「知ってる? 蜜蜂って女王蜂への献身の為に命を捧げるんだよ」

 彼女は公園の隅に咲いている花を指差して言った。そこでは蜜蜂が花にしがみつき、あくせくと蜜を集めていた。

「蜜蜂の針には返しがついていて、一度刺すと抜けなくなるの。その針には毒を送り込むための産卵管がついていて、針を無理に抜こうとすると臓器まで一緒に抜けてしまうの。そして蜜蜂は死んでしまう」

 滑らかで、本を朗読するような口調だった。透き通った声は周囲の雑音を消し、俺の耳に静かに入ってくる。心地よい。それが最初に感じた彼女の話し方の印象だ。

「蜜蜂はそれをわかった上で敵を攻撃するの。すべては女王を守るため。美しい献身だと思わない? 自分の命よりも大事な人がいるってこの上ない幸せだと思うの」

 他の人がこんな話をしていたら「くだらない自己犠牲」と唾を吐いていたかもしれない。でも彼女の口から語られるその話は俺の皮肉に満ちた心を静かに溶かしていった。俺の顔は自然と笑みが零れる。彼女と過ごす時間はすべてが幻想的で、俺はあの時この上ない幸せの中にいた。

「稔君はそういう人はいる?」

 君だよ、と心の中で叫んだ。正直、自分の命と何かを秤にかけたことがないからそれよりも大事かどうかは深く考えたことはない。それでも「大事な人はいるか?」という質問には光よりも速く答える自信があった。君だ。

「私は、今はいないかな」彼女はそう言う。

 その答えは俺を軽く落胆させた。勿論顔には出さなかった。同窓会で再会して会うようになってからまだ日が浅いのにこんなことを期待するなんてどうかしてる。そもそもこんな美女が俺なんかを好きになるわけがない。その上自分も口に出さなかったくせに相手に都合のいい答えを求めるなんて勝手だ。それでも「稔君だよ」と答えてくれないかと馬鹿な俺は期待した。そしてその期待はさらに肥大した。

 俺が君の為に自分を犠牲にしたら「稔君だよ」って言ってくれる?

 こんな浅はかな期待すら、至福の中にいる俺には美しく見えた。砂糖菓子のように甘い幻想は俺を狂わせる。この時俺は何となくわかっていた。彼女が俺の金目当てに近づいていること。でも彼女に魅了され狂わされたその感覚すら甘かった。騙されていることがわかっていても離れられないその甘さはもはや麻薬と言ってもいい。

 程なくして俺達は付き合い始めた。いや、そう思っていたのは恐らく俺だけ。「付き合ってください」とどちらかが言ったわけでもなく、ただ距離が近づいただけ。おまけに他に男がいるような噂を小耳に挟んだ。でも咄嗟に耳を塞いだ。事実を知りたくなかったからだ。でもキスはした。手も繋いだ。彼女が頻繁に俺の家に来るようになった。「同棲についてどう思う?」という質問と同棲についての軽い議論だけを交わした。そして彼女はマグカップを一つキッチンに置いて、「こうしていると同棲に見えるね」と無邪気な笑顔を俺に向けた。

 狡いな、と思う。はっきりと「同棲しよう」と言わない、でも同棲しているような関係は築く。あくまで「しているような」だが。でも恋愛経験が皆無の俺は、それを「同棲」と言ってしまいたくて仕方がなかった。ようやく得た女性との関係を、しかもこんな魅力的な人との関係を「付き合っている」、「同棲している」と言ってしまいたかった。だから俺は、境に嘘をついた。


 病院の窓から空を見る。誰かが秋と冬の空は夏に比べて高いと言った。そうだろうか、とその時は実感が湧かなかったが、今は何となくわかる気がする。今日これから行く青く澄んだ空はいつもよりも高く見えた。

 なぜこうなっただろう、と考えるのはもう止めた。それは寿命を売ってからの1年間、飽きる程繰り返してきた。そして答えは出なかった。いろいろ思い当たる節はある。でもそれを頭に浮かべた次には、どうして回避できなかったかと自責に陥り、最後にはもうどうにもできないという絶望が俺を襲う。でもすべてはあの時に起因する。二人で公園を歩いて、つぐちゃんから蜜蜂の話を聞いた時。あの時は俺ははっきりと「君の蜜蜂になりたい」と思っていた。

 それからはつぐちゃんの幸せだけが俺の存在理由だった。配信で稼いだ金で貢ぎ、彼女の要望に何でも答え、自分の献身ぶりを示した。すべては彼女から「大事な人は稔君」という一言を貰う為。俺の生活はつぐちゃん一色になり、常に喜ばせる為のプレゼントやデートプランばかり考えていた。彼女の笑顔は俺を安心させ、残念そうな顔は俺を不安にさせた。彼女の期待に応えられたなかった日は夜も眠れず、挽回の策を頭の中で練っていた。常に彼女の機嫌を取る俺はまさに都合のいい男だっただろう。それにもかかわらず俺は「女王に一番献身する蜜蜂」とくだらない称号を自身に与えて矜持を保ってすらいた。


 今思えば彼女への愛情だけじゃなく、承認欲求にも囚われていたのだと思う。彼女から袖にされたら、俺はもう自分という存在を保てなくなるとどこかで思っていた。引きこもりのオタクとして底辺にいた時はある意味で気楽だった。これ以上落ちることはないと思っていたからだ。でも美女と関り幸せを得た俺は、底辺から少しだけランクが上がったように感じた。それ以降はそれまで身を置いていた底辺に落ちる恐怖が俺を駆り立てた。同じ底辺でも最初からそこにいる人間と上のランクから落ちた人間は同じじゃない。後者には「落ちた」という烙印が押される。嘲笑と憐みを生むそれが。俺は何とか今のランクを維持しなければと躍起になった。すべてを投げ打ってでもと思っていた。そうしたら本当にそうなってしまった。


 つぐちゃんに暴力を振ったと知った時は自責の念に苛まれた。蜜蜂が女王に手を挙げるなんてあってはならない。愛する女性に手を挙げたという罪悪感と「落ちた」という烙印が押される恐怖は、いとも簡単に俺を支配した。藁にも縋る思いで償う方法を探した。配信で稼いだ金でブランド物を買い漁っても彼女は一向に満足しなかった。距離は縮まらず、彼女がふと話した将来の話には俺の影がなかった。「一人で生きていく」ことを想定したような内容に俺は狼狽した。何とかしなければと俺は血眼になって解決策を探った。

 寿命の売買に行きついたのは単なる偶然だった。都市伝説関連のウェブページに載っていたのを見つけた。まさか同級生がこんな怪しい仕事をしているとは予想してないかったが。

 境は高校時代からあまり変わっていなかった。オタクでもなく、陽キャでもなく、ただ騒がしいのが嫌いな一匹狼という印象だった。感情をあまり表に出さないいけ好かない奴だと昔は思っていたが、契約を機に境の情に厚い一面が見えて、俺の抱いていた印象は変わった。

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