第22話サーシェスの命
サーシェスがユアと出会ったのは、裏路地で彼が大怪我を負って動けなくなっていたときだった。
正確に言うのならば、刺された傷にまともな処置をしなかったせい傷口が膿んでしまったのである。
清潔とは言えない布を巻いただけの手当てでは、危ないと最初から分かっていた。だが、裏路地には清潔な水も薬もなかった。
汚れていたとしても血止めの布があるだけマシだと考えて、サーシェスは迷わず使った。その後も包帯代わりの布は変えずにいたら、傷が膿んでしまったのだ。
高熱と痛みにサーシェスは呻いていたが、誰も彼のことを助けない。貧しい地域では、誰かに手を貸すような余裕はなかった。
サーシェスだって、今の自分と似た立場の人を何度も見捨てた。そこに罪悪感はなかった。むしろ、倒れている人々を嘲笑う気持ちすらあった。そこには、自分は「ああならない」という傲慢さがあったのだ。
だというのに、このざまである。
サーシェスのような死に様は、珍しくなかった。喧嘩っ早い男は、怪我が原因で死ぬことが多い。そして、女は性病で死んでいく。
表の社会と違って、裏の社会は過酷だ。寿命で死ぬことなどは許されず、皆が若くして死んでいく。
裏社会で死ぬのは自業自得だ、と表の人は言うかもしれない。
掃き溜めで生まれて、奪うことしか教わらなかったことも自業自得であるといえるのだろうか。
貴族やら王族に生まれていたら、自分だってまともな人生を歩めただろうとサーシェスは思うのだ。
全ては、死にかけの人間の妄想であるが。
「……この匂い。炊き出しか」
朦朧とする意識の中で貴族なんていけ好かない連中のことを考えたのは、この匂いのせいなのかもしれない。
慈善活動と銘打って、家畜の餌を与えるかのように食料を与える。炊き出しを食うのは金持ちに飼われるような気がして、サーシェスのプライドが許さなかった。
自分の食べ物は自分で調達して、自由な野良猫を気取っていた。
普段なら嫌っていた炊き出しなのに、今だけは無性に食べたくて仕方がなかった。きっと体が栄養を欲しているのだろ。死ぬ前なのに、人間の体というのは現金なものだ。
「死ぬ前に……スープが飲みてぇ」
万感の思いを込めて、サーシェスは呟く。これが最後の言葉ならば、なんと間抜けなことだろうか。
「同感」
聞き覚えのない少女の声が聞こえてきた。あの世からのお迎えだと思っていたら、「ちょっとゴメンね」と言って、体を弄られる。
死神は平助だなと思っていたら、横腹の膿んだ傷口を見つけられた。
「ひどい匂いがするわ。腐ったような匂いね」
死神の少女が、傷口に巻いていた布を取り去ると傷をまじまじと見つめた。普通の人間ならば、目を背けるような傷を死神は恐れない。
それどころか、サーシェスを助けようとしていたのだ。
「素人の手当だけど文句は言わないで。私は、あなたにスープを飲んでほしいだけの人間だから」
少女は、そのように語った。
傷口をいじられる痛みに男は飛び上がりそうになったが、少女を追い払おうとは思わなかった。
彼女が自分を助けようとしていることは分かっており、最後になるかもしれない賭け事に乗ってやろうと思ったのである。
少女を追い払っても、どうせ死ぬのである。
ならば、子供のお医者さんごっこに命をかけてみることも面白いではないかと思ったのだ。
少女は傷から丁寧に膿を取り除き、傷口を水で洗った。この時のサーシェスは知らなかったが、これは炊き出しに使われる水で裏路地には珍しい清潔なものだった。
「この薬って、聞くのかしら?ニキビ用なのだけども……。消毒になるのだから大丈夫よね」
怖いことを言いながら、ユアは傷口に薬を塗っていく。そして、最後に自分のスカートを引き裂いて包帯代わりにした。
「ごめんね。私は医者ではないの。だから、これぐらいしか出来ないわ」
上等な手当だった、と皮肉を言う気力はなかった。せっかく手当てしてくれたのに、自分には運がなかったらしい。
「あばよ」と格好をつけて、この世からおさらばする予定であった。
だが、死神の少女はスープにパンを浸して、男の口元に持って来たのである。美味そうな香りに、男の食欲が刺激された。思えば、自分は死ぬ前にスープが飲みたかったのだ。
スープをたっぷりと吸い込んだパンを一口だけ口に含む。乾いていた口に水分が徐々に戻って、生きているのだと実感できた。
懸命に飲み込めば、次のパンが差し出される。たっぷりとスープを吸ったパンは、この世のものとは思えないほどに美味そうな匂いがした。
「生き残るかどうかは、あなたの生命力次第よ。食べて。そして、これよりも美味しいものを食べるために生きて」
食い意地のはっている天使は、必死にサーシェスの口にパンを運び続けた。スープでヒタヒタになったパンの味は分からなかった。けれども、きっと美味いのだろう。
サーシェスに味覚がなかったのは、当たり前のことだ。このときのサーシェスは、高熱を出していたのだから。
「ほら、水も飲む」
無理やり水を飲ませられて、朦朧としていた意識が徐々にはっきりとしてきた。少女は死神ではなかった。
人間ではあったが、少女は炊き出しにやってくる名家の使用人たちとは明らかに違う。
幼すぎるし、着ているものも上等すぎる。まるで貴族だ。貴族の少女には、スカートの裾を裂いて包帯にするという豪胆さはないと思っていたのに。
「俺みたいのを助けて、どうするんだ。……これも、慈善活動なのかよ」
少女は「違う」と答えた。
「あなたが、スープを食べたいと言ったからよ」
意味がわからなかった。
こうやってサーシェスはユアに手当をされて、一命を取り留めた。命を捨てそびれたサーシェスは、それから炊き出しにマメに顔を出すようになった。
目的は食べ物ではない。
自分を助けた少女を探すためだった。その少女は、意外なほどに早く見つかった。
彼女は炊き出しで大人に混ざって、スープを配っている。やはり、使用人とは思えない格好をしていた。
「あら、あなたは?」
少女は、サーシェスのことを覚えていないようだった。それで良かった。
サーシェスは、生まれて初めての行動を取った。人の前で膝を折ったのだ。まるで、騎士のように。
「この命は、あんたに救われたもんだ。あんたが使え」
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