6回目の面会は河野の自宅で行った。前日に連絡を取ってみると「外に出たくない」と連絡があったからだ。

「あー、境か。上がって」

 玄関のドアをほんの少しだけ開け僕の顔を確認した河野は、警戒心で覆われていた表情を少し緩めて、僕を部屋に招き入れる。

 頭まですっぽりと布団を被り、常に周りを警戒しながら歩く河野を懸念する。ゆっくりと腰を下ろすと同時に僕は質問した。

「動画見たよ。大丈夫か?」僕は聞く。

 僕の言葉を聞いた瞬間に河野は糸が切れたように泣き出した。それが答えかのように。

 河野は動画配信者として一部の界隈で有名だ。高いゲームテクニックとわかりやすい説明などで高評価を得ていた配信は、ある日を境にがらりと毛色を変えた。説明口調は横柄になり、初心者のゲーマーやゲームメーカーへの罵詈雑言が目立つようになった。視聴者が「別の人が配信しているのでは?」とコメント欄で噂する程の豹変ぶり。おまけに一部の人達への配慮を欠いた言葉もいくつか発しており、誹謗中傷が多く寄せられるようになった。所謂炎上だ。そうなってしまえば最後、どうなるかは誰にでも予測がつく。河野は謝罪動画を作成し燃え上がる批判を鎮火しようとしたが、それで止まるほど世間は優しくない。謝罪動画ですら、重箱の隅をつつくようなコメントが寄せられる。河野の見た目や服装が謝罪に向いていない、言葉選びが稚拙で謝罪の意を感じられないなど、どうでもいい事ばかり挙げられていた。まるで視聴者は新たな炎上の火種を見つけようとしているかのようだった。

 本来契約者が体調不良の場合は面会の日程を変更するのだが、河野の様子が心配になり面会を強行した。案の定、河野は精神的に参り憔悴していた。食事量も減り、眠れない日が続いているという。眠剤を買おうにも外に出るのが怖い、と震えながら呟く。こんな時に自分がもう少し頼りがいのある人間だったらと、心底思う。掛ける言葉一つ見つからない自分の無力を呪った。

 取り合えず、しばらく外に出なくても食べていけるように、食材の調達に走った。冷凍食品や缶詰などを無造作に籠に入れ素早く会計を済ませる。スーパーに隣接するドラックストアで市販の眠剤を購入し、家に戻る。改めて部屋を見渡すと河野の部屋は不衛生そのものだった。汚れた衣類は洗濯機の前で山になり、食べかすの残ったトレーや皿にはカビが生え、酷い異臭を放っている。いつからそこにあるのかもわからない。買ってきた食材を入れるために冷蔵庫を開けるも中はほとんど空だった。

 泣いている河野を残し、僕は部屋の片づけに取り掛かった。異臭を少しでも外に出すためにカーテンを開き窓を開けようとするが、河野が日の光に怯えて叫ぶため慌てて閉め、代わりに換気扇を回す。台所にはカップラーメンや総菜の空き容器が散乱していたため、すべてゴミ袋に突っ込み口を堅く閉じる。数少ない皿とコップは洗剤をたっぷりつけ二度洗う。男臭さを放つ衣類はすべて洗濯機に入れて洗濯し、見える範囲のみ軽く掃除機をかける。

 大方片づいた後に部屋に戻ると河野は少し落ち着いたらしく、静かに鼻を啜っていた。それでも話ができる状態ではない。

「配信続ける気ある?」僕は河野に聞く。

 河野はゆっくりと首を横に振る。

「僕もその方がいいと思う。金はあるんだし、もうアカウントは消してネットから離れよう」

 河野は静かに頷く。そろそろと部屋の隅にあるデスクに移動し、パソコンを起動する。震える手で動画配信用のアカウントを削除した。あっさりと、でも惜しむように。

「ご飯食べられる?」

 河野は首を振る。

「保存がきくものを買っておいたから、食べられそうな時に食べて」

 河野は頷く。もごもごと何かを言っていたが聞き取れなかった。

「また来るよ。それ以外でも助けが必要な時はすぐに連絡して」

 河野が頷いたのを確認してアパートを出る。


 7回目の面会では、河野は少し回復していた。相変わらず生活習慣は乱れ食事と睡眠のリズムは崩れているらしいが、何とか生きているようだ。ネットから離れたのが大きな理由の一つだろう。河野曰く、元々繊細な性格から、動画配信で浴びせられる批判に毎度神経をすり減らしていたらしい。その心配事がなくなりストレスが前より減ったのだろう。近くを散歩したり近所の人に挨拶したりできるようになったという。力ないが笑顔を見せる河野に安堵する。

 ただ胸につかえた質問はそのまま留めておくことにした。先月河野の部屋を掃除していた時に抱いていた違和感。空っぽの冷蔵庫、溜まった男物のみの洗濯物、異様に物が少ないリビング、二人暮らしには足りないであろう食器の数、一本しかない歯ブラシ、化粧品一つない殺風景な洗面台。どう見ても男の一人暮らしにしか見えないその風景は、西野の存在をまったく感じさせない。恐らく動画配信での炎上以外にも河野の精神をすり減らす出来事があったのだ。西野と別れた可能性が高い。でもそれは河野が自分の口から話せるまで待たなければ。これ以上痛い所をついても、精神状態を悪化させるだけだ。


 8回目の面会はキャンセルされた。たった一言「今月の面会は難しい」という淡白なメッセージのみが送られ、僕の返信は既読にすらならなかった。

 柳澤さんに確認すると「契約者の状況的に難しい場合は、1回くらい面会しなくても差し支えないよ」とのことだったので、今回は様子見とした。


 9回目の面会は無事行うことができた。河野の様子は、前よりはましになったという程度だった。布団を被らずに話ができるようになってはいるが、顔には覇気がなく動きも鈍い。あまりの痛々しさに見ていられない。相変わらず食欲はないらしく、レトルトのお粥を温めて目の前に置いても「ありがとう」と力なく言うのみで手を付けない。コップに水を注いで持たせると、ようやく数口飲んだ。それ以降はテーブルに目線を落とし、ピクリとも動かなくなる。表情もない。言葉も発しない。まるでマネキンと向かい合っているかのようだ。

 僕は静かに待った。河野が言葉を発するまで。今何かを言ってしまったら、そのすべてが圧力となって河野に襲い掛かるような気がした。そして河野もそれを恐れているように見えた。

 僕は部屋の片隅に積み重なっている文庫本を見つけ、一番上にあったものを手に取る。タイトルも見ないまま1ページ目を開き読み始めた。当然河野の様子が気になるので内容は頭に入ってこない。それでも河野が話せるようになるまで待つという姿勢は崩さなかった。恐らく河野は自分の感情や思考を処理するのに時間をかけているのだ。今の精神状態でも面会をキャンセルしなかったのは、僕に伝えたいことがあるからだ。今はその準備をしている。なんとなく直感でそう感じた。

 内容が頭に入らないまま32ページに突入したところで、河野が突然口を開いた。

「あの契約、なかったことにならないか?」

 なんとか聞き取れる程小さい声だった。それゆえに、聞き間違いであってほしいと願った。

「俺の寿命を、返してもらうこと、できないかな?」

 さっきよりもはっきりとした声。今度は鮮明に聞こえた。それでも僕は答えられずにいた。

「1円も使ってないんだ。金はそのままカードに残ってるから返せる。何とかならないかな?」

 河野が顔を上げて僕を見る。目が涙で光り、表情は今にも崩れそうだ。今日初めて見る河野の生きた表情に僕は狼狽した。

「俺が馬鹿だったんだ、寿命を売るなんて。他に償う方法はいくらでもあったのに。焦ってたんだ。早く許してもらいたくて、お金ならすぐ解決できるって、それで……」

 河野は俺に近づいて、俺の右手を両手で握り締める。やせ細った腕だが、力が強く振り切れない。

「頼むよ、境。後生だ。俺が悪かった。俺が間違ってた! 何でもするから!」

 僕の右手はつぶれそうなくらい握り締められた。河野の無造作に伸びた爪が僕の右手に食い込み、痛みが増す。それでも胸の痛みの方が遥かに勝っていた。

「あの柳澤さんって人、境の上司だろ? 聞いてみてくれないかな? きっと方法があると思うんだ!」

 ない。ないんだ、河野。

 初めてこの仕事を請け負った時から、柳澤さんには耳に胼胝ができる程言われていた。この契約にクーリングオフ制度はない。一度契約したら最後、取り消すことはできない。だからこそ僕達は契約時に契約者に何重にも確認する。本当に寿命を売っていいのかと。

 僕の沈黙で河野は察したようだった。蒼白した顔で僕を見つめ、崩れるようにテーブルに突っ伏する。声を殺して泣き始め、鼻を啜る音は突っ伏した河野の顔と腕の中にできた空間に虚しく木霊する。その声は僕の心にも悲嘆を染み渡らせ、徐々に僕の体を堅くする。言葉をかけることができない。河野の肩をさすることもできない。そんなもの、何の助けにもならないとわかっていたからだ。非力な僕はただすすり泣く河野を見つめることしかできなかった。

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