6
世間では温暖化が騒がれているが、いつも通り冬は訪れ、僕は寒さに身を縮こませる。今日は珍しく快晴だが、山の方から吹きつける風は容赦なく僕の肌を突き刺し抜けていく。僕は昼頃病院に向かった。バスは病院の最寄りのバス停に停車し、僕は重い腰を揚げる。重いのは体だけじゃない。体が地面に沈むかと思うくらいに心が重い。鉛みたいだ。頭を軽く振って自分を奮い立たせ、病院まで足を運ぶ。
寒さで唇を震わせながら空を見上げた。晴れていてよかった。それだけはせめてもの救いだと思う。最期の日が薄暗い空ではあいつも悲しむだろう。この日だけは穏やかに送ってやりたい。
今日は河野稔の最期の日。
病院で面会の受付を済ませると、河野の病室に案内された。病室での面会は今日が初めてだった。河野はベッドに座った状態で外を見ていた。僕に気がつくと軽く「よっ」と挨拶をする。よかった。今日は軽躁状態のようだ。
「今日が最期なんて実感がないな」河野は笑いながら言う。
「そうだね」
それ以外の言葉が何も浮かばない。何を話せばいいのかもわからない。
「境には本当に感謝してるんだ。俺がどんな状態でも、境は俺から離れなかった」
「友達だからな」
「躁状態も鬱状態も不思議な感覚だった。確実に自分がそういう風になっているんだけど、そんな自分を俯瞰して見ている感じだったんだ。別の誰かを見てるみたいで。だから止めることもできなかった」河野は僕の方を見た。「これだけ精神的に不安定だったらみんな離れていくのが普通だろ。わかってる。でも人が離れていくことが寂しかったんだ。だから境の存在が本当に救いだった」
離れていった人の中には西野も含まれているのだろうか。
「俺、今はそこまで後悔してないよ。大丈夫」
寿命売買の契約のことだろう。でもその言葉が本当がどうかはわからない。
「勿論苦しいことはあったよ。でもそれって寿命を売ったせいじゃなくて、もっと別のところに理由があるんだ」
でも契約をしなければ河野にはまだ希望はあった。この先も生きられたんだから。
「何より境とまた会えて、こうして仲良くなれたしね。高校の時にもっと話しておけばよかったな」
きっとあの時話してても僕達はそこまで仲良くならなかったよ。正直趣味もあんまり合わない。
「境は本当にいい奴だよ」
やめてくれ、そんなこと言われたくない。
「こんなにいい奴見たことないよ」
僕はいい奴じゃない。
「俺は境に会えて本当に楽しかったんだ。幸せだった」
違う、お前は幸せじゃなかった。あれだけ苦しんでいただろ。
「だから、自分を責めるな」
虚を突かれた。僕はゆっくりと顔を上げて河野を見る。
「契約の時に俺を止めなかった自分を責めてるんだろ?」
河野は俺の肩に手を置く。
「俺が自分で決めたことなんだよ。お前のせいじゃない。あの時、境がどれだけ説得しても俺は契約したよ」
僕はまた俯いて手で顔を覆う。涙が目から直接零れて、床に落ちる。
「……めん、ごめん。僕が、契約を、河野を、止められなか、うっ、ごめん」
嗚咽と共に出る言葉は不完全で文章にもならない。それでも河野はわかってくれた。
「境のせいじゃないって言ってるだろ? お前は俺を助けてくれたじゃないか」
河野が僕の背中を摩る。細くて少し骨ばった手は温かい。伝えたいことはたくさんあった。そのほとんどが謝罪だ。僕があの時止めていれば、河野はここまで苦しむことはなかった。西野とうまくいかなくても、人生をやり直すことができたはずだ。だからこそ時間は貴重なのだ。人の人生に高額な値段がつくのはその貴重さ故だ。僕は、河野がそれを捨てる手伝いをしたんだ。
ずっと考えていた。寿命の売買なんて馬鹿げている。真壁加奈子はライバルに勝つために人生を捨てた。そんなことをしなくてもライバルの人生なんて嘘まみれだったというのに。尾形えみはもう少しで父親と再会し、新たな人生を歩めるかもしれなかった。そうでなくてもあの母親から離れる方法は他にもあったはずだ。時間があれば、解決策が見つかったかもしれない。寿命売買の契約は、現状に苦しみ、打開策を見いだせない人達に救いの手を差し伸べているようで、最後の手段のみを提示しているに過ぎない。それ以外の希望をすべて排除して。こんなものが人を救うとは思えない。そもそも仕組みも存在意義も曖昧なこの契約に頼ることがおかしいのだ。僕は御先としてこの仕事を請け負っていながら、自分がしていることの矛盾に耐えらえなくなっていた。
河野は相変わらず僕の肩を摩って慰めてくれた。僕はそれから言葉を発することなく泣き続けた。
少しずつ僕の気持ちが落ち着いてきて盛大に鼻をかんでいたところで、病室のドアが開いた。そこに立っている人物に思わず目を見張る。
西野愛実だった。ベージュのコートに白のニットトップスとジーンズというシンプルな服装、軽く化粧をした程度だが高校時代とあまり変わらない様相。丸い大きな目を更に大きくして僕を見る。
「あれ? 境くん? 久しぶり」
西野は目を赤くして鼻をかんでいる僕に少し驚いている様子だったが、平静を装って笑いかける。
「二人が仲いいなんて知らなかった。あの、私、病室の外で待ってるね」
西野はそう言ってそそくさと病室を出た。僕は驚愕した表情をそのままに河野に向き直る。
「相続する為に呼んだんだ」河野は笑顔のままそう言った。
数か月前に「契約を取り消したい」と泣きついたから、相続は諦めたものと思っていた。でも河野の揺らぎのない目を見て察した。決意は固いようだ。
「そっか、僕は西野と交代するよ。でも大丈夫。最期まで病院にはいるから」
最期くらい好きな人と過ごしたいだろう。邪魔にならないようにと、僕は椅子から立ち上がる。
「ありがとう、境。本当に今までありがとう」
「こちらこそありがとう」
お互いの手をしっかりと握る。
「河野、安らかに」
「おう。墓参りには来てくれよ。供え物は前に行った居酒屋ごっちゃんの料理がいいな」
河野の独特な注文にふっと吹きだす。二人で笑い合い、そのまま手を離して僕は病室を後にした。
出てきた僕を横目に見ながら西野は病室に入っていく。僕は病院の1階にある売店に向かい、ペットボトルのホットコーヒーを購入した。待合室で座りコーヒーを口にする。少しすると河野と西野が二人で寄り添いながら歩いてくるのが見えた。目的はわかっている。売店横に設置されたATMだ。ここで西野の口座に振り込むつもりだろう。西野は微笑みながら河野の腕に自分の腕を絡ませぴったり体を寄せている。河野は一転して無表情だ。
ものの5分で手続きを終わらせ、二人は病室に戻っていく。河野は僕をちらっと見るが、西野は僕に気づいてすらいなかった。
僕は飲み干したコーヒーをゴミ箱に突っ込み、再度病室に戻った。気持ちは落ち着いた。河野の最期を見届ける覚悟もできた。
病室に行くと、丁度高齢の男女が病室の前に立っていた。女性の方が僕を見て深々と会釈する。
「境さんですね。河野稔の母です」
これまでは電話のみでのやり取りだったから気がつかなかった。それを聞いた男性の方も僕に頭を下げる。
「稔の父です。息子が大変お世話になりました」
僕もつられてお辞儀をする。河野は今日が最期であることを両親に話していたみたいだ。河野が眠りにつくまであと1時間ほど時間がある。最期は両親と過ごすらしい。
河野の両親と入れ替わりで、西野は病室から出てきた。西野は床に目線を落としたまま少しだけぼうっとし無言のまま僕には目もくれなかった。その後彼女は速足でエレベーターに乗り込み1階に下りていった。
1時間はあっという間だった。最期の時間が近づいてきた頃に、河野の母に呼ばれ僕は病室に入る。河野はベッドに横になり、眠たそうに眼を擦る。両親は河野の手を握り、僕はその後ろで河野の顔を見つめていた。静かな最期だった。薄く笑みを浮かべたまま河野は眠りについた。目を閉じ、母親の声に反応しなくなった河野を見て、両親は声を上げて泣く。父親の泣き声は河野のそれと全く同じだった。僕は目を閉じ河野に黙祷を捧げた後、看護師を呼びに行った。
西野は戻ってこなかった。
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