昔ある絵本を読んだ。それは奴隷の少女の話だった。年老いた老婆が彼女の主人で、老婆は朝から晩まで少女を働かせた。少女は体には奇妙な模様があり、村人からは忌み嫌われていた。唯一少女に食べ物と寝床を与えたのはその意地悪な老婆だけだった。

 少女は小さな体でひたすら働いた。強い日の光に当てられて倒れた時は老婆が彼女に鞭を打って働かせた。逆らうことは許されなかった。老婆は少女が罪な人間だから贖罪の為に働かなければいけないと教えていた。少女は親も友達もおらず、孤独のままただただ働き続けた。

 ところがある日、少女は自分が人魚であることを知る。幼い頃に浜に打ち上げられ気を失っていた少女を老婆は連れて帰り、奴隷として虐げていた。少女の身体にある奇妙な模様は鱗だった。少女には罪などなかった。

 真実を知った少女は村から飛び出し海を目指して逃げた。少女が逃げたことに気付いた老婆は村人を呼び少女を追い掛けた。怒号が聞こえ、飛んできた矢が少女の身体を貫いても少女は走ることを止めなかった。一刻も早くここから抜け出し、生まれた場所に帰りたかった。顔も覚えていない家族に会いたかった。母なる海に飛び込みたかった。血まみれのまま少女は走り続け、ようやく浜に辿り着いた。少女はそのまま海に身を投げた。少女は息苦しくなるも、やがて自然に呼吸ができるようになった。それはこれまで感じたことのない程心地よいものだった。少女はこれまで過ごした陸の上での呼吸がひどく苦しいものだったことを知った。

 少女は自由に泳ぎ回った。海は穏やかに少女を受け入れた。やがて少女は生き別れた家族に会うことができた。そして幸せに暮らした。


 お父さんが家を出た頃からこの少女のことを思い出すようになった。自分の罪を洗い流すためにひたすら働き続ける少女。心無い仕打ちを受けながら耐えるその姿に今の自分を重ねる。私の人生も贖罪の為のものだとしたら、終わりはいつ来るのだろう。そして私の罪とは何だろう。


 佐久間との「仕事」を終え、すぐにベッドから下りそのまま浴室に向かった。タオルにボディソープを大量に乗せ、全身を何度も洗う。触れられた所も、舐められた所も、赤くなるまで擦る。何もかも流してしまいたい。でもどんなに洗っても胸に渦巻く情動は流せない。

 浴室を出ると佐久間が入れ替わりで中に入る。すれ違う時に「この後ご飯行くから待っててね」と耳元で囁かれた。背筋に悪寒が走り、指先まで震えた。佐久間の声で体の神経が穢れたような感覚に陥り、必死に腕や手を擦る。椅子に座り深呼吸をして必死に冷静さを取り戻す。いつまでこんなことを続けなければいけないのだろう。

 佐久間とイタリアンの店に入る。食べながら佐久間の話に付き合うも、自慢話ばかりでつまらない。おまけに何度も同じ話を聞かされているからすでに飽きてしまった。留まることを知らない佐久間の自慢話に辟易し、最近体調が良くないからもう帰りたいと嘘をつく。今日のデートを早めに切り上げたかった。

「妊娠? 子供ができたら教えてね。そしたら結婚しよ」

 体調の心配なんて微塵もしない。おまけに気持ち悪い提案まで口にする。こんなのと結婚なんて冗談じゃない。流石にあの母親ですら私の妊娠は回避したいらしく、私を貸し出す条件に避妊を加えている。まあ、母親がそうするのは性接待での稼ぎがなくなる上に、食い扶ちが増えるからというのが理由だけど。

「そういえば、最近面白い話を聞いたんだ」私の早期帰宅の試みは失敗に終わったらしく、佐久間は話題を変えるだけだった。「なんでも寿命を売って大金貰えるらしいって話を小耳に挟んだんだよ」

 面白くもなく馬鹿馬鹿しい。そんな話あるわけない。恐らく都市伝説の類だろう。

「信じられないけどさ、実際に寿命を売った人がいるらしいんだ」佐久間は楽しそうに話す。

 私は無表情のままグラスに残った氷をストローでかき混ぜる。

「10億貰えるんだって」

 ますます胡散臭い。滑稽なお伽話に私は思わず鼻で笑ってしまった。それを見た佐久間は少し機嫌を損ねた。

「ねえ、えみちゃん。今日態度悪いよ。こっちは金払ってんだからさあ、ちゃんとやろうよ」

 ねちっこい言い方が鼻につくが、眉間に寄せかかった皺を精一杯伸ばし顔に笑顔を張り付ける。「ごめんなさい」と謝罪し、聞き分けのいい彼女を演じる。私は今「仕事中」なのだ。

「可愛い顔に免じて許してあげる」

 褒めているのだろう。でも佐久間との「仕事」が始まって以降、大好きだった父に似たこの顔を恨んですらいた。この顔のせいですることになった「仕事」のことを考えると、「美人は得」という言葉に唾を吐きたくなる。

 佐久間はデートに満足したらしく、ようやく解放された。家に帰ると母親はテレビを見ながら昼間から酒を飲んでいた。

「佐久間さんとはどうだった? 失礼なことしてないでしょうね?」

 母は私をねめつける。いつも通りだった、と機械的に答えた。母親は怒らせると佐久間以上に手が付けられない。私を支配するために手段を選ばないそのやり方は、私から逆らう気力を奪い、私を稼ぐ操り人形にする。私達の間に親子関係は露程もなく、ビジネスが私達を繋いでいる。母親から逃げられれば楽だが、学もなく性接待しかしたことがない私にいい仕事などない。何より母親が握っている動画がある。それを拡散されたら終わりだ。私の人生は闇よりも暗い。絶望に囚われた私は、母親から離れた人生すら想像できずにいた。

「ああそうだ。明日は塩田さんと仕事だから。夜9時に迎えが来るからそれまでに準備しなさい」

 その名を聞いて息が止まる。母親を見ると、嘲り顔で私を見ている。

「あの人たまにしか依頼してこないけど、金払いがいいの」

 塩田は一見何の変哲もない地味な男だが、加虐嗜好で苦痛や羞恥を伴うプレイを好む異常な性癖の持ち主だ。おまけに朝まで続く接待は、どんなに疲れていても私に休む暇を与えない。涙なしで終わったことなど記憶にない。私はまたあの地獄を味わうのか。

 絶望する私を余所に時間は流れる。恐怖でろくに眠れなかった。薄ら目の下にできたくまを母親はぶつぶつ文句を言いながらコンシーラーで消す。どうせ涙ですべてぐちゃぐちゃになるのだから無駄だと心で悪態を付きながら塩田の迎えを待つ。夜9時ぴったりにインターフォンが鳴り、私は重い足を引きずり玄関を出た。

 

 

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