第10話 知っておくべきこと
「ユア嬢に、ドレスを贈ったと聞いたぞ」
仕事場で父親に話しかけられて、イゼルは顔をしかめた。
職場の先輩であるユタヤは倒れてから、憐れなことにまだ復帰できていない。だが、職場にはまだ敏腕の先輩が四人も残っている。
彼らに、聞かれたいような話ではなかった。
だからと言って、職場において上司である父親を無下にも出来なかった。そのため、イゼルは「さっさと会話を終わらせてしまおう」と考えて、簡潔に答える。
「ユア様の様子から見て、十分な準備が出来ていないと判断したからです」
イゼルは手短に答えたが、父親のセシラムは心配そうだ。
自分の行動で何か不味いところはあっただろうかと考えて、イゼルはようやく一つのことに思い当たった。ユアの婚約式のドレスを作るために、一年分の給料をほとんど使ってしまったのである。
婚約式では、主に家——親が準備金を出すことになる。本当ならばイゼルのポケットマネーは痛まないので、人が見れば無駄な出費をしたように思われることだろう。
そうでなくとも一年分の給料の大半を一瞬で使ったたのだから、親としては心配になるはずだ。
いくら婚約者になる女性のためとはいえ、褒められるような金の使い方ではなかったかもしれない。そこだけは反省しなければならない、とイゼルは思った。
「こんな無茶な金の使い方は、もうしませんよ」
セシラムが心配を払拭できるように、イゼルは父の目を見て真っ直ぐに答えた。イゼルは、普段からは品行方正に過ごしてきたつもりだ。
若気の至りの失敗だって、これが初めてである。そのせいもあって、金の使い方についてセシラムは追及をしてこなかった。
イゼルだって、今回の金の使い方に思う所はないと言ったらウソになる。それでも、アティア王子とカリアナの言葉には、どうしても我慢がならなかったのだ。
アティカ王子たちに、ユアの容姿を馬鹿にされた。ユアは、たしかに絶世に美女ではない。けれどもにじみ出る英知と溌剌さは、他の女性にはない魅力であった。
そんなことも分からない二人に馬鹿にされる女性ではないと思ったからこそ、イゼルはこの世で一番の婚約者を見せつけてやりたいと思ってしまったのだ。
「それなら……いいが。あの手の女性は、貢いでも心は開かないぞ」
セシラムは、訳知り顔で言う。
セシラムとしては、親として女性とスマートに付き合う方法を伝授したいのかもしれない。けれども、どうにもイゼルは笑い流せない。
イゼルは、書類に目を落とす。上司である父に対してありえない態度であった。
ユアの何を知っているのか、と不満を言いそうになっている自分をいさめるために行動だ。イゼルの冷静な部分が、こんな嫉妬心にまみれたことを言えば揶揄われると判断を下したのである。
「自立していると言うか。芯があるというか。お前の母と同じタイプの人に違いないからな」
父の言葉に、イゼルは離れた領地で敏腕を振るっている母を思い出す。成長するほどに会う機会が減った母だが、昔から使用人や領民にびしばしと支持を飛ばす女傑だった。
母の若いことなどイゼルは知らないが、彼女の性分から言って淑やかな令嬢だったとは思えない。ユアよりも苛烈で、豪胆な人であったに違いない。
そんな母に政略結婚であっても惚れこんでいる父は——意外なほど自分と似ているのかもしれないとイゼルは思った。
セシラムは、急に声を落とした。
まるで、周囲に聞かせられない大事な話をするように。
「高価なものをプレゼントするほど本気なら、秘密のことは早々に話しておいた方がいい。気にするな。共通の秘密は、絆を深めるものだ」
そう言って、セシラムは自分の仕事場に戻っていった。息子を心配してくれるのはありがたいが、それよりも早く仕事を終わらせて欲しいとイゼルは考えてしまう。
そう思ってしまうのは、きっとこの職場に毒されてきたからかもしれない。情よりも何よりも仕事の能率を上げてくれと思ってしまうのだから。
「それにしても秘密ですか……」
イゼル嫌な顔をしながら、自分の長い髪を一房だけ掴む。度重なる職場で宿泊ののせいで、髪を洗うことすら出来ていない。
今のイゼルの髪は、若い油をまとってテカっている。それは、この場のいる全員が同じだ。
同じ穴の狢と言えば、まだ聞こえはいい。自分の身なりに気を遣う余裕がないという本音だ。
それに加えて、イゼルの髪には塗りむらのようなものが出来始めていた。これはイゼルが髪を染めていながら、ここ数日の手入れを疎かにしているからだ。
周囲は気がついているだろうが、先輩たちはイゼルが若者らしいお洒落から髪を染めていると勘違いしている。
「結婚するなら言っておくべき事ですよね」
イゼルの髪は黒いが、これは顔料を使って屋敷の使用人に染めてもらっているからだ。本来の色は、雪のような白。
イゼルには、生まれつき色素というものがほとんどない。
そのせいで瞳の色が赤くて視力が弱く、肌が不健康なほどに白い。太陽の光にも弱く、太陽の光を長時間浴びれば火傷のようになってしまう。おかげで日中の移動には、日傘と長そでが不可欠だ。
幼い頃の病弱さも色素が関係しているのかもしれないが、そこまでのことは医者であっても分からないそうだ。そもそも男の子は、小さな頃は女の子よりも体が弱いのが普通らしい。
しかし、今のイゼルは健康だ。
過酷な職場にだって耐えられるし、乗馬も剣術も人並には嗜んでいる。視力が悪いのはどうしようもないが、分厚い眼鏡を使うことで日常生活は送れていた。
夫として、当主として、役割をこなす事に問題はない。そのようにイゼルは思っていたが、夫婦になるのならば髪色のことは話さなければならないだろうと思った。
色素のある両親から自分が産まれたのだから、自分の体質が子に引き継がれることをイゼルはさほど心配はしていない。一族の中で白いのは、きっと自分で終わりだろうという予感があったのだ。
だが、ユアは違うかもしれない。
自分の子が白く生まれるかもしれないと言って、イゼルの事を厭うかもしれない。
卑怯なことだが、ユアに自分の秘密を話すことが気乗りしなかった。
幼い頃は髪が白いせいで、一部の使用人に遠巻きにされていた時期があったのだ。そんな使用人たちは解雇されたが、今でも邪険にされた記憶は残っている。
自分を髪色で嫌う人間は一部だと両親たちは教えてくれたが、それでも染めることを止められないのは他人の目が怖いからだ。
「ユア様は……容姿を気にするような人ではないでしょうが」
ユアが、自分のことを髪色程度で嫌うだなんて思わない。ユアは毅然として公正な人間のはずだ。髪の色より、イゼルの中身を見てくれるはずである。
だが——もしも、髪の色が原因でユアに拒絶されたら思うと怖くてたまらないのだ。
「それでも、私たちは夫婦になる」
ユアの心は、アティカ王子にある。
しかし、ユアとアティカ王子が再び結ばれることはない。ユアとイゼルが結婚するのは決定事項で、それは二人の感情では決められない領分の話になってしまっている。
イゼルは、このままいけば初恋の人と夫婦になれるのである。
ユアの心がいくらアティカ王子の元にあろうとも、一緒に暮らす内に暖かな情だって生まれるかもしれない。
それは、恋のような激しさではない。しかし、ぬるま湯のような愛が無価値というわけではないだろう。絶対に。
だが、それを掴むためにはイゼル自身が、ユアに誠実でなければならない。自分の髪色という大きな秘密を打ち明けなければならなかった。
「イゼル君は、仕事中かな?」
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