契約者 尾形えみ
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「夫が借金抱えて夜逃げしてから、私は寝る間も惜しんで働いたんです。えみも協力してくれて、ようやく借金を返済できました。でも生活は苦しいままです。こんな人生ひどいでしょ? 報われないでしょ? 天は私達に味方しないんです」
「でも、私はえみがいれば幸せでした。そう思ってこの子に愛情を注いで女で一つで育ててきました。そしたらある日、この子が『寿命を売れるらしい』って話を持ち出したんです。もちろん私はまだ自分の人生に希望を持ってます。寿命を売るなんてとんでもない。お金よりも人生の方がずっと大事でしょ? 私は断ったんです。『そんな話あっても私は売る気はないよ』って。でもえみは自分の寿命を売る気でいたんです。初めは驚きましたし、勿論止めました。親としてね。そんな馬鹿なことって。でも、この子は聞かないんです。優しいけど昔から頑固なところがあって、私の説得も無駄でした。親にお金を渡す為に娘が犠牲になるなんてそんな悲劇みたいな話、私耐え切れなくて毎日泣いてたんです。親にとっては子供が何よりも大事でしょ? あなたはまだ学生さんだから実感わかないかもしれないけど、親になったらわかるわ。きっとあなたの親御さんも同じこと思っていることでしょうね。境くんはどちらの出身? 加見野市? あらー、私達昔そこに住んでたのよ。でもいろいろあって、えみが小学校を卒業した時にここに引っ越したんだけどね。まあまあ、親御さんはお元気? あらそう、いいわね。大学を出たら地元に戻るの? 戻るのね? その方がいいわ。親御さんもきっと喜ぶと思うわ。境くんの顔を見たくてしょうがないでしょうね。あら、話が逸れちゃったわね、ごめんなさい。どこまで話したかしら? そうそうえみが寿命を売りたいってことなんだけど、いくら10億円って言われても大事な娘と取り換えるなんて、そんな惨いこと。でもえみはもう決めてしまったみたいで、ここに行くって聞かないんです。私はどうしたらいいのかわからなくて、困ったときに相談に乗ってくれる知り合いに話したの。そしたらその人ね、『子供の人生は子供のもの。その子が自分で決めたのなら、全力で応援するのが親の務め』って。その人の話だと、子供の人生を勝手に決めて子供を縛る親を『毒親』と呼ぶそうよ。その話を聞いて私は気がついたの。私も『毒親』っていうのになってたかもって。子供を大事に思うばかり、えみ自身の気持ちに寄り添ってなかったって。私の意見ばかり押し付けていたのよ。それでえみと改めて話をしたんです。ちゃんと子供の話を聞ける母親にならなきゃって。そしたら『えみは寿命を売ってお母さんを幸せにする』とはっきり言います。目を見ればこの子が本気だってわかります。決して冗談なんかじゃないんです。私は涙が出て、何も言えなくなりました。この子を大事に思う気持ちと、失うことへの恐怖で涙が抑えられなくて。でも知り合いの言葉を思い出して、子供の意思を尊重しないとって心に決めたんです。うちのえみは本当に慈悲深くて、母親の為に尽くしてくれる本当に、本当にいい子なんです」
要するに娘が母親の為に寿命を売って大金を稼ぐつもりらしい。ちらっと時計を見て彼女たちが事務所に来てから一時間以上経過していることを確認した。相続については制限があるため説明しなければいけないが、尾形浅子の話が終わる気配がない。
娘の尾形えみは母親の肩をさすりながら優しく声をかける。
「今まで育ててくれたんだからこれくらい当然よ」
感謝はすれど寿命は売らないのが普通だ。親も受け入れるわけがない。座っているだけで汗が噴き出るような真夏の猛暑を感じさせないほどに二人は体を寄せ合っている。目の前の異常に美しく見える親子愛に、僕は強い違和感を覚えていた。不快感と言ってもいい。二人の関係について僕はある可能性について考える。
「契約、お願いできますか?」
尾形えみが上目遣いで僕を見る。大きな丸い目に見える強い意志は逆らうという選択肢を僕からなくす。
「尾形えみさんご本人の意思ということでよろしいですね?」
「はい、もちろんです」
「わかりました。契約は尾形えみさんと僕のみで行いますので、お母さんは別室でお待ちください」
尾形浅子は不満そうな顔を見せるも、しょうがないわね、と一言漏らし、柳澤さんと別室に移動した。部屋には僕と尾形えみの二人のみが残る。彼女は母親が部屋を出てから、下を向いたまま沈黙している。滑らかな黒髪がゆるりと垂れて、顔を隠す。僅かな隙間から見える彼女の肌は、彼女が身を包むパールホワイトのワンピースと大差ないほど白く透き通っている。彼女の年齢は18歳と聞いていたが、顔立ちは少し幼く、彼女が纏う雰囲気は実年齢よりも落ち着いて見える。
「契約についての説明をしてもよろしいですか?」僕は言う。
「契約の前に確認したいことがいくつかあります。寿命の売買については噂を聞いただけなので」
尾形えみは顔を上げて僕の目を真っ直ぐ見据えて言った。
契約後、発行されたカードを手に親子は帰っていった。面会は親子で来るという約束も加えて。
別室から出てきた柳澤さんの顔には僅かに疲労が見える。
「あのお母さん話好きで困るね。契約中もずっと娘自慢と不幸な身の上話ばかりで参ったよ」
僕は、お疲れ様です、と声をかけコーヒーを渡す。
「あの親子って違和感がありますよね」僕は言う。
「あれは異常だね」
「契約内容のことで一つ聞きたいことがあります。条項の四(ホ)には第三者が売主を脅迫した場合の禁止事項があります。売主を守るためのものですよね?」
「そうだね。本人に契約の意思がない場合、この本は契約しない」
「では、洗脳されている場合はどうですか?」
柳澤さんの手が止まる。口に運ぼうとしたコーヒーカップがテーブルに置かれる。
「いい質問だね。その場合、本は通常通り契約を行う。洗脳の有無に関わらずそれが本人の意思だからね」
「尾形えみは契約の前に相続の条件について細かく質問してきました。どんな方法を取っても母親に遺産を残すつもりみたいです。僕は彼女が母親から洗脳されているんじゃないかと危惧しています」
「残酷だけど本人の意思を尊重するのがこの契約の本質なんだ。売主が契約に了承し本が契約を行ったなら、僕らにできることは何もない」
柳澤さんは再度コーヒーを手に取り、啜る。
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