少しずつ気温が上がり、海から吹く風と日差しは柔らかさを帯びる。木々が衣を羽織るようにその枝に葉をつけ、名前も知らない道端の花は風と戯れるように靡き、冬の終わりを告げる。

 冬の潮風に身を縮こませていた僕は春の訪れに歓喜した。都会の喧騒に疲れた時の田舎への逃避は、僕から肩の力を抜いてくれる。遠方での面会にも関わらず、毎月の面会を僕は楽しみにしていた。

 尾形えみの希望で買ってきたフルーツサンドイッチを彼女に渡す。見るや否や彼女の顔は春の花々にも劣らない笑顔を咲かせる。

「田舎はゆったりしていていいですけど、こういうお店がないのが難点ですよね」

 彼女はフルーツサンドを頬張りながら呟く。遠く離れた地での生活を楽しんでいる様子だが、やはり恋しくなるものはあるらしい。面会の度に彼女に希望を聞いてお土産を持参するのがデフォルトとなった。

 暫くは彼女の生活について話を聞く。漁師から貰った魚を捌いてみたり、散歩の度に新しい道を散策したり、スキューバダイビングに挑戦したり。楽しそうに話す彼女の表情を見て僕は安心する。この一時は彼女の顔から憂いが消える。あの悲嘆の陰は18歳の少女の顔を覆うべきものではない。

「この辺りの漁場、昨年の季節外れの台風にやられちゃったらしいんです」

 彼女は漁場の方を指差す。僕はその災害をニュースで知った。多くの漁船や海辺の施設が多大な被害を受けたらしい。

「小さい町だし復興も時間がかかるんです。お金もないですしね」彼女は最後の一口を口に入れる。「みんな悲しんでるけど絶望はしてないんです。少しずつ直していこうって話してて。毎年台風が来てまた被害を受けるかもしれないのに、それでもここから離れたくないそうです。地元愛ですね」

 彼女の顔が少し憂いを帯びた。それは僕の表情にも伝染する。

「境さんは地元に戻られるんですか?」

「そうだね。今引越の準備をしてる」

 僕は大学を無事卒業した。来月からは地元に帰り、内定を受けた会社で働き始める。引っ越しや新生活の準備で忙しない時期だ。

「いいですね。私には地元愛がないから。でもこの土地を離れたくない人の気持ちはよくわかるんです。こんな綺麗なところを離れるなんてもったいない」

「ここが本当に気に入ったみたいだね」

「はい。皆さんに本当に良くしてもらって、毎日幸せです。だから恩返しがしたくて」

 彼女は今後のお金の使い道について僕に説明する。新しい漁船を購入し寄付し、その他損害を受けた部分にも支援をするつもりだと彼女は話す。

「寄付する時の取引の内容も考えてます」

 彼女は笑顔を浮かべる。

「決まったら教えてくれる?」

 僕の問いかけに彼女は人懐こく笑い「はい」と返事をする。


 7月。日差しが肌を焼く季節に僕は春が恋しくなる。あの柔らかく包み込むような空気は表情を変え、今は僕にじわりと纏わりつく。それを吹き飛ばしてくれる潮風はありがたいが、それでも暑さは拭えず、汗で濡れたTシャツは体に張り付く。

「ここのお肉もう焼けてますよ」

 尾形えみは暑さを感じさせない笑顔で僕達に焼けた肉を勧める。鉄板の上の少し焦げ付いた肉がいい香りを放ち、鼻腔を刺激する。

「じゃあいただこうかな」

 柳澤さんが肉を紙皿に取り、焼肉のたれをつけて齧る。僕は焼けたピーマンをいただく。

 尾形えみは缶ビールを開け、喉を鳴らしながら飲む。未成年を感じさせない豪快な飲み方に僕たちは目を見張ったが、「今日は無礼講です」という彼女の言葉に僕達も缶を開けた。

「尾形さん、今日はありがとうね。僕までご馳走になっちゃって」

 柳澤さんは彼女に礼を言う。面会時にバーベキューをしたいというのが彼女の希望だった。その際に「柳澤さんも良かったら」と彼女が声をかけた。

「お礼を言うのは私の方です。家を探してもらったのに、今までお礼ができなくてすみません」

「いやいや。いいところを紹介できてよかったよ」

 鉄板の上には肉や野菜、この地域で獲れた魚介類が並び、食欲をそそる音を立てている。

「地元の人からもいっぱいお裾分けを貰ったんです」

 あれから彼女は漁場の人達に復興支援を申し出たらしい。地元民の喜びようは想像以上だったという。財政規模の小さい町にとって、彼女の多額の支援は棚から牡丹餅だったに違いない。彼女は漁場を取り仕切る一人の漁師に支援を申し出、取引を行ったという。

 そして彼女は穏やかに取引条件を僕達に話す。

「これが取引内容、私の願いです」

 言い終わった彼女の表情に曇りはなく、まっすぐ海を見つめていた。

「私ずっと海の近くに住みたかったんです。海ってすべての生命が生まれた場所でしょ? 命の母ですよね。私は、自分の母親はあの人じゃなくて別にいると思いながら生きてきました。ここに住んで、海が私の本当の母親だと感じます。風を吹かせて私の顔を撫で、潜った時には全身を包み込んでくれます。時には私達を叱るように荒れます。ほら、お母さんみたいでしょ? おかしいかもしれないけど私はそう感じるんです。ここにいる間は、私は本当の母親に愛されているように思えます」

 一筋の涙が彼女の頬を伝う。そう思わなければ生きてこられなかった彼女の人生はどれ程の苦痛に満ちていただろう。

「だからここが地元みたいに感じるんです。ここで死ねるなんて、私は幸せですね」

 彼女の静かな声に僕達は耳を傾ける。

「境さんは地元に戻ったんですよね?」

「そうだね。地元は相変わらず騒がしい」

 僕は軽く笑う。「若者の街」の異名を持つ加見野市はその名に恥じない程多くの若者が集い、昼と夜の境目もなく街が活気づいている。大学時代に住んでいた場所のような、静かに佇む街とは正反対の雰囲気だ。

「でも地元が好きだから戻ったんですよね?」

 よく言われるが、それについては自分でもよくわからない。便利で若者向けの街の様相は好きでもあるし、若者が集まるからこその問題点もある。他の土地への興味も密かに抱いてはいるが、それでも地元に帰るという選択肢は常に僕の中で最優先事項だった。

「好きかどうかはわからないけど、でも地元だからこそ特別に感じるものはあるかもね」

「それ好きってことですよ」

 彼女はいたずらっ子のように笑う。

「そうかもね。確かにいろんな娯楽があって暇はしないし、行政が子育てと教育に力を入れてるから将来のことを考えても住みやすいところだと思う」

 柳澤さんは肉を食べる手を止め、僕達の会話にじっと耳を傾けている。

「加見野市ってUターン率が物凄く高いって聞きました。やっぱり若者や家族に優しい所は人が帰ってきますよね」

 彼女の顔が少しだけ陰る。住みやすさなど関係ない。彼女にとっては尾形浅子と過ごした場所はすべて過去の苦痛を想起させるものでしかない。地元を奪われた彼女にその代わりになる場所が見つかったことが幸いだ。だからこそ支援を申し出たのだろう。

「私の余命も残り1か月です。私が契約した時間は午後2時頃でしたね。その頃に私は眠りにつくんですよね?」

「そうだね」

「こんなことお願いするのも迷惑なのはわかっています。でも、その時に私の傍にいて最期を見届けてもらえないでしょうか?」

「もちろん」

 柳澤さんと僕は同時に答える。彼女は涙目を細めて屈託のない笑顔を見せた。


 1か月後。尾形えみの最期の日。午後1時30分頃、僕達は漁港を出発した。尾形えみと取引をした漁師の瀬川さんは無言で船を操作する。船には尾形えみ、柳澤さんと僕の三人がいるが、言葉を発する人はおらず沈黙が流れる。尾形えみだけは穏やかな表情を浮かべ、海を眺めていた。彼女の長い髪は潮風と戯れるように靡き、彼女の顔を露にする。垣間見えた彼女の表情は、とても今日亡くなる人とは思えない程幸せに満ちたものだった。

 暫く船を走らせていた瀬川さんはゆっくりと速度を落とし、やがて船は止まった。周囲は海以外に何もなく、振り返ると薄らと浜の近くに聳える山が見えるくらいだ。座っていた尾形えみは徐に立ち上がる。

 卯の花色の足元まであるワンピースは袖や裾がビジューで彩られ、彼女が動くたびに擦り合って音が鳴る。地元の人からもらったという瑠璃色の石のネックレスは、太陽光を反射し彼女の胸元で光る。彼女を包むように拭く海風は、彼女の髪と大粒のイヤリングを靡かせる。透き通るような白い肌と大きな目を細めて柔らかい笑顔を見せる彼女に、僕は思わず見惚れてしまった。

 彼女は静かに「ありがとうございました」と口にする。同じように柳澤さんと瀬川さんにお礼を言い、静かに船首に向かって歩く。僕達は示し合わせたわけでもなく立ち上がり、沈黙の中尾形えみを見守る。船首に立った彼女は僕達の方をゆっくりと振り返り、深々とお辞儀をする。僕達もそれにならう。頭を上げると彼女の微笑みが目に入る。薄く開いた目に眠気が見える。そろそろ時間だ。彼女は再び船首に向き直り安全柵を乗り越える。踵と安全柵を掴んだ両手のみで体を支え、半分ほど体を投げながら、深く呼吸をする。そして両手を離した。彼女の体は紺青の海に吸い込まれていく。一瞬だった。でも余韻は永遠に残る。僕達は静かに目を閉じ胸の前で手を合わせ、彼女の冥福を祈る。

 尾形えみは、母の元へ帰っていった。

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