冷えた潮風が僕の顔に吹きつける。軽く身震いし体温を逃がさないよう腕をさすりながら季節の変わり目を感じる。テイクアウトコーヒーのカップを両手で持ち手を温めようと試みる。空を覆う灰色の雲は、海岸に薄暗い影を落とし、潮風はコーヒーが立てる湯気を遊ぶように掻き消していく。

「つまり、寿命を売った目的はお母さんへの復讐ですか?」

 僕は隣に座る尾形えみに問いかける。目を閉じて潮風を堪能していた彼女は、ゆっくりと口を開き「そうです」と呟く。

 彼女は洗脳などされていなかった。僕の推測は間違っていた。いや、彼女が僕達を誤解させていた。今尾形えみが隣で見せる表情は、契約時の純粋無垢なものとは一転して世の憂いを滲ませている。あの表情も演技だったとは。彼女の役者ぶりに密かに舌を巻く。

「あの人は今頃どんな目に遭ってるでしょうね」

 彼女は静かに言う。その目にはこれまでの人生への悲壮が映る。

 尾形えみは、尾形礼司と浅子の間に生まれた一人娘。幼少期は家庭内は平和そのものだったが、ある時から浅子の浪費が始まる。礼司は大企業に勤めていた為に多少の浪費には目を瞑っていたが、次第に浅子の衝動買いが増えついに支払いに窮する。借金をするも浅子の物欲は留まる処を知らず、借金は膨れ上がる。夫婦喧嘩が絶えず、何を言っても聞かない浅子に礼司の堪忍袋の緒が切れ、えみが小学五年生の時に家を出て行った。仕事も辞めてしまい、行先もわからない。生死も不明だと尾形えみは話す。

 それ以降は浅子がパートタイムの仕事を始めるが、稼ぎはたかが知れている。逃げるように浅子の実家に引っ越すも、借金の取り立ては引っ越してからも続いた。浅子は自身の母親の年金を借金の返済に充てていたがそれでも完済には程遠く、スナックで働き始める。そこで佐久間明弘と出会った。浅子が話の流れで見せた家族写真をきっかけに、佐久間はえみに入れ込む。娘に熱を上げる佐久間を見て、浅子は月額で娘を貸し出すと取引を持ち掛けた。佐久間は二つ返事で了承し、それからえみの性接待の日々が始まった。佐久間との仕事がない日は、スナックの手伝いまでされられた。中学校には卒業できる最低限の日数のみ出席し、なんとか卒業はできた。しかし借金返済の為に働く必要があり高校には行かせてもらえなかったという。その頃には浅子はスナックを辞め、えみの性接待のマネージャーと化していた。メインの客は佐久間とその他に何人か、そして単発の客の相手もしていたとえみは淡々と話す。

 耳を疑うような内容ばかりだった。この話を聞いた上で契約時の尾形浅子の娘自慢を思い出す。気でも触れているのか、と僕は顔を顰めた。

「必死に耐えたんです。何も考えないようにしました。いつも、ただ時計の秒針を見て終わるのを待ってました。借金があるから仕方がないって自分に言い聞かせて。母親が自分で作った借金だって知らなかったんです。だってあの人、お父さんの隠し借金だって私に愚痴ってたんですよ」

 幼い頃から父が大好きだったというえみにとって、父親の汚名は心に大きな陰を落としただろう。さらにそれが冤罪であり、父親が出て行った原因が自分を苦しめていた母親だと知った時の怒りは想像もつかない。

「それだけじゃないんです。私が稼いでいたお金まであの人は着服してたんです。あの人がへべれけになってた時に漏らしたんです。あの人の通帳を確認したら、私に話していた倍の額を佐久間から受け取っていました。それを全部借金返済に充てていたら、もっと早くあの地獄から解放されていたのに。それどころか完済した後ですら、別の借金があると嘘をついて私に仕事をさせていました。私が稼いだ金はすべてあの人の浪費で消えていたんです。私は高校まで諦めたのに。あの人はそんなこと毛ほども気にしていません」

「逃げ出そうとはしなかったんですか?」

「一度だけ逃げました。すぐ捕まったけど。その時にあるものを見せられました。私と佐久間の情事の映像です。あの人が隠し撮りしたもの。逃げればこれをネット上に公開すると脅されて諦めました」

 とても母娘の話とは思えない悲惨な内容に言葉を失う。

「私の人生にはもう逃げ場がないんです。あの人と一緒にいても地獄、離れても地獄。だったらあの人を地獄に突き落として、私も死んでしまいたい。この契約は私にとって転機でした」

 契約後、尾形えみは母親への復讐計画を実行に移した。10億を手に入れ舞い上がった母親は、自分の通帳やクレジットカードはもう必要ないとでも言うように管理がおざなりになった。それを利用し、支払いをすべて母親のクレジットカードで済ませた。母親が贅沢三昧をしている隙をつき、新居の購入をキャンセル。闇金から母親名義で金を借りることにも成功した。本来は他人の名義を不正に使用した場合は、法律上名義を使用された相手に支払い義務は発生しないはずだが、彼女はそこにも罠を張っていた。

「あの人は馬鹿ですから、法律を知っているとは思えません。おまけに家にある残った現金で支払いをして、虚偽の借金を事実にするでしょうね」

 名義を不正利用され借金ができた場合に一部を返済してしまうと、借金を事実上認めることになり支払い義務が発生する。それを見越して母親の口座に残っていた残金を下ろし、手提げバッグに忍び込ませたらしい。

「相続について詳しく質問されたのは、お金を母親に奪われない為だったんですね」

「そうです。あの人には現金なら相続ができると思わせるように仕向けました」

 条項五の寄付や相続の条件は厳しい。カードの譲渡は不可能な上、引き落とした現金は購入に使用しない限り売主の手を離れた時点で白紙に変わる。取引を交わすことで初めて第三者が売主から金や購入品を受け取ることができる。売主の意思が肝になる契約上、売主抜きで金の使用は許されない。

「初めてこの話をあの人にした時はただの冗談でした。私が寿命を売って10億稼いだらどうするって。冗談というよりは期待してたのかもしれません。流石に子供にそんなことさせないだろうって。でもあの人この話に食い付いたんです。もっと詳しく事情を聞いてこいって私を急かす姿を見て絶望しました。これが私の母親だって。私のことは本当に金を稼ぐ道具としか思っていない。動画もただの脅しかもと思ってたけど、これで確信しました。あの人はきっとやります。それで寿命を売る決意をしました。私の希望のない人生でも、売ればあの人に復讐するくらいはできる」

 そしてそれは功を奏しただろう。突然消えた娘と財産、代わりに膨れ上がった借金と取り立てが顔を出すとはあの母親も想像していなかったに違いない。

「あの人にはお金の重さを知ってほしいんです。お父さんがどれだけ苦労して稼いだか。私が借金返済の為にどれだけのものを犠牲にしたか。おばあちゃんも生活の為の年金をほとんどあの人に使われたんです。あの人は他人が稼いだお金でずっと生きてきたんです。稼ぐ側の気持ちも、お金の重さも、あの人は何も知らない。でもこれで思い知るでしょうね。父も私もいない。おばあちゃんは今施設に入っているので年金はすべて施設の支払いで消えます。頼れる人はもういません」尾形えみは風に靡く髪を手で押さえながら立ち上がる。「寒くなってきましたね。中に入りますか?」

「今日の面会はこれで以上ですので、僕はこのまま戻ります。お時間ありがとうございました」

 僕が軽くお辞儀をすると彼女は少し寂しそうに笑う。

「そうですか。ではまた来月に」

 丁寧に頭を下げ、彼女は海辺の丘にある家に帰っていく。

 尾形えみが二度目に事務所を訪れたのは、彼女が寿命を売った翌日だった。突然の訪問で僕は事務所にいなかった為、柳澤さんが対応した。すべての事情を聞いた柳澤さんは、母親から隠れる場所を探しているという彼女に別荘を持った知り合いを紹介した。現在は海外に住んでいるというその人は一年分の家賃の一括前払いに二つ返事で了承し、彼女は晴れて身を隠す場を手に入れた。

 仮宿は町から少し離れているが、タクシーや配達を利用すれば生活には困らないだろう。海沿いにあるこの町は漁業を主な産業としており、港には漁船が立ち並び早朝は朝市で盛り上がる。町全体に漂う潮の香りに僕は違和感を覚えたが、彼女は鼻から大きく息を吸いこの空気を楽しんでいた。町の人達は見慣れない少女の来訪を快く受け入れ、刺身などを差し出してくれるらしい。

 地元から遠く離れたこの地が、彼女が最期に過ごす場所となる。


 新幹線の座席を倒しくつろいでいると電話が鳴った。画面には尾形浅子の名前が表示されている。席を立って電話に出ると、浅子の悲鳴にも似た声が耳を劈く。

「えみがいないの! 娘はどこ!? 知ってるんでしょ!?」

 一応面会の日程は覚えているらしい。聞こえないよう溜息をついて答える。

「個人情報の為、お答えできません」

「何が個人情報よ。えみは私の娘なのよ!?」

 あれだけのことをしておいてよくもそんなことが言えるもんだ。僕は出かかった悪態をぐっと飲み込む。

「ご家族だろうと関係ありません。売主は尾形えみさんです。彼女の個人情報を守るのも僕の仕事です」

 浅子は電話口で何かを叫んでいるがよく聞こえない。

「契約者は尾形えみさんであり、あなたは契約に関わっていない他人です。僕にはあなたを助ける義務はありませんので失礼します」

 言い終わると同時に通話終了ボタンを押す。その後、尾形浅子の電話番号を着信拒否する。念の為柳澤さんにも電話で報告した。

「ほとぼりが冷めるまでは事務所を閉めた方がいいね」と柳澤さんはぼやいた。尾形浅子の来訪が予想されるからだ。尾形えみが遠方に住んでいる以上、事務所は暫く必要ないだろう。

 着信履歴の残った尾形浅子の名前を見て、「ざまあみろ」と呟く。

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