あれから3週間が経った。僕は職場で少し遅めの昼食を摂っていた。お湯を入れ過ぎた為に味が薄まったカップラーメンを啜りながらスマホを操作する。河野からの連絡はない。

 前回の面会は、河野の「1人にしてくれ」という一言で終了した。何もできなかったが、僕は心配で気を揉んでいた。返信が来ないであろうことはわかっていたが、連絡が途切れてしまうことを恐れて毎日1通はメッセージを送っていた。未読のメッセージが溜まったチャットルームを見て溜息をつく。スマホを閉じようとした時、突然着信が鳴った。「河野稔」の文字を見て慌てて電話に出る。

「境将さんですか?」

 丁寧な口調の女の人の声だ。

「そうですけど、どちら様ですか?」

「河野稔の母です」

「あ、どうも。お世話になっています」

「こちらこそ、うちの稔が大変お世話になっております」

 丁寧な口調に僕の猫背がすっと伸びる。

「突然の電話、失礼しました。お伝えしたいことがありましたので」

「稔君に何かあったのですか?」

「稔は今、精神科病院に入院しています」

 その言葉に驚きはしなかった。何となく、河野の精神状態は医療案件だろうと心のどこかで思っていたからだ。

 河野の母の話では、前回の面接から1週間後に河野は家を出た。近くのコンビニに入った際に酒を見つけて発狂し、棚に並んだ酒瓶を次々と地面に叩きつけた。店の人曰く、河野は「こんなものがなければ」と叫び続けていたという。通報で駆け付けた警察に取り押さえられるも、精神に異常を来しているとみなされ、河野の両親に連絡がいった。精神科の受診を勧められ、親と共に医師の元を訪れた。結果、河野は双極性障害と診断されたという。別名、躁鬱病と呼ばれるもので、気分が異常に高まる躁状態と落ち込む鬱状態を繰り返す精神疾患。軽躁、躁、鬱状態と一定の周期でそれぞれの状態になり、自分で感情をコントロールすることはできない。河野がコンビニで暴れた時は躁状態だったらしい。ネットで病名を調べ、症状を見た瞬間これまでの河野の情緒の様子に合点がいった。

「受診した時点で栄養状態も悪く心身ともに治療が必要と言われ、そのまま入院になりました」

 河野の母は時折言葉を詰まらせながら言う。変わり果てた息子の姿をまだ受け止め切れていない様子だ。

「稔が連絡を取っているのは最近では境さんだけのようで、稔の携帯の着信履歴を見て連絡をさせていただきました。状況だけでもお伝えしようと」

 ということは河野は西野とは連絡を取っていないらしい。

「ご連絡ありがとうございます。稔君と面会することは可能でしょうか?」

「入院してから少しずつ良くなっているみたいです。稔の体調がいい時は面会できると思います」

 お礼を言って電話を切った。稔の母親から聞いた病院名をネットで調べると、ここから電車とバスを使って四十分程のところにあるこの辺りで一番大きな精神科病院だった。

 週末に病院まで出向く。病院に着くと、小さな面会室に案内された。隣接している広いフロアには十人くらい、患者がたむろしている。フロアを眺めながら待っていると、看護師に連れられ河野が面会室に入ってきた。体型は以前より痩せているが、肌艶は以前より良く健康的な生活ができていることが伺える。無造作だった髪も髭もしっかりと整えられ、小綺麗なスウェットに身を包んでいる。河野は僕の顔を見て右手を上げ、笑顔を浮かべる。

「本当に境には面倒かけてばかりだな」

「河野が元気ならそれでいいんだ」

「看護師さんもいい人達ばかりで入院生活も悪くないよ。今、体を動かそうと散歩してるんだ」

 河野は入院生活を楽しそうに話す。河野の表情には時折不自然に作られた笑顔が見え隠れする。心からというよりは、この場で笑っておいた方がいいだろうという考えからくる笑顔のように見えた。

 河野の話に笑顔で頷きながら、僕は密かに悲嘆にくれる。河野の寿命は残り2か月とちょっとだ。得た大金を1円も使わず寿命を売ったことを後悔し、そして彼の余命1年はお世辞にも幸せとは言えないものだ。なぜこんなことになった? これまでの契約者は理解に苦しむことはあれど、それぞれが自分の満足するように余命を過ごした。でも河野だけは明らかに違う。精神疾患を患っていたから? それも理由の一つだろうが、どこか腑に落ちない。

 過程だけではない。基本的に契約後は本人の望むことが自然と叶うようになっているように思う。真壁加奈子は麻井玲奈にマウントで勝ち、尾形えみは毒母から逃れて自分の望む形で死を迎えた。金だけじゃなく、この契約では契約者の望が叶いやすいようになっているように感じる。では河野の場合は? この状況が河野の望みではないはずだ。笑顔の裏に隠れている彼の苦痛は、河野自身もこうなることは想像もしていなかったことを暗に伝えている。

 話し続けていた河野の顔に疲れが見えた。笑顔も崩れ始めた。

「今日はもう帰るね。元気な姿を見られてよかった」

 僕がそう言うと河野は少し寂しそうに、けどどこか安堵したような表情を見せた。やはり長時間誰かと交流するのはまだ本人には負担になるようだ。面会は短時間で終わらせた方がいい。

「河野が良かったらだけど、毎週末面会に来てもいいかな? 勿論、河野の気分がいい時だけでいいから」

「勿論だよ。俺は境が来てくれて嬉しい」

 河野は看護師に連れられて病室に戻っていった。


 それからは毎週末河野に会いに行った。河野が心配だったことの他に、河野に会う回数を増やす為だ。精神疾患がある以上、河野の体調次第では会うことができず、下手をすると記録の為の面会が叶わなくなってしまう可能性がある。会えるうちに話を聞いて記録を取る必要がある。そうしなければ契約条項九に反する。

 河野は双極性障害の症状に振り回されていた。面会の度に河野の情緒は変わる。軽躁状態の時は調子が良さそうに見えるが、躁状態の時は言動の大胆さに驚かされる。快活だといいが、苛立っている時はこちらの言動に気を付けなければいけない。何が着火剤なるかは本人次第だ。いや本人もわからないのだろう。一度河野の逆鱗に触れた時は肝を冷やした。瞬きする間に河野は横柄になり、言葉は攻撃的になった。手が出ることはなかったが、初めて向けられる暴力的な言葉に僕は言葉を失った。逆に鬱状態の時は起き上がることも難しく面会はできない。河野の余命の記録は、面会での河野が話した内容をそのまま書き続けた。西野の話は全く出てこなかった。

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