当らしい。その子の名前は
だからか、と合点がいった。というのも、柳澤さんは時々この本を「望」と呼んでいたからだ。
「柳澤さんが本を『望』と呼んで愛でていた時は、頭を病んでるんだと思っていました」
「なかなかひどいこと言うね、境くん。まあ病んでるのは事実だね。頭じゃなくて肺だけど」
青白い顔色、鼻にカニューレを通した状態で柳澤さんは笑う。話すたびに浮き出る首の筋と深い窪みが上下する。点滴に繋がれた腕は酷くやせ細り、血管が浮き出ている。肺炎で入院するのはこれが初めてではないらしい。数年ぶりに会った柳澤さんの変わり果てた姿に、僕はかつての面影を探すことすらできずにいた。ただ柳澤さんの話口調だけが昔を思い出させる。穏やかで、静寂の中のせせらぎのような落ち着いた声。今は少し掠れて話しづらそうにしているこの口調が、懐かしくあると同時に僕の心に影を落とす。
ああ、この人も逝ってしまうのか。
僕は若くして人の死を見過ぎたのだと思う。同年代でこれ程人の死に際に立ち会う人はいないだろう。そのすべての人が、家族程近いわけでもなく、知り合い程遠くもない距離にいる。にも拘わらず、その人達の暗く、深い部分に関わった。知り合いという関係だったら決して知ることはなかっただろうそれに僕は触れてきた。その微妙な関係性は、その人達の死に際に僕を虚無に引きずり込む。盛大に涙を流して別れを惜しむわけでもなく、かと言って決まり文句をなぞる様に「ご冥福を」と言ってすぐに元の日常に戻れるわけでもない。僕はその人達が亡くなったことで胸に残る虚無の余韻に毎回身を投じていた。悲しみの淵にいるわけでもないのに、体から活気が抜け落ちる。絶望しているわけでもないのに、何も身に入らない。「死」について考えるだけの抜け殻のような状態が一定期間続く。柳澤さんの死によって僕はまた同じものを味わうことになる。
「境くんは元気にしてた?」
「はい、変わらずです」
「変わらずと言われても数年会ってないからね。いつの時点から変わっていないのかわからないよ」
それもそうだ、と笑い、僕はこれまでのことを簡単に説明した。
僕が御先の仕事を辞めたのは29歳の時。それ以降は特に代わり映えしない日常に戻り、仕事に専念し続けた。そして30歳の時に彼女ができた。控えめで器量のいい彼女の挙措に好意を抱き、晴れて交際することになった。その2年後に結婚し、現在は所帯を持っている。結婚式は慎ましやかに行った。柳澤さんも招待したが、肺炎で調子が良くなく参加できなかった。
「あの時は申し訳なかったね」
「いえ、式に出席していないのに御祝儀をいただいて、本当にありがとうございます」
「いいよ、改めて結婚おめでとう。境くんの花婿姿見たかったな」
それからは他愛もない昔話に花を咲かせた。骨ばった胸を上下に躍らせながら笑う柳澤さんは痛々しく見るのも辛かったが、笑えるくらいの元気があることに安心した。やがて話題も尽き、沈黙が流れる。柳澤さんは窓の外を眺めながら呟く。
「望って可愛らしいけど、実に人間じみた名前なんだ」
柳澤さんは窓から目線を反らさず続ける。
「人は願望し、熱望し、渇望し、待望し、懇望する。人の願いも様々だよ。衆望、声望を願い、仰望されることを夢見る。野望もあれば非望もあり、時には怨望することもある。宿望が叶う際は人の心は希望に満ち溢れ、意に沿わない場合は失望に落ちる。人の願いはなんと強固なものだろう。昔僕のお祖父さんが呟いていたよ。長寿よりも所望を選ぶ人達の多くは、迎える最期を本望だと口にするんだ、と。望って可愛い名前だと思ってたけど、頭につく漢字でこうも様々な顔を見せる。この本が叶える人の望みはそういうものなんだよ」
「さて、僕のお願い事なんだけど」
「望ちゃんに頼みますか?」
「そういうことじゃなくて。どの道僕はもうそんなに長くないから契約はできないよ。これは個人的なお願いとして聞いてほしいな」
柳澤さんの声がか細い。長く話し続けるのも楽ではないのだろう。
「御先の役割を引き受けてもらいたくてね。本来は僕の家系で引き継ぐものなんだけど、僕の親戚たちは金に目がくらんでしまってね。僕は妻を亡くして子供もいない独り身だからね、僕がいなくなれば自動的に親戚たちの手に渡ってしまうかもしれない。現代は信仰心を持った人は多くないから、金の生る木は悪用されるのが末路だ。神話でも信用できる親友に引き継がれてるしね。境くんならきっとこの本を、望を、守ってくれると思う」
「僕も望ちゃんって呼ばないとだめですか? 僕は白い目で見られるのは勘弁です」
僕の返事を聞いて柳澤さんはふっと弱々しく笑う。
「僕をいじるのが好きだね、境くん。前はもっと可愛い素直な子だったのに。スレちゃったね。悲しい」
柳澤さんは細い手で顔を覆い、おいおいと泣く真似をする。そんな姿を見て、僕は笑った。笑っていたかった、ずっと。そうしないと泣いてしまいそうだった。
「で、僕の願いは叶えられるのかな?」
柳澤さんは、指の隙間から目を覗かせて僕を見る。
「正直、僕は今でもこんな契約はない方がいいと思っています。だから御先の役割を引き継ぐ気はありません」
柳澤さんは残念そうに目尻を下げる。僕は続ける。
「でももう一つの願いは叶えることができると思います。本を守るという願いなら」
それを聞いて、柳澤さんは柔らかい笑顔を見せた。
「いいよ、それで十分だ。本を大事に保管して、他の人の目に触れないようにしてくれればそれでいい。僕の親戚も気づかないだろう」
何年か前にもう燃やしたと嘘ついたしね、と柳澤さんはからっと笑う。そして震える手で、ベッドの脇にあるタンスを指差す。
「そこに本があるよ」
何年かぶりに触れるその本は、僕がこれまで関わった契約者達との思い出を想起させた。溢れるそれに、僕の目にはまた涙が溜まる。
「こんな重荷を持たせて申し訳ないと思ってる。でも僕は境くん以上の適任者はいないと思っているよ」
僕も随分高く買われたものだ。それだけの成果を残した心当たりは微塵もないのだが。
「望を、よろしく頼むよ」
柳澤さんは僕の手をしっかり握りしめた。細い腕からは想像もできない程に、その力は強かった。
「それと最後に聞きたいことがあるんだ」柳澤さんはか細い声で言う。
「なんですか?」
「境くんは幸せだった?」
唐突な質問に僕は答えに少しだけ窮した。
「難しい質問ですね。現代社会では答えに窮する質問ですよ」
「わかっているよ。でも聞きたいんだ。君は幸せ?」
僕は少し考える。そして静かに答えた。
「幸せ、なんだと思います。無難に幼少期を過ごして、地元で何不自由なく過ごして、大学自体に変わったバイトをして、それで辛くなることがあっても僕には頼れる人がいました。友達も少ないけどいます。今は家族ができました。僕はきっと幸せです」
「そうか、ならよかった」
柳澤さんは安堵するように静かに息を吐き、目を閉じた。
1か月後、柳澤さんは亡くなった。最期は眠る様に静かに息を引き取ったらしい。数日後に葬儀が開かれた。名家の生まれであることは知っていたが、葬儀に訪れた人の数は僕の想像を超えていた。人でごった返す葬儀場で、僕は静かに線香をあげ手を合わせた。
葬儀を終え、僕は帰路についた。家に帰ると、妻はおかえり、と優しく言った。僕はただいま、と返し、そのまま礼服を着替える為自分の部屋に行く。堅苦しい礼服を脱ぎながら、隅に置かれた箱を一瞥する。ダイアル式の鍵がついたその中に、本は収められている。ネクタイを解いた僕は、その箱を手に取り、静かに鍵を開けた。古びた赤い本が顔を見せる。それが纏う独特の雰囲気に触れるように、僕は本を開く。そこには契約書のみで、その他には何も書かれていない。それでも紙に触れると、不思議と本が鼓動しているような錯覚に陥る。小さな子供の、弱く、無邪気な、速い鼓動。その感覚が手に伝わり、胸に温かなものが芽生える。まるで子供を抱いているような、愛おしい気持ちに包まれる。
「望」
僕はそう呼んだ。柳澤さんがかつてそうしていたように。
望は僕の呼びかけに応えるように一度だけ大きく鼓動した。
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