10
ある日僕は事務所にいた。柳澤さんは相変わらず髭にスナックのかすを零しながら涼しい顔で僕に挨拶する。
「随分暖かくなってきたね」
柳澤さんはソファにゆったりと座る。
「そうですね」
僕は買ってきた缶ジュースを柳澤さんに渡す。勢いよく飲む柳澤さんを横目に見ながら僕は向かいのソファに座る。
「で、話したいことって?」柳澤さんは聞く。
今日僕は、柳澤さんに伝えたいことがあって来たのだ。いざ口にするとなると少し臆してしまう。僕の神妙な顔を見て柳澤さんがソファに座りなおした。姿勢を正すと本来の格式の高さと威厳が蘇る。
「単刀直入に言いますと、御先の仕事を辞めたいと思っています」
柳澤さんは無表情のまま驚く様子もない。
「理由を聞いてもいいかな?」
僕は一息つき、話し始める。
「これまでもこの契約に対しては疑念を持ってました。お金よりも人生の方がずっと大事だと僕は信じています。真壁さんはあんな虚構だらけの人とのくだらない勝負で寿命を縮めた。尾形えみはもう少しで父親に救われたかもしれない。でも一足遅かった。時間があれば父親に再会できたんです」
徐々に感情的になる僕の声に、柳澤さんは目を閉じたまま耳を傾ける。
「それでも二人とも寿命を売ったことは後悔していませんでした。でも河野は違います! あいつは心の底から後悔してました!」
最期の日に河野が僕にかけた言葉はやせ我慢だと思っている。「契約を取り消したい」と言ったあの時が河野の本心の気がしてならない。そんなあいつに、僕は何もできなかった。
「時間があれば、大金は稼げなくてもやり直せることはあります。でもこの契約は人からその希望を奪い、一時の望みだけを叶えるものです。僕はどうしても納得できない」
言い切って息が切れた。高ぶった感情を抑える為に数回深呼吸を試みる。
「君の言いたいことはわかった」
柳澤さんの声は落ち着いている。初めから僕の気持ちを知っていたかのようだ。
「境くんは今までよくやってくれたから期待してたんだけどね。残念だよ」
僕は柳澤さんの顔を見たくなくて俯いていた。
「今まで御先の仕事をしてくれたことに感謝しているよ。うちの家系のもので本来は君の仕事じゃないのに、引き受けてくれて本当にありがとう」
仕事を引き受けたのは、割が良く、それでいて他のバイト程時間を取られない労働条件に惹かれたからだ。でも、他人の人生の深い所にまで関わるこの仕事は僕には荷が重い。そして、将来の希望を捨ててまで大金を得た人生の最期を見ることに僕はもう疲れていた。
「今までお世話になりました」
深々と頭を下げる。柳澤さんは僕の肩をポンっと軽く叩いた。
僕は御先を辞めた。
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