第7話 聞きたくない王子の自慢話
昼食の時間を過ぎて、イゼルはようやくアティカ王子の元に足を運んだ。
ちなみに、時間だけは午後を回っているが、イゼルは昼食を食べていない。食べるような時間の余裕がなかったのである。
アティカ王子の元に滞在する時間まで考えれば、今日の昼食はお預けかもしれない。
仕事部屋に帰れば、イゼルの帰りを大量の書類が待ち構えている。今日は職場に泊まる事になりそうだ。
今度からは、イゼルも仕事部屋に布団を持ち込むことにした。本当はベッドで寝たいが、冷たい床で寝ると思えば贅沢は言えない。
王宮は石造りであるために、常にひんやりとしているのである。床に何かを敷かなければ背中が痛くなるし、冷たくて寝るところではないだろう。
食事に関しては、屋敷の使用人に城まで簡単に食べれるものを運んでもらうことにする。
イゼルは、貴族で良かったと初めて自分の身分に感謝した。庶民であったら、使用人に何かを頼むことなど出来なかったであろう。
普通の貴族ならば床で寝ることもないのだ、とイゼルはようやく思いつく。どこまでも仕事場に毒されてそまっているイゼルである。
「失礼します」
イゼルはドアを叩いて、王子の執務室に入った。部屋の中にいたのは、ご機嫌なアティカ王子である。今にも鼻歌でも歌いそうなほどだ。
「やぁ、イゼル。元気だったか?」
ほとんど面識もないのに、まるで既知の間柄のような挨拶をされる。イゼルは「おかげさまで」と返した。「おかげさまで、激務です」という意味だったが、アティカ王子は満足そうだ。
それにしても居心地の良さそうな部屋だ、とイゼルは密やかに思う。
曲がりなくとも王族の仕事部屋だ。どれの品の良い調度品で整えられている。贅を凝らしてはいるが、決して下品にはならない家具たちも素晴らしい。
名匠が作り出したと思われる椅子に足を組んで座っていたアティカ王子は、実に楽しそうにイゼルを眺めていた。
アティカの机には書類が置かれていたが、その少なさにはイゼルさえも嫉妬を覚える。
たった数枚のみの書類だ。
これから運び込まれるとしても、書類の束が頭まで積み上がる事はないであろう。イゼルは、自分の仕事を半分ほど分けて差し上げたい気分であった。
しかも、書類に書かれている文字数は少ないようだ。
簡単な仕事内容の書類しか回されていないということは、相変わらず事務仕事は苦手なのかとイゼルは考える。
イゼルが修行している期間でさえ、アティカ王子の書類嫌いは有名だった。一部の書類はユアが肩代わりしていたというのも有名な話である。
だからといって、アティカ王子は剣技や勉学に力を入れているわけでもない。
学生時代は、学園での勉強が本分だったから許されたかもしれない。しかし、今後は苦労することになるであろうとイゼルは考える。なにせ、もうユアはいないのだから。
もっとも、王族としての今後があればの話だが。
「ところで、本日はどのようなご要件でしょうか?」
「急ぐな」とばかりに、アティカ王子はイゼルにソファーを進める。アティカ王子は、すでに座っていた。王子の命令に逆らうことは出来ない。
仕事があるのにと思いながら、イゼルはソファーに座る。ここで寝れそうなぐらいに、ふかふかであった。簡易ベット代わりに仕事場に置いて欲しいぐらいだ。
「ユアとは、もう顔合わせをしたのだろう。先ぶれもなく、お前の館に乗り込んできたと聞いたぞ。相変わらず、貴族の常識に疎い奴だ」
お前も大変だろうと言いながらも、アティカ王子の顔にはにやにやした笑みが張り付いていた。いやらしい笑みだ。とてもではないが、品の良い笑みとは言えない。
イゼルがユアの押し付けらえたと考えているから、面白がっているのだろう。実の所、イゼルが内心では跳び上がって喜んでいるなど思いもしていない顔だ。なにせ、初恋が叶ったのだから。
しかし、ここで何かを言ったら面倒なことになりそうだ。そう思ったので、イゼルは黙ったままでアティカ王子の話に聞き入るふりをした。
アティカ王子は、新しい婚約者について誇らしげに色々と話してくれる。目を開いたままで寝る術を身につけていたら、きっと寝ていただろう。それぐらいに話は長かった。
恐らくだが、アティカ王子には自慢話を出来るような相手がイゼルぐらいしかいないのであろう。
突然のユアとの婚約破棄で、アティカ王子に味方したがる有力な貴族はいなくなったはずだ。
となれば、アティカ王子のイエスマンだった取り巻きも潮が引いたようにいなくなったに違いない。それぐらいに、アティカ王子の今後には期待がされていない。
友人まで消え去ったのは薄情なようだが、これが政治だ。皆が出世ために必死なのである。
「その点、カリアナは弁えた女だからな。三歩下がって俺の後ろを歩いて、口答えもしない。ユアは、俺にあれこれしろと言ってばかり煩い女だったからな」
それは、ユアが確固たる意志と目標をもった女性だからだ。だからこそ、三歩下がって歩くことは出来ない。それどころか、歩くべき道を先導してくれる女性だ。
この国の住民に清潔な食卓を届けるという夢を叶えるために、ユアは一生懸命なのである。その意志の力は、目を見張るものがある。
一方で、アティカ王子は何も考えずに生活していたのだろう。学生という身分に胡坐をかいて、怠惰な毎日を過ごしていたに違いない。
そうでなければ、自分の責任を放棄して感情だけで婚約者を替えるような事はしないであろう。
「アティカ様!」
ノックもなしにアティカ王子の部屋に入ってきたのは、カリアナであった。
卒業パーティーほどではないが、今日も華やかなドレスを身にまとっている。そのドレスの贅沢さは、男爵家の娘が普段着扱いするような品ではない。
絹地と絹糸を贅沢に使った刺繍の見事さは、王族主催のパーティーにだって参加できそうなほどの豪華さだったのだ。
そして、胸元には大きな真珠の首飾り。
これも一般的な男爵家でしかないカリアナの実家が買うには、立派すぎる品である。
白い真珠は純潔さを表すために、若い女性に人気の宝石である。しかし、大きすぎる真珠はてらてらと輝いてイゼルには下品に思えた。
この真珠の首飾りとドレスは、アティカ王子が買い与えたものであろう。カリアナがねだったどうかまでは分からないが、趣味が悪いことは確かだ。いいや、もっと正確にいうのならば場にそぐわないのだ。
大きければ宝石はそれだけ良い、とカリアナは思っているのだろう。式典などでは派手なアクセサリーも遠目で目立って良いものだが、日常使いをするには派手すぎるのである。
「礼儀作法の先生が意地悪するのよ。ひどいんだから」
カリアナは甘えるよう声で、アティカにしだれかかる。
カリアナはまだ学生のはずだ。しかし、王城にいるということは、王族の伴侶としての最低限の礼儀を叩き込まれているところなのだろう。
王としては、アティカ王子とカリアナの結婚を一年後当たりにと考えているのかもしれない。これ以上の騒ぎが起こる前に、アティカ王子の身を固めてしまえと思っている可能性が高い。
だとすれば、結婚式がイゼルたちのものと被る可能性がある。嫌なバッテングだ。
結婚式までの猶予が一年だと予測したのは、カリアナの学園卒業を待つとイゼルが考えたからだ。学園卒業をしなければ、成人とは認められない。いくら王子であっても、未成年との結婚は不可能である。
それにしても、一年で礼儀作法や知識を叩き込むなど王も酷なことを考えるものだ。そのように、イゼルは思った。
王族の一員ともなれば、外国の来賓を持て成すことも多い。故に、カリアナには徹底的に礼儀作法を叩き込まれているに違いない。
追随する形で、座学の方も進められているのであろう。王族としての必要な知識は、学園のものでは足りなかったりする。
ユアが小まめに登城していたのも、そのような事を学ぶためである。学園で学ぶものよりも細かく、実践的な学習が必要であるのだ。
「あら、お客様がいたの?」
カリアナは、可愛らしく小首を傾げる。
そのように無邪気な姿に、イゼルは子犬のようだという感想を抱いた。
庇護欲を掻き立てられる、と言えばいいのだろうか。自立したユアとは、正反対のタイプの女性であることは間違いはない。
しばらくして、カリアナは思い出したとばかりに手を叩いた。
「イゼル様ですね。ユアっていう凡庸な容姿で意地悪な女と婚約することになった。卒業パーティーでは、あんな女に告白をするから私もビックリしてしまいました」
イゼルは、顔をしかめる。
ユアは公爵家で、カリアナは男爵家だ。二人の身分には広くて大きすぎる差があるというのに、カリアナはユアを呼び捨てにしていた。
貴族社会では、まず許されないことである。
ありえないことだが、カリアナの家は娘に基本的なことさえも教えていないのかと疑ってしまう。
カリアナが正式なアティカ王子の婚約者になれば呼び捨ても許されるかもしれないが、それだって淑女に相応しい礼儀とは言えない。「嬢」あるいは「様」を付けて、敬って呼ぶべきである。
「カリアナ嬢。ユア嬢は公爵家のご令嬢です。我々三人しかいない場とは言え、わきまえてください」
我慢できなくなって、そのようにイゼルは指摘した。出来る限り柔らかく丁寧に指摘したつもりであったが、カリアナは子供っぽく頬を膨らませる。
「だって、一ヶ月後にはカリアナはアティカ王子の婚約者になるんですよ。意地悪ユアよりも偉くなるんだから、見逃してくださいよ」
一ヶ月後という言葉に、イゼルは引っかかりを覚えた。自分たちの婚約式と同じである。
結婚式は、婚約式から最低でも一年は開けるものだ。だから、二組の婚約式が重なることは不思議ではない。二組とも親が早く結婚させたい事情がある。
「カリアナは、アティカ王子に素晴らしいドレスを作ってもらうんです。是非とも、イゼル様も参加してください」
どうやら、イゼルたちとカリアナたちの婚約式の時期が重なったのは偶然ではなさそうだ。
カリアナの勝ち誇った顔を見るに、ユアよりも派手な婚約式でもやって鼻をあかしたいとい所なのだろう。
婚約破棄の場面は、ユアの反応のせいで一時は喜劇の様相を呈してしまった。あの時の仕返しとして、自分の派手な婚約式を見せつけてやりたいと思っているに違いない。
あるいは、人々に豪華さを比べられて勝ち誇りたいのか。カリアナの真意はなんであれ、あまり趣味がよい復讐方法ではないだろう。陰湿だといえる。
「そうだった。ユアの話をしていたんだったな。私のお下がりの面倒を見てくれて、イゼルに礼を言うつもりだったんだ」
アティカの言葉は、イゼルとユアを馬鹿にするものであった。けれども、イゼルが言い返さない。
幸せの絶頂にいると勘違いしているアティカ王子に、イゼルは憐れみを覚えていたのである。
ユアの素晴らしいところに気づかず、アティカ王子は浪費ばかりをしているカリアナに心酔している。
アティカ王子の立場はユアとの婚約破棄のせいで、今や断崖絶壁の立たされているような状態だというのに。
「あの告白は本心ではないのだろう。不本意な結婚をさせてしまう詫びに、美しい御婦人を紹介させてくれ。あんな地味な容姿の女だ。すぐにでも愛人は必要だろう?」
信じられないアティカ王子の言葉に、イゼルは目を見開く。そして、すぐに困ったかのような笑みを浮かべた。無論、作り笑いだ。
婚約式を控えた男に愛人を紹介するなど正気の沙汰ではない。アティカ王子は、イゼルを愛人に夢中にさせてユアを惨めにさせたいのだろう。
アティカ王子も、卒業パーティーのときのユアの態度が気に入らなかったらしい。あるいは、人前で自分との婚約破棄を思いっきり嘆いて欲しかったのか。
だからといって、イゼルを呼び出してまで元婚約者に嫌がらせをするなど子供だって考えないだろう。カリアナの登場だって自分たちの仲をイゼルに見せつけて、それがユアに伝わることを望んでいるに違いない。
その嫌がらせに使う脳みそを書類に仕え、とイゼルは言いそうになる。不敬になるので、寸前のところで言葉は飲み込んだが。
「アティカ王子。私のことを色々と考えてくださり、ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません」
イゼルは、自分でも業とらしいと思えるほどの笑顔を浮かべた。
「私は、素晴らしい婚約者を愛しているので」
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