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後日不動産会社から、家主が了承したと連絡があった。これであの家は私の物。契約者はえみになるからやり取りは全部娘に任せる。
契約の日。またあの不動産まで行かないといけないなんて面倒だわ。鬱々とした私にえみがスマホの画面を見せる。
「ここ駅の近くにあるエステなんだけど、お母さんの為に予約取っといたから行ってきて」
最近オープンしたという高級エステのホームページ。そういえば私が前に行ってみたいって言ってたっけ。
「私が言ったことを覚えてたの? 気が利くじゃない」
えみは、えへへ、と子供のように笑い、えみは契約に出かける。私も支度をして、ホームページに掲載された住所に向かう。高級感漂うそのエステでの施術は最高だった。えみはボディケアコースを予約していたから2時間くらいかかったけど、あっという間だったわ。ここのエステには定期的に通えるコースがあるみたいだから、契約しちゃおうかしら。えみがいないと買い物ができないことが面倒ね。何とかならないかしら。そうだ、いいこと思いついた。
ボロアパートに帰ると、えみはすでに戻っていた。
「契約は終わったよ。入居は一か月後にした」とえみは話す。
「なんでそんなに待たないといけないの? こんなボロ屋うんざりよ」
「このアパートの契約上、退去の一か月前に言わないといけないから、あといらない物を処分したりするのに時間がいるでしょ?」とえみは加える。
そうだった。本当に世の中は契約だの条件だの面倒なものばかり。まあ、あとちょっとでここともおさらばだから、我慢してあげる。
「そうだ。えみがいない時に買い物できなくて不便だから、いくらか下ろして家に置いといてちょうだい」
えみは、少しびくりとして小さく「わかった」と答える。私が気づいたことに驚いたようね。えみの説明では、カードは売主しか使えず、振り込みも不可だから相続が難しいとのこと。でも現金にしてしまえばそんなもの関係ない。流石に10億の現金を家に置きたくないから少しずつ必要な分を下ろす。えみが死ぬ前に全部下ろして私の手元に置けば相続完了。これで私の贅沢な生活は保障された。面倒な条件も穴を突けばないのと一緒。
翌日、えみは手提げバッグに下ろした現金を詰めて帰ってきた。
「盗まれるといけないから押入れの奥に隠しておくからね」とえみは寝室に向かう。
戻ってきたえみにエステの定期コースを契約したいと話すと「じゃあ今度行って契約しようね。お金は私が払うから」と笑顔で答える。
引越に向けて家具を処分していくうちにボロ屋は空になっていった。今ではあの胡散臭い事務所よりも質素になってしまった。流石に不便になってきたからホテルに泊まることにしたけど、えみはホテルがあまり好きじゃないとアパートに籠っている。
佐久間さんとのことでも思い出すのかしら。まあいいわ。えみが前に下ろしてきた現金あるし、アパートを空にするよりは誰かが見張っている方が安全だわ。
引越の前日、ホテルを出てアパートに帰る。新居が楽しみでしょうがない。早く明日にならないかしら。お腹が空いてきたわね、そろそろお昼ご飯の時間だから食べに行かないと。
「えみ、どこ? ご飯行くわよ」
静まり返った部屋に私の声だけが木霊する。おかしいわね。寝室を除くと昼間なのに布団が敷いてあり中心が盛り上がっている。こんな時間まで寝てるなんて、なんてだらしない。
「えみ! 起きなさい!」
布団を勢いよくめくると丸めた毛布が現れた。誰もいない。押入れを確認する。現金が入った手提げバックがぽつんと置いてあるだけ。トイレも浴室もすべて確認するけどすべて空。
いない、えみがいない。
スマホを取り、えみに電話をかける。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」と機械的なアナウンスが流れる。何度かけても同じ。どうして? 何があったの? 徐々に焦りが増す。娘がいなくなった。連絡がつかない。こういう時はどうしたらいいの? 警察に連絡するべき?
突然スマホが甲高い音を立てて鳴り出した。驚愕し思わず身を縮める。知らない番号。誰かしら? えみが別の携帯からかけるのかしら?
「尾形浅子さんですね? 以前お貸ししたお金の件ですが、期日を過ぎてもまだ返済してもらってません。返してもらえますか?」電話口から知らない男の声が流れる。
「なんの話? 借金? 夫の借金なら全額返済したはずです」
「いえ、一銭も返してもらってませんね。1か月前に取引してから連絡も一切いただいていませんよ。困るんですよ。そういう風にしらばっくれるの」
「1か月前? 夫の借金を返済してからお金なんて借りてないわ。人違いです」
「あなた尾形浅子さんでしょ? 人違いじゃないですよ。いたずらでもない。あなたの家族のことも知ってますよ」
そう言うと、電話口の男は私の夫と娘の名前を口にする。それだけじゃない、ここの住所と私の前の職場、両親の名前、娘が通っていた中学校まで、噛むことなく話す。男が私達の個人情報を口にする度、私の呼吸が止まる。なんで、そこまで知ってるの?
「これ全部あなたに関する情報です。逃げられませんよ」
男のねちっこい声に嫌悪を感じる。沈黙する私に苛立ったのか、男は徐々に声を荒げる。怒鳴り声になった時点で怖くなり電話を切った。スマホを床に置いて頭を整理する。身に覚えのない借金。消えた娘。いったい何が起こっているの?
再度スマホが鳴り出す。画面を確認すると別の番号からだ。警戒しながら出ると、さっきとは打って変わって、丁寧な男の人の声がした。
「尾形浅子さんですね? 私、クレジットカード会社の小山田と申します。今回お電話した件ですが、支払日にクレジットカードご使用分をお支払いいただけなかった件についてです。催促状をお送りしましたが、ご確認いただけましたでしょうか?」
クレジットカード? 佐久間さんからは現金をもらっていたからクレジットカードはしばらく使っていない。そのまま放置していたはず。なぜ今になって請求が? しかも催促状? なんの話?
急いで玄関に行き、ポストの中を確認する。クレジットカード会社名が記載された封筒を見つけ、中を開く。紙には返済額や返済期限などが記載されている。混乱しながらも、クレジットカードを使用していないことを伝える。
「不正利用されたということでしょうか? 尾形さんのクレジットカードが使用された場所は……」
すべて聞き覚えのある場所。えみと行った焼肉屋、旅行に行った時に使った旅行代理店。その他もすべて私達が買い物や食事をした場所、全部えみがあの黒いカードで支払っていたはずの場所。どういうこと? あの子、契約でもらったカードじゃなく私のクレジットカードを使っていたの?
「これらの使用先に覚えはありますか?」
「はい。でも娘が勝手に私のカードを使ったんです、きっと」
「そうですか。ですが、そちらについてはご家族間でお話しください。クレジットカードのご使用分は尾形浅子さんにお支払いいただかなくてはいけません」
そんな。手紙に記載されているのは私にはとても払えない金額。あの子、なんてことをしてくれたの。
娘に連絡する為、少し待ってほしいことを伝える。なるべく同情を買えるよう涙声を出してみた。
電話口の男は渋々といった様子で返済期限を伝え、電話を切る。すぐにえみにメッセージを送る。
突然扉を叩く音がした。部屋に響くその音に飛び上がる。
「尾形さーん、尾形浅子さーん。先ほど電話した金融機関の者ですけどー」
それは身に覚えのない借金をした金融機関だった。ここまで取り立てに来たの?
「あ、開いてる」
男が扉を開けて玄関に入ってきた。しまった。ホテル生活でオートロックに慣れてたから玄関の鍵を閉め忘れていた。玄関に立っている男は爽やかな顔立ちだが目は笑っていない。
「尾形さん。借りたもんはきっちり返してもらわないと困るんですよ」
「違うんです! 私が借りたんじゃないんです! おそらく娘が勝手に……どうか少し待ってください! 娘に連絡を取ってすぐに払わせます」
私の悲痛の叫びも虚しく、男は冷めた目で私を見下ろす。
「娘さんが借りた? そうですか。でも家族にも支払い義務ありますからね。きちんと支払ってください。それまで毎日ここに来るんで」
そんな。どうしよう。そうだ。えみが下ろした現金が押入れに入っていたはず。
男に「今払える分をお支払いします」と伝え、押入れに向かう。こんな時の為にえみに下ろさせて本当に良かった。クレジットカードの返済もこれで何とかなる。急いで手提げバッグを取ろうとしたが、焦ったために手が滑る。バッグは私の手を離れ逆さまになり、そのまま床に落ちた。大量の中身が床に散らばる。でもそれはお金じゃなかった。一万円札と同じサイズの大量の白紙だった。
どうなってるの? お金は? 私はその場に立ち尽くした。
「お金って、まさかこれのことじゃないですよね?」
いつの間にか部屋に上がった男が言う。目には静かに怒りが満ちている。
「札束と見せかけてただの紙を渡そうと? やってくれますね」
「違うんです。娘が下ろしたはずの現金がここにあるはずなんです。私はそれを取ろうと……」
「へえ、確かに現金はいくらかあるみたいですね」
男が指を差した先に、紙に埋もれた札の端が見えた。かき分けると10枚ほどの万札を見つけた。
「とりあえず今はこれしかありません。あとで絶対に支払いますから、今日はこれで勘弁してください」
土下座して金を差し出す私を男は冷ややかな目で見る。
「しょうがないですね。とりあえずこれは返済分に当てときますから。残りの分についてはまた連絡しますね」
私は男の姿が見えなくなるまで土下座した。汚い畳に押し付けた私の顔は怒りで歪む。
えみのせいで私がこんな目に。夢の豪遊生活が台無しよ。何の為にこんなことを。育ててやった恩を仇で返すなんてあの役立たず。絶対見つけ出して全部払わせて、私をこんな目に遭わせたことを後悔させてやる。私にはとっておきのものがあるんだから。
こうなっては一端新居は諦めないと。娘を見つけ出して借金を整理してからまたすぐに購入すればいい。
不動産会社に連絡をする。内見の時の社員が出る。事情により新居の購入を延期したい旨を伝えると、彼は「はい?」と間抜けな声を出す。
「あれからすぐに娘さんから電話をいただきまして、すでに購入はキャンセルされてます。あの後別の方が購入されたので、あの物件はもう取り扱っていません」
「なんですって? 娘が勝手にキャンセル? 私の家を?」
「ええ、そうです。お母さんも了承済みだと思っていましたが、何か行き違いがあるみたいですね。ご家族でお話しされた方がよろしいかと思います」
逃げるように電話を切られた。どこまで私をおちょくれば気が済むの、あのバカ娘!
スマホを床に投げつけた。スマホが飛んで行った先に紙に埋もれた通帳の端が見える。あれは私の通帳。そうだ、少ないけど中に少しだけお金が残ってるはず。
通帳の最新のページを開く。残金734円。最後の取引日はえみが現金を下ろしたと言って手提げバッグを持ち帰った日。同じ日に10万円が引き落とされていた。
まさか、私があの借金取りに渡した10万円は私の口座から引かれたもの? 通帳に無機質に印字された三桁の数字に目を落とす。
これが私の全財産? えみは10億を手に入れてから1円も私に使っていなかったってこと? 私はただ自分の借金を膨らませていただけ? 今日チェックアウトしたホテルは? えみが受付で先払いしていたはず。あれも私のクレジットカードを使用していた? エステも? じゃあ私の借金はこれだけじゃないってこと?
えみに送ったメッセージを確認しても既読のマークはつかない。えみはメッセージを確認していないのか、それとも私をブロックしているのか。
どうしよう。私はどうしたらいいの? 私の人生は一体どうなるの?
私の震える声を拾ってくれたあの柔らかい声はもう聞こえない。私のそばにいてくれる人はもう誰もいない。
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