第6話 仕事の闇
父の元で仕事をするイゼルの一日は、とても忙しい。
今までも仕事は手伝っていたが、学生と言う身分故に量は手加減されていた。
ところが、卒業した途端に「今日は帰れるだろうか」という量の仕事が与えられたのだ。
自分の目線の高さほどに積み上がった書類の山に、イゼルは無言になった。
書類の山は絶妙なバランスを取ってそびえ立っており、山を作った人間の熟練の技すら感じた。現実逃避をする自分に気がついて、イゼルは苦笑いをする。
宰相のレシラムは常に仕事に追われているが、一人で全ての事をこなしている訳ではない。優秀で信頼のおける部下にも、きちんと仕事を割り振っている。そう「きちん」と割り振っているのだ。
そんなセシラムの右腕と言ってもいい敏腕の部下たちは、整理整頓された小さな仕事部屋に押し込められていた。機密文章を扱うこともあるので、風で書類が飛ばされないように窓の一つもない。空気の入れ替えができないという地味に過酷な環境だ。
そんな部屋の空間を奪い合うかのように、セシラムの部下各人のデスクが置かれている。イゼルを含めて、この部屋には六人の役人がいた。
彼らが、宰相であるイゼルの父の仕事を助けている役割を担っているのだ。
彼らのデスクには、分け隔てなく大量の書類が積み上がっている。
酷いものになれば書類に埋もれて頭が見えないほどであった。イゼルに渡された仕事の量は、それには及ばない。
及ばないが、新人に任せるには多すぎる量だ。一年の修行期間で、イゼルの仕事ぶりが評価されたということだろう。しかし、これは嬉しくない。
この仕事量は冗談だろうかと職場の先輩の目を見れば「ようこそ、地獄の向こう側へ」と謎の歓迎をされた。その目は血走っていて、一日では済まない徹夜の後が見受けられる。
「先輩、身体を壊しますよ。帰って寝てください」
イゼルも人の事を言えないが、先輩の役人は自分以上の不健康さだ。いや、あきらかな睡眠不足である。
「やだなー。しっかり、寝ているよ。ほら、そこが僕のベッド」
そう言って先輩役人が指さしたのは、床に敷かれた布だった。王城で働くほどの役人ならば、彼も貴族のはずである。
家に帰れば暖かな食事とベッドが用意されているというのに、今日も昨日も床で寝ていると思うと涙を禁じ得ない。
イゼルと親しく話す先輩は、ユタヤという名であった。
実家の階級は知らない。この職場では、身分よりも勤続年数と優秀さがものをいう。
ユタヤ先輩は、先輩たちのなかでは一番優しい先輩である。仕事は出来るが優しすぎるのが玉に傷で、学生時代の自分の仕事量を加減していてくれたのは彼であろうとイゼルは感じていた。
それに甘えていた自分が今となっては情けないが、当時のイゼルだって与えられた仕事量をこなす事だけで精一杯だったのだ。とてもではないが、親切の源流を察する余裕などなかった。
「ああ、それと君はアティカ王子に呼び出されているよ。午後になったら来るようにだって」
ユタヤ先輩の言葉に、ユアは思わず嫌な顔をしてしまった。
これでは不敬なると思って、急いでにこやかな表情を作る。それを見たユタヤ先輩は「うふふ」と笑ってから、「この部屋では無理して表情を作らなくていいよ」と言ってくれた。
「そのうちに、そんなことも出来なくなるから」と怖いことも言われたが。
宰相である父の仕事を手伝っているせいもあって、アティカ王子とはいくらかの面識がある。だが、呼び出されるほどの仲ではない。
学園通っていたときでも、アティカ王子は遠巻きで見ているだけの存在だった。アティカ王子の側に侍っているのは、彼を肯定してくれる人物ばかり。それ以外の人間は、それとなく排除されていった。
そんな学生時代だったから、呼び出しの理由は推察できる。十中八九、ユア関連のことであろう。それ以外のことは、イゼルは、考えつかない。
「ところでさ。アティカ王子と女の子を取り合ったって本当なの?」
ユタヤ先輩が、声を潜めて尋ねて来る。
答える必要がないと邪険にするには、先輩の姿は憐れすぎた。目の下の濃すぎるクマが、本当に可哀想なのだ。下世話な話は、この先輩の働く糧になるのかもしれない。
ならば、協力しなければならない。ユタヤ先輩には、学生だったイゼルの仕事量を手加減してくれたという返しきれないほどの恩があるのだ。
「……取り合ってはいませんよ。ただし、私は勝ち組です」
といっても、直接的なことを言う事はできない。そんな事をすれば、卒業パーティーのことも詳しく話すことになる。アティカ王子が、一方的に婚約破棄をしたことも話さなければならなくなる。
どんなに男として酷いことをアティカ王子がしたのかを話したかったが、それはぐっと我慢した。未だに、イゼルはアティカ王子のことを許してはいない。
イゼルの話を聞いたユタヤ先輩は、口笛を吹いた。そして「やるなぁ!」と言って、手加減を知らない力でイゼルの背中を叩いた。
とても、痛かった。
だが、先輩なりの祝福なのであろう。
「さて……仕事を始めますか」
ユタヤ先輩は、気分を切り替えて自分の机に向き合う。その顔には笑みが浮かんでいる。先輩の気分転換が出来て良かった、とイゼルは思った。
その後のユタヤ先輩は、午後になる前に倒れた。自分の屋敷に運ばれていくユタヤ先輩は、どこまでも憐れだ。
色々と限界であったらしい。
それから、ユタヤ先輩は一か月以上の休養を医者から言い渡されたと聞いた。一か月も寝込むのに仕事は辞めさせてもらえない事に、イゼルは仕事の闇を感じるのであった。
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