海を眺め海風を全身に受けながら、母親の今頃に思いを馳せる。あの人は行方不明になった私と入れ替わりに現れた借金取りに狼狽してることだろう。全財産も消え、途方に暮れているに違いない。それでも自分のしてきたことを自覚する可能性は低い。恐らくできないのだろう。もう期待はしない。その分果てるまで辛酸を嘗めればいい。今の私には母親の不幸が精神安定剤だった。

 柳澤さんと境さんには心の底から感謝してる。母親との関係について話す時は身を裂かれる思いだったが、二人の気遣いと優しさは、今まで他人から向けられてきた上っ面のそれとは違っていた。私の要望をすべて受け入れ、仮宿も見繕ってくれた。

 見知らぬ土地での生活は、抱えていた不安を杞憂だと捨て去る程に穏やかだった。この町の人達の人柄は海のように荒々しい時もあるが、穏やかな凪のように包み込んでもくれる。子は親に似るように、海で育った人も海の子としてその性質を受け継ぐのかもしれない。

 浜で遊ぶ子供たちが、弾んだ声を上げて走り回る。浜に流れ着いた背丈ほどもある海藻を拾い、漁師の真似事をする。あの子達も大人になったら親の家業を引継ぐのか、それとも違う仕事に就くのか。未来は可能性で溢れている。私もそうだったのだろう。いつからか忘れてしまっていた将来の夢を思い出す。初めは父親の花嫁という月並みな夢を口にしていた。花屋、ケーキ屋という女の子が抱きそうな夢をひと通り辿った後に描いたものは、教師、看護師、弁護士、起業家。現実的で、それでも希望に満ちたものだった。そして幸せな結婚も夢に見た。

 私の人生はあと数か月で終わる。もしその先も生きることができたら、私はどんな人生を歩むだろう。結婚できるだろうか。世間じゃ、結婚が幸せとは限らないと皮肉めいたことを言う人はいるが、幸せそうな夫婦を何度も見たことがある。私の両親とは違う、仲のいい夫婦。喧嘩しながらも助け合い、子を儲け、お互いのすべてを生活の中で共有する。苦難はあれど、その顔に浮かぶのは一人では得られない幸福だった。私も同じような人生を歩めるだろうか。人は出会いと別れを繰り返して最終的にその人を見つける。人生を共にする人を。運命の人を。最近じゃマッチングアプリで知り合う人も多いという。私も始めたらいい出会いがあるだろうか。その人と結婚して可愛い子供を持って今度こそ幸せな家庭を築けるだろうか。ふと、スマホを取り出して検索画面を開いた。そこで我に返る。

 そうだ、私はもうすぐ死ぬんだった。

 スマホを閉じ、ポケットにしまう。何を考えていたんだっけ? そうだ、将来の夢についてだ。教師を夢見ていた時もあった。あれは中学生の時。私を気にかけてくれた先生がいた。猪川先生。三十代くらいで背が高くすらりとした体型。サバサバした物言いが芯の強い女性を思わせ、密かに憧れていた。母親の言いなりになっている私とは正反対だった。正義感が強く、威張るだけの教師とは一線を引く態度に生徒から定評があった。他市から引っ越してきて馴染みがない私を気遣ってくれた。おまけに出席日数の少なさと垣間見える家庭の問題にも真摯に向き合ってくれた。功を奏さなかったけど、心配してくれる親を持たない私にはその気持ちが素直に嬉しかった。あんな先生になれたら、とふと思う。教師になるには大学に行って教員免許を取る必要がある。この町には大学はないが隣の市には大学があった。教育学部はあるだろうか。今まではお金の心配ばかりで大学進学なんて考えたこともなかった。でも今は手元に大金がある。もうお金の心配をしなくてもいい。とりあえず教師になる道がないか調べるだけやってみよう。スマホを開いて、また閉じる。

 また忘れていた。私、死ぬんだった。

 浜を眺めると、遊んでいた子供の一人が砂浜に横たわり、もう一人が心臓マッサージのような仕草をしている。今度は医者か救命士ごっごをしているらしい。隣には看護師役でメスに見立てた木の枝を渡している子もいる。そういえば、看護師に憧れていた時期もあったっけ。特に病気をしたことがない私は病院とは無縁だったけど、テレビドラマで見る看護師の奮闘する姿はヒーローそのものだった。私も勉強すればなれるだろうか。そういえばこの町でも医療従事者が不足していると聞く。ここだけではないだろうが、もし私が看護師になってこの土地で就職したら、みんなに恩返しができるだろうか。看護師への道は大学の他に専門学校もあるから、選択肢は多い。この辺りにもあるだろうか。ポケットにあるスマホに手を当て、そして離す。

 何やってんだろ、私。もうすぐ死ぬのに。

 気づけば涙が頬を伝っていた。自分に将来がないことはわかっていた。それを忘れて未来に思いを馳せる馬鹿な自分に呆れる。私は人生を捨ててこの穏やかな時間を得た。この契約がなければ私の人生は絶望そのものだった。将来を犠牲にして終わりのない苦境から解放された。得た大金と平穏の一時は私に夢幻を見せる。夢幻は哀れな現実を私に突きつける。その度に私は静かに涙する。一時の幸せと、失くした未来に。

 あの母親さえいなければ、体を売る苦痛も、中年どもの咽るような匂いも、自分の感情に蓋をした時の虚無も、母親の嘲笑への憤りも、ない将来への虚しい希望も知ることはなかった。私の人生とは何のだろう。寿命を売ること以外に逃げ道はなかったのだろうか。売ってしまった今どうにもできないが、可能性は無情に私の心を持ち上げ、そして落とす。それに呼応するように涙も湧き出る。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 顔を上げると、さっきまで浜辺で遊んでいた子供達がそばに来て私の顔を覗き込む。

「大丈夫だよ。ここの海が綺麗で感動したの」

「えへへ、変なの」

 すると一番小さい子供が私に近づき、腕を私の首に巻きつける。突然の行為に身を構えた。ハグをしているのだと気づくのに少し時間がかかる。

「こうするとね、なみだがとまるんだよ」

 その子は短い腕を伸ばして私の体を包み、首の後ろをさする。

「おかあさんがね、ぼくがないてるときにこうしてくれるの。いまはおかあさんがないているから、ぼくがこうしてあげるの」

「どうしてお母さんは泣いてるの?」

「たいふうのせいで、おふねがこわれて、おさかながとれなくなったんだって」

 そういえば昨年の台風の被害で多くの漁師が仕事ができず悲嘆にくれていると聞いた。

「ぼくが、おかあさんをなぐさめてあげるの」

 そうだ。先のない私の人生にもまだ使い道がある。私には金がある。残り僅かな余命では絶対に使い切れない程の金が。教師にも看護師にもなれない私は、違う形でヒーローになれる。僅かに心に芽生えた希望は先の短い私を救ってはくれない。でもこれはここに住む多くの人達の暮らしに光をもたらすだろう。

 抱きついている子供に腕を回し抱き返す。

 もう少しだけ待っててね。君のお母さんはもう泣かなくて済むようになるよ。


 潮風が私の髪と頬を撫で、夏の日差しは強く私の目を眩ませる。船に当たる波の音とエンジン音が調和し、海への旅を景気づける。肺を大きく広げ鼻から海風を招き入れると、潮の香りと混ざり合った空気は肺を経由し私の全身に行き渡る。呼吸の仕方を知ったのはこの土地に来てからだ。息を吸って吐くだけで肩の力が抜け、憩いの一時に身を委ねられる。今までは息を止めることを呼吸だと思っていた。汚い中年との情事中も、憎い母親との生活も、高校を諦めた時も息を止めることで乗り切った。いつしか私の生きる術になっていたそれはもう跡形もない。この土地の人達が、自然が、海が、私を解放してくれた。呼吸がこんなに心地がいいことを知らなかった。海に帰ったあの少女もきっと同じような心地だったのだろう。

 船首に立ち振り返る。私が三人にお辞儀をすると、みんな深々と頭を下げる。瀬川さんは鼻を啜っていた。短い間だったが、本当の娘のように接してくれたこの人にお礼として支援を申し出たが、自殺幇助を取引の条件にするのは心が痛んだ。それでも、最期は海に帰るという望みを叶えるためには協力が必要だった。瀬川さん夫婦は涙を流して止めようとしたが、それでも頑なな私に最後は了承してくれた。瀬川さんの奥さんは「最期は美しく」と綺麗に飾られたワンピースとアクセサリーまで繕ってくれた。

 柳澤さんと境さんへの感謝も尽きない。二人の気遣いと優しさは、私の凍った心を少しずつ溶かしてくれた。月一の頻度が足りないと感じる程に、私は面会を楽しみにしていた。

 ここで過ごした最期の一時はこれまでの地獄を払拭するかのようだった。静穏の中で終れることのこの上ない幸福とこの時間を作ってくれた人達への深い感謝を胸に抱いた私は、まさに恍惚としていた。まるで天も海も、すべてが腕を広げて私を迎え入れているようだ。私もそれに応えるように柵から手を離し、そこに飛ぶ込む。その瞬間、水飛沫を立てて私の体は海に吸い込まれた。冷たい、でも温かい。私の全身は余すことなく紺青に包まれる。海中に差す光は波に揺れながら私の行先を照らす。深く、暗く、数多の生き物を生む母の元に。ワンピースのビジューと身につけたアクセサリーがずしりと重く沈み、私を海の底へと誘う。

 ああ、ようやく帰ってこれた。もう離れることもない。苦しむこともない。長かった。でも今こうして母の胸元に飛び込めた。

 ただいま、母さん。

 おかえり、と聞こえた気がした。

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