契約者 真壁加奈子
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「自分の人生に満足していますか? いいえと答えたあなたはきっと自分の人生に価値を見出せない苦しみに苛まれていることでしょう。ですが、もし私が『あなたの人生を10億円で買います』と言ったらあなたは売りますか? 売らないでしょう? あなたの人生は10億円よりもずっと価値があるんですよ」
どこかで聞いたことがある話だ。おそらく自分の人生に価値を見出せない人を励ます為のものだろう。そう思ったのは自分も勇気づけられたうちの一人だったからだ。こんな怪しい話に飛びつく人などいないと、人生を売る人なんて稀有だと思っていた。このバイトをするまでは。
目の前にいる煌びやかな女性、
「10億ってそのまま現金で渡されるの? それともあたしの口座に振り込まれるの?」
「契約後にカードが発行されます。代金の10億円はそのカードを通じて使用できます。使用方法はクレジットカードと同じです。現金が必要な場合はATMを使用してお引き出しが可能です。暗証番号は必要ありません」
「へー、本当に怪しい取引ね。これ本当に10億もらえるの? 詐欺じゃないでしょうね?」
人形のような整った顔が僕をじっと見る。長い睫毛で縁取られた少し吊った眼は鋭い眼光を放つ。僕は頭に刷り込まれた説明を機械的に口にする。
「怪しまれるのは無理もないと思います。これが本物であることは、契約終了後に真壁さんご自身で実感されることと思います。しかしそれまではこの契約は本物ですと言うほか証明するものがありません。僕の説明がご信用に至らない場合、同意を得られないものとして契約は不成立となります」
「大丈夫よ。ちゃんと契約するから心配しないで。この契約が嘘だったとしても失うものなんてないし」
「では同意されたということで、これから契約に移ります」
僕は深緋色の古風なハードカバー本の1ページ目に記載されている契約内容に目を落とす。
「改めて契約内容を読み上げます。真壁さんに『同意します』とお答えいただき、最後に署名をしていただくことで契約が完了します。一つでも同意をいただけない条項がありましたら、その時点で契約は不成立となります。ご質問等がございましたら、読み上げの途中でも構いませんので遠慮なくお聞きください。一度契約が成立しますと破棄ができませんので」
「わかった」
彼女は考えるようすもなく、あっさりと返事をする。あまりにもスムーズに進む契約に少し動揺するも、平静を装い契約書を読み上げる。彼女は黙って僕の読み上げに耳を傾けていた。すると、条項九を読み上げたところで彼女は口を開いた。
「
「役職の名前です。僕が御先という役割を担います。契約を行う際の助手と思っていただければ結構です」
「え、
「買主はこの本です。この契約はあくまで真壁さんとこの本の間で交わされます。僕は助手として契約の補助と記録を行います」
「へー、よくわかんないけどそんな話あるのね」
御先とは神に遣える神聖な生き物のことを差すが、信仰心が薄れた現代人には奇妙に聞こえるだろう。それどころかカルト宗教と忌られかねない。契約者の不安を煽らないよう僕は無難に説明する。
おまけに彼女はさほど契約内容やこの本について興味を持っていないらしい。派手な化粧や水商売さながらの服装、高級ブランドのバッグを見るに、金に対する欲が強いのだろう。
「じゃあ余命1年の間は境くんと定期的に会って、あたしの残りの生活について話せばいいのね?」
「その通りです。僕がその内容をこの本に記録します。契約書には『定期的に』とありますが、頻度は月に1回となります。直接会うことが望ましいですが、難しい場合は電話でも問題ありません」
「あたしは直接会う方がいいな。というかデートがしたい」
突然の申し出に、出かけていた残りの説明が喉に詰まる。虚をつかれた僕を見て彼女はくすりと笑った。
「デートってあれよ、ご飯食べて話をするだけ。こんな地味な事務所でただしゃべるだけなんてつまんないでしょ? 取って食ったりしないから大丈夫よ」
確かに何もない質素で小さな事務所だが、こうもはっきり言われると少しだけムッとする。
「あと、あたしアクセサリーが欲しいの」
しかもアクセサリーのおねだりまで。
「アクセサリーにつきましては、契約後に発行されるカードで購入可能です」僕は淡々と言う。
「そういうことじゃないけど、まあいいや。とにかく面会の時はデートね」
会話が嚙み合っていない気がするが、契約にはさほど障りがないので無視する。
「承知いたしました。それではすべての契約内容に同意されますか?」
「うん、同意する」
「では、下にある署名欄にサインをお願いします」
真壁さんは無言で名前を書く。
「署名が終わりましたら、一度本を閉じ右手を本の上に乗せて5秒数えてください。その後再度本を開いてください」
真壁さんは怪訝な顔を見せるが、黙って僕の指示に従う。5秒待った後彼女が恐る恐る本を開くと、契約書のページに1枚のカードが現れた。番号や文字がない簡素で漆黒のそれはどこか不思議な雰囲気を漂わせる。
「すごい、マジック? しかもこれブラックカードじゃん」
真壁さんは嬉しそうにカードを手に取る。カードが黒いだけで世間で持てはやされるブラックカードとは違いますと説明を加えるも彼女は聞いていない。
「こちらが先ほどお話ししたカードです。使用方法等についてご質問がありましたらお知らせください」
彼女はカードに魅了され聞いていない様子だ。僕の声は空しく宙に消える。
「契約はこちらで以上になります。次回の面会は1か月後になります。同じ時間にこちらの事務所までお越しください。何かありましたら、僕にご連絡ください」
「わかった。ありがとう」
真壁さんは指輪と鮮やかなネイルで彩られた手を振り、嬉しそうに帰っていった。
「終わったみたいだね。何も問題はなかったかい?」
別室で待機していた柳澤さんが顔を出す。堀が深くはっきりとした顔立ち、笑うとできる目元の皺、白黒入り混じった髭は優しくも格式の高さを思わせる上品さがある。髭についた食べかすを除けば。スナックを食べていたらしい。
「不安になるほど何もありませんでした。あまり質問もされず、本当に契約内容を理解しているかどうかも怪しいです」
「まあ、こんな契約をしようなんて人は変わっている人が多いから仕方がないね。理解の有無に関しては売主の責任だから境くんは気にしなくてもいいよ」
僕の雇い主である
「境くんも慣れてきたね。スムーズに仕事をしてくれるし、君を雇って正解だったな」柳澤さんは僕の肩をポンと叩く。「これから面会でいろいろ彼女についての話を聞くことになるから、その都度記録を忘れないようにね」
柳澤さんの言う通り、契約は序盤に過ぎない。これから彼女の余命生活をこの本に記録するため、僕、
契約者、真壁加奈子。27歳、女性。この土地で生まれ育ち、市内の大学を卒業。現在は1人暮らしで、キャバクラで働き生計を立てている。
今回の契約で寿命を売った売主であり、1年後にこの世を去る人だ。
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