第18話 ユアの不安


 ドレスのサイズを合わせてもらいながら、ユアは馬車のなかでのことを思いだしていた。


 結婚前の令嬢が異性に抱きしめられるなど言語道断であるはずなのに、ユアには嫌悪感や気恥ずかしさはなかった。


 きっとイゼルが優しさからユアを抱きしめてくれたからであろう。悲しい記憶をなんてことのないような顔で語るユアに、イゼルが今は一人ではないと教えてくれたのだ。


「イゼル君は優しい……」


 アティカ王子は、決してユアを抱きしめてはくれなかった。それどころか、普通ではいられないユアを疎んでいた。


 一方で、イゼルはユアを受け入れて抱きしめてくれた。


「ふふ……。お嬢様、恋する乙女の顔をしていますよ」


 ドレスのサイズを合わせていた女性の職人は、楽しそうに笑った。サブリナ家の別館に来て、ユアのドレスの草案を出してくれた職人である。


「しばらく見ないうちに、顔色もすっかりよくなっていますし。やはり、新しい恋は失恋には特効薬ですわね」


 アティカ王子からされた婚約破棄は、そんなに堪えるようなことであっただろうかとユアは考える。大勢の観衆の前で大胆に婚約破棄をされたときは、なにかの冗談かと思っていた。


 前々からユアのことを気に入らないとは、アティカ王子本人から言われていたのだ。だから、これは嫌がらせの一部であろうと婚約破棄を軽く考えてしまっていた。


 事実なのだと気がついたのは、正式に婚約破棄の書類にサインをしたときだった。


 自分への嫌がらせのやけっぱちになっての婚約破棄ではなくて、カナリアという少女を本気で愛したからの婚約破棄であった。


 それと同時に、ユアという一人の人間を本気で拒絶した婚約破棄でもあった。


「私……アティカ王子が、あまり賢くないことにほっとしていたような女なの」


 ユアは、ぼそりと呟いた。


 それは、罪を告白するための言葉であった。


「あの人が政務に精を出さなかったり、あまり学校の成績がよろしくなくとも……私は咎めたりはしなかったわ。あの人が未完成であるだけ、支える自分の居場所があると思っていたから」


 たしかに、恋だった。


 けれども、不純な想いであった。


 ユアは、家族とは上手くいっていない。自分らしくあろうとするたびに、家族とは衝突してきた。


 そして、今回の婚約破棄が決定的な溝となってしまった。ユアが婚約破棄をされた傷も癒えぬうちにイゼルとの婚約の話がトントン話に進んだのは、面倒な娘を早く家から追い出すためであったのだろう。


「イゼル君は強いし、賢いわ。あの歳で自分のお父様のお手伝いをしているし、考え方もしなやか」


 ユアがイゼルの婚約者となるのは、周囲の思惑が強い。貴族の結婚は、そういうものだ。本人たちの意志とは、関係ないところで進められるものなのである。


 ユアは、他の男のお下がりである自分を娶ることになるイゼルを可愛そうだと思っていた。イゼルには、もっと相応しい人間がいたであろうと思ってしまうのだ。


 馬車で抱きしめられた体温が、ユアは忘れられない。未婚の女性と男性の許されない距離。


 その距離と体温に救われただなんて、ユアの口からはとてもではないが言えなかった。


「私なんかがいなくとも、イゼル君は一人で立派に歩いていける。だから、私は……彼の側に立つ意味がないかもしれない」


 アティカ王子と比べれば、イゼルはずっと優れている。真面目で誠実なことは、少ない付き合いでも分かった。一年分の給料を憐れな女のドレスに注ぎ込むだけの優しさまで持つ。


 だからこそ、ユアなどが妻として側にいなくとも良いと思うのだ。むしろ、常識外れな行動しかとれない自分はいない方が良いのではないかと思ってしまう。


 アティカ王子は、、ユアを嫌っていた。


 いつかはイゼルまでもが、自分を嫌うのではないかとユアは恐れてしまう。イゼルを信じるしかないと分かっていても心配になってしまうのだ。


 ユアの泣き言に、職人の女性の手は止まっていた。


「あの……イゼル様は、そんなご立派な方ではありませんよ。犬をよく見ようとして顔を近づけて、鼻を噛まれたりしていましたから」


 イゼルの間抜けな話に、ユアは目を点にした。


「イゼル様が小さな頃のお話なのですが、御屋敷で小型犬を飼っていたらしくて。甘やかされたせいで、噛み癖のあるワンちゃんだったらしんですよ。なのに、その犬に顔を近づけてガブリと」


 いくら子供の時の話とはいえ、間抜けな話である。


 ユアは、思わず笑ってしまった。あんなに優しくてしっかりしていたイゼルだとは思えない失敗談である。


「その傷も治らない内に服をしたてなければならなくなって、半泣きでウチの店に来ていたんですよ。怪我の理由を聞かれるのが、よっぽど嫌だったのでしょうね」


 笑いながら職人の女性は、幼く頃のイゼルの残念事件を次々と話す。


 家庭教師の授業中に船をこいで、ペンで危うく眼鏡を割りかけたこと。


 菓子を買いに行きたくて御屋敷を抜け出したのは良いが、屋敷の門を開けられなくて泣いていた所を保護されていたこと。


 どれもこれもが子供とはいえ、貴族の令息らしくない残念な事件ばかりだ。


「大きくなって少しは落ち着いたと思いましたけれども、三つ子の魂は百までと言いますからね。イゼル様は、未だにおっちょこちょいで可笑しな坊ちゃんなんです」


 女性の職人は目を細める。


 イゼルの幼少期を懐かしんでいるようであった。


「それは、今だって変わりませんよ。それに、女性のドレスに給料一年分をかけるという発想が考えたらずというか……。婚約式や結婚式の他の準備をするための資金は、どうするんだという話です」


 困ったものだ、とお針子の女性はため息をついた。


 庶民ならば、婚約式も結婚式も本人たちの財布から金が出ていく。


 しかし、貴族の結婚は家同士の決め事であるために、婚約式や結婚式の費用は家持ち——つまりは親の財布から出すのだ。


 庶民感覚の職人の女性から見れば、予算配分も考えずにドレスを贈ろうとしたイゼルの行動が未熟な恋に溺れた若者に見えたのだろう。金に糸目も付けずに貢ぐのは、駄目な男の見本のようなものだ。


「美徳に見えるようなところは、ひっくり返せば悪い点でもあるんです。でも、その悪いところを美徳と思われるならば、どうか坊ちゃんを支えてあげてください」


 職人の女性は、イゼルを幼い頃から知っている。故に、イゼルのところにしっかりしていそうなユアが来てくれて良かったと思っていた。


 むろん、彼女とて上流階級のドレスを作っている職人だ。


 ユアが、王子に婚約破棄された女性だとは知っている。だが、ユア本人を見ていれば、彼女が原因で婚約破棄がなされたようには思えなかった


 そしてなにより、高価なドレスをプレゼントされたことを当然とは思わずに遠慮していた。貴族の令嬢には珍しく、金銭感覚がまともであることに職人の女性は好感を抱いていたのである。


 イゼルはしっかりしているようで、少しばかり優しすぎる青年だ。ユアならば、その優しさの手綱を握ってくれることであろう。


「そうなんだ。イゼル君の隣にも……私の居場所はあったんだ」


 そう呟くユアは、どこか嬉しそうな顔をしていた。


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