寿命を売ってよかったと思うことは二つある。一つは境と仲良くなれたこと。死ぬ前にいい友達ができたと心から思う。もう一つは相続をすることでつぐちゃんと取引ができること。最初で最後の俺の要望は死んだ後に叶えられる。複雑でごちゃごちゃした俺のつぐちゃんへの気持ちはたった一言に集約される。それが相続の取引内容。それが果たされる頃には俺はいないが、生前の願いが叶う補償があるのは恵まれてると思う。

 境と病室で話した後、つぐちゃんが病室に入ってきた。再会した頃と何一つ変わらない笑顔を浮かべ、何もなかったかのように「久しぶりだね」と手を振る。その微笑みの美しさに僕は少しばかり見惚れてしまった。そのまま「綺麗だね」と呟いた。つぐちゃんは「やだ、もう。稔君たら」と俺の腕を軽く叩いた。照れている様子はない。定型文のような返事を返しているだけだ。「綺麗」なんて言葉は言われ慣れているんだろう。そのスレた様子ですら愛おしく思ってしまう。

 話したいことは山ほどあった。俺の精神状態がおかしくなり始めてから、つぐちゃんは以前にも増して距離を取るようになり、配信を止めてからは連絡なんて全く来なくなった。金の切れ目が縁の切れ目。そんな関係だってわかってた。そして俺への愛なんて微塵もないというその無言の通達が、俺を底辺に突き落とす。俺は元々いた場所に「落ちた」。いや、それより下に落ちたのだろう。だって底辺にいる人達は自分達がこんな美女と付き合えないことを知っている。自分の立ち位置を理解している。俺は理解していなかった。だから一度ランクが上がり、そこから底辺よりも下に落ちたのだ。「勘違いしたお前のランクはもっと下だよ」と言われているようだった。今思えば、底辺の人達が自分を卑下してまで期待しないのは、底辺よりも下に落ちないようにする自己防衛なんだと思う。そして「落ちた」俺を「身の程を弁えないやつ」と見下し、俺の二の舞にならないよう必死に自分を卑下する。俺は今、底辺の奴からも見下され、憐れまれ、避けるべき失敗例として反面教師にされる存在になった。俺がかつて同じように見下していた奴らのように。

 つぐちゃんは「大丈夫?」と俺に声をかける。心配の欠片もない、挨拶と同じ口調で定型文をただなぞる言い方。俺が今日死ぬからと、もはや繕う気もないらしい。

「大丈夫だよ」

「そっか、それならよかった」

 俺の体重は激減した。そもそも入院している。俺の変わりようを見れば誰もが「大丈夫じゃない」と思うはずだ。それでも彼女は気にも留めない。俺が「大丈夫」と言えば言葉通りに解釈し、「大丈夫じゃない」と言えば労いの定型文を並べるだけ。それならいっそ最後まで音信不通でいてくれたらいいのに。露程も俺を気にかけていないことを目の前で見せつけられるより、音信不通の方がずっと親切だ。

 そして彼女は俺をじっと見つめながら言葉を探している。今日ここに来た用事を済ませるために。

「相続のことだよね? 1階のコンビニにATⅯがあるからそこで手続きしようか」

 俺がそう言うと彼女は両手いっぱい広げて俺に抱き着く。彼女の温もりがやせ細った俺の肩に伝わる。吐息が俺の左耳にかかり、彼女の細身のわりにある豊かな胸は俺の骨ばった胸に押し当てられる。いつものやり方だ。要望を聞いてほしい時、聞いた後、彼女はいつもこうする。俺がこれで満足し、すべてをチャラにするとわかってやっている。何一つ変わらない彼女の行動に安堵する。よかった、俺の願いはもう揺らがない。

 二人でATⅯに向かい、俺は機械を操作して10億すべてを彼女の口座に入金した。こんな大金、普通なら機械の振込額の制限でできないはずだが、どうしてかこのカードでは可能だった。本当に不思議なものがあるものだ。今更俺は感心する。それも仕方がない。契約してから今までこのカードを使ったことはなかったから。

 つぐちゃんはそんな摩訶不思議なカードには目もくれず、俺の手元を眺める。無邪気を装っているが俺がきちんと入金するか確かめているの。ものの数分で手続きは終わり、発行された明細書を見てつぐちゃんは大きな目を垂らし、明細書を口に当てて笑う。可愛いと思われていることを理解している笑顔だ。そしてちょろい俺は「可愛い」と思った。

 病室に戻ると、つぐちゃんと俺はベットに横並びで座った。

「稔君、本当にありがとうね! これで私の夢が叶うよ」

 よかった、叶うといいね。

「ずっと自分が理想とする老人ホームを建てたいと思ってたんだ」

 そうか、役に立ったなら俺も本望だよ。

「私きっといい施設を作るから。みんなに幸せになってもらえるような場所を作るの」

 俺の病状を気に留めない君が作る施設は、きっと素晴らしい場所になるんだろうね。

「今の職場も問題がいっぱいあってさ、何とかしたいんだけど、ほら、根本的な問題って改善が難しいでしょ?」

 働いたこともない老人ホームの問題点を知っているなんて、随分勉強熱心だね。

「ダメになった施設はもうどうにもできないと思うの。だから一から作るの」

 人の命を踏み台にしてね。

「いい施設を建てて、お年寄りがみんな幸せに過ごせるように私が貢献するの。私がみんなの蜜蜂になるの。だってみんなが幸せになるのが私の幸せだから」

「幸せにならないで」

 つぐちゃんの顔が固まる。口元は吊り上がったまま僕を見る。

「え、なんて?」

「幸せにならないで。これが取引内容だよ」

 聞こえないふりなんてさせない。俺の願いを聞かせるまでは、死んでたまるか。

「老人ホームで働いてないことは知ってる。他に男がいることも知ってる。金目的で俺に近づいたことも、俺のことを弄んでたことも全部知ってるよ」

 つぐちゃんは引きつった顔のまま、目を泳がせる。喉が少し痙攣し何か言おうと言葉を探してる様子だが、言い訳すら出てこないらしい。俺は今まで見上げていたつぐちゃんを初めて下に見た。悪事がバレたことに戸惑っている姿はまるで馬鹿丸出しの子供のようだった。そんな姿も愛おしいが。

 俺が馬鹿だったのはわかってる。それでも一緒にいられることが嬉しくて俺は文字通りすべてを捧げた。騙されていたとしても俺は幸せだった。君がついた数多くの嘘だって俺はそこまで気にしていない。すべてを許せる。君の為なら本当に何でもできると思っていた。それこそ命を投げ捨てることだって。君が幸せならそれでいいと思っていた。君の笑顔が俺の心を満たしてくれた。その笑顔を守れるなら俺はなんだってでする。

 でも他の男と幸せになるのは我慢できない。君を全力で幸せにしたい。ただ幸せになるなら、頼むから、俺の隣で。俺を踏み台にして、俺との関係をなかったかのようにしないで。君の為に命を捧げた蜜蜂は使い捨ての駒なんかじゃない。君と幸せになる夢は途絶えたけど、君が俺という蜜蜂をこの先も想ってくれるのなら、俺は寿命を売ってよかったと思える。もし、少しでも俺のことを気にかけてくれたなら。それは儚い希望だろう。いや、希望ですらない。ただの願いだ。つぐちゃんが俺のことなどすぐに忘れてしまうことは目に見えてる。

 だから、このまま金だけを渡して他の男と幸せになんてさせるものか。俺を踏み台にして、他の男と一緒になる君は不幸になればいい。君は俺の隣でしか幸せになれない。だからいつまでも俺のことを忘れないで。女王の為に命を賭した蜜蜂は無限の愛情を抱えていたと。それを無下にしたことを一生後悔すればいい。そして蜜蜂の大切さに気付けばいい。そうすれば俺のこの行き場のない愛憎は報われる。たとえあの世にいたとしても。

 だから、どうか、

「幸せにならないで」

 俺は終始笑顔だった。口にした言葉はたった数語だけ。それでも心にあるものをすべて吐き出したような開放的な気分だ。気持ちがいい。

 俺とは対照的に顔が陰ったつぐちゃんは、何も言わずにバッグを持って病室を出て行った。


 その後両親が来た。俺の隣に来た瞬間から母さんは涙目で、言葉はどもってうまく聞き取れなかった。育ててくれた恩をと思い、書いた手紙を読み上げた。結局月並みな言葉しか挙げられなかったが、それでも俺の感謝は伝わったと思う。俺に残された残り1時間程度は両親と手を取り合ってお互いを見つめ合う静かな時間だった。それでも俺の心の中は溢れる感情で埋め尽くされていた。それに伴って涙も溢れる。父さんと母さんも同じだった。静かに流れる涙が俺達の言葉の代わりだった。

 ふと窓を見る。柔らかい日の光に紛れて1匹の蜜蜂が窓に張り付いていた。こんな寒い季節にまだ働いているのか、そもそも花なんてもう咲いていないだろうに。窓に張り付きながらもそもそと蛇行して這い回る蜜蜂を指で辿る。蜜蜂はガラスを挟んで俺を興味深そうに見る。触角を忙しなく動かし、窓から蜜を吸い出そうとする。その姿がなんとも可愛らしくてすぐに愛着が湧いた。こいつを救ってやりたい。今ならまだ間に合う。そんな一心で蜜蜂に呟いた。

「逃げろ」

 逃げるんだ。女王はお前を気にしちゃいない。お前は逃げて、自由になるんだ。お前の女王への愛が、お前自身を殺す前に。

「稔、どうしたの?」

 母さんが俺に話しかける。

「蜜蜂が窓にいて、可愛いなって……」

 俺は窓に張り付いた蜜蜂を指差す。

「蜜蜂? どこにもいないわよ?」

 それを聞いて、自分が指差している窓に目を凝らす。そこには小さな黒いしみがついているだけだった。

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