朝7時。塩田の車はアパートの前で止まる。ドアを開け、痛む体を車から引きずり出した。降りる際に塩田が何か言っていたが何も頭に入らない。あの声をこれ以上聞きたくない。私は振り返らずにそのまま帰った。玄関を開けて中に入ると、母親と鉢合わせた。母親は今起きたばかりというように眠た目をこすりながら、驚いた様子で私に声をかける。

「あらまあ、昨晩はまた一段と激しかったみたいね」

 母親は乾いた笑いを残しトイレに向かう。私はそのまま脱衣所に向かった。

 鏡に映った私は、そこに映る姿を自分だと認識するのに時間を要する程に変わり果てた姿だった。髪はぼさぼさで激しく乱れ、重力に反してあらゆる方面に逆立っている。アイラインとマスカラは涙とそれを拭った跡を追い、目元のくまと同化する。両目は涙で腫れあがっていた。食いしばった唇には血が固まっている。ファンデーションや口紅は初めから何もなかったかのように消え失せている。首筋と手首に残った赤い手形はまだ熱と痛みを持っている。惨めな私の姿は昨晩の非情な性行為をそのまま表していた。鏡に映る自分から目を反らし、洗面台に目を落とす。涙が頬を伝う。もう尽きたと思っていたそれは私の感情と一緒に溢れ出す。声を殺して泣いた。昨夜、私は体も心も何もかも抉られ、苦しみに悶え絶叫した。明け方には叫ぶ声すら枯れていた。この絶望がまだ終わらない事実に憂いた。

 それだけじゃない。この私の姿を見て母親は笑ったのだ。情の欠片もない声で私を笑い飛ばした。私の存在価値とは何なのか。私がここまでして償わなければいけない罪とは何なのか。いや、そんなものなどない。あの絵本の少女と同じだ。この地獄を正当化して自分を納得させるために私は因果応報と自分に言い聞かせた。きっと前世か何かで私は罪を犯したんだ、今世でそれを償うんだ、と。でも違う。私は贖罪という言葉で家庭の問題という臭いものに蓋をしていただけだ。ここでようやく現実を見る。

 私は罪を償っているんじゃない。ただ搾取されているだけなんだ。


 ここ1週間は仕事はなかった。私は束の間の平穏に安堵する。母親は仕事が来ないことに機嫌を損ねた。

 ふと、ある話を思い出して口に出してみた。

「ねえ、お母さん。佐久間さんから聞いたんだけど、寿命を売ることができるらしいんだよね」

 母親は私をちらっと見て怪訝な顔をする。

「何それ? 都市伝説?」

「詳しくは知らないけどその類だと思う」

「誰が作ったお伽話か知らないけど全然面白くないわ。なんで自分の寿命を売るのよ。生きられないんじゃお金持っててもしょうがないでしょ」

「もし私が寿命を売るとしたらどうする? だって10億円貰えるんだって」

 心にもない言葉が自分の口から出たことに驚く。きっと先週の仕事で心身ともに憔悴しきっていたんだろう。慌てて訂正しようとすると母親が遮る。

「いいじゃない! 10億? そんなに貰えるの? ちょっと、その話詳しく聞いてきなさい。お母さん聞きたいわ」

 母親の喜ぶ顔に、出かけた訂正の言葉は意味を失くした。なんて無邪気な笑顔を見せるのだろう。さっきまでの不機嫌が嘘のように晴れる。この人は娘が寿命を売るということの意味をわかっているのだろうか。きっとわかってる。私もわかってた。母親が私を道具としか思っていないことを。流石に私を殺すことまではしないと楽観視していた、いや期待していた自分に嫌気が差す。

 この人にとっては金がすべて。その他は家族だろうと眼中にない。想起できる母親との思い出は苦痛をそのまま絵に描いたようなものばかりだ。何度絶望し、立ち上がり、希望を砕かれ、より深い絶望に落ちたことか。これが私の人生なのだ。贖罪はもう言い訳にならない。寧ろ贖罪の為に人生を捧げるべきなのは母親の方だ。思い知らせたい。金の重さも、家族が何を犠牲にして金を渡してきたかも。

 私は初めて自ら佐久間に連絡を取った。


 寿命の売買を終えた後は忙しかった。母親に隠れて復讐計画を実行する。仕事がなくなったのは幸いだったが、買い物や旅行まで常に母親に付き添わなければいけないことに辟易した。

 母親の浪費癖は契約を終えた日から拍車がかかり、10億円は自分の物と言わんばかりに身の丈に合わない買い物ばかりし始めた。垣間見える母親の異常性に呆れ果てるが、それがすべて母親の借金になっていることが私の心に安堵をもたらす。いずれこの人は自分が背負う業を知ることになる。

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