第5話 初恋と貧しい食事
ユアを見送ったイゼルは、少しばかり後悔をしていた。
なにを後悔しているかと言えば、まるで自分がユアのことを全て分かっているかのようなことを言ったことだ。
あれでは、ユアをずっと見ていたと言ったようなものではないか。自分の初恋が、バレてはいないだろうか。
「愛に狂うには大切なものを多すぎるだなんて……。まるで、何年も前から彼女を知っていると言っているようではありませんか。これは、大きな失態です。反省しなければ」
ユアとイゼルは、学園では同級生だった。
イゼルが学校に通わなかった最後の一年間であっても、王城のなかで何度か顔を会わせたことがある。ユアは王妃教育を受けるために城に通っていたし、イゼルも父から仕事を習うために城に足を運んでいたからだ。
顔見知りぐらいの関係であるとイゼルは、ユアとの関係を断言できる。名前程度は知っているが、喋ったことは稀。こんなことにならなければ、そのような関係が一生続いたことだろう。
いや、ユアが王妃になれば、そんな関係性でさえも消え去ったに違いない。ユアは、それぐらい雲の上の存在になるはずだった。
それでもイゼルがユアの人となりを知っていたのは、幼い頃に二人が出会っていたからだ。
イゼルの母が、まだ領地ではなく王都で暮らしていた頃の話である。
イゼルが、八歳の頃の話だ。
婦人たちが企画した貧困者に食事を配るという奉仕活動に、イゼルは母と共に参加していた。
ほとんどの婦人たちが金だけをだす奉仕活動であったが、社会勉強のためにイゼルは父に参加を言い渡されたのである。母親は、その付き添いだ。
薄汚れて痩せこけた人々がありがたがってスープとパンをもらいに並んでいた光景は、今でもよく覚えている。
イゼルが住まう国は、それなりに富んでいる。それでも食うに困らない者がいないというわけではなかった。
市民の中には体を壊して働けなくなり、貧困から抜け出せなくなってしまった人間も多い。
あるいは年老いて働けなくなった者が、家族に見放されて物乞いになるという事もあった。私生児として望まれず生まれて、路地裏に捨てられた子供たちだっている。
そういう人間は日々の生活さえも立ち行かなくなり、服の替えすらもないので酷い臭いを発している。
そして、貧民街には清潔な水さえも貴重品だ。身体を拭くこともない彼らは、口の中の清潔すら気にしない。おかげで、大抵の者は喋るだけで強烈な悪臭がする。
その匂いとスープの匂いが混ざり合って、思わず吐き気を催すような臭いが発生していた。
イゼルは、顔をしかめていた。
公爵家の人間として生まれたイゼルは、清潔なものしか知らない。風呂に入ることは当たり前で、歯磨きも毎日しっかりと行っていた。手を洗うことだって、当たり前の習慣として身についている。
それが故に、イゼルには薄汚れた貧困層の人間が必要以上に汚れて見えたのであった。
このような臭いのなかで食事を取れる気が知れない。そう思っていた所に、幼い頃のユアがいたのだ。
ユアも母親同伴で奉仕活動に同伴した口であったらしい。幼いながらに貧困者のためにスープをよそい、パンを手渡す。
その姿は、奉仕活動に一生懸命な模範的な子供であった。
一方で、ユアの母親は娘の行いを信じられないような目で見つめている。彼女は貧困者には絶対に近づこうとはせずに、彼らに優しくする我が子を軽蔑するような目で見ていた。
イゼルは、ユアのことを真面目な子だと思った。
貧しい者には親切にすること。
そんなことを大人に言われて、彼女は熱心に守っていると思ったのだ。
イゼルがユアに抱いた感想はその程度であり、その時はユアにさほど興味を持たなかった。それどころか、彼女がアティカ王子の婚約者であることも知らなかった。
けれども、数十分後にはイゼルのなかでユアの印象は変わったのであった。
休憩時間になったこともあり、貧困者に食事を配っていた者たち——主に名家の使用人たち——も食事を取り始めた。彼らも酷い臭いのなかで薄いスープと固いパンを食べていたので、イゼルは辟易した。
こんなところで自分は食事をしたくなかったし、イゼルの母親も同意見で息子に食事を勧めるようなことは全くなかった。
もう帰ろう。
帰って清潔な食卓で昼餉にしよう。
そんなことをイゼルが母親に強請っていたら、再びユアの姿が目に止まった。
ユアは、あろうことか使用人たちに混ざって美味そうにスープとパンを食べていたのである。周囲の悪臭も悪辣な環境も気にしているようすはなく、地面に座って食事することにさえも抵抗はないようだった。
それどころか奉仕活動の際にスープにありつけなかった子供に、自分の分の食事を分け与えて一緒に食べたりしていた。
信じられない光景に、イゼルと母親は唖然としてしまった。自分たちだったら絶対にできないし、したくはない行動であったからである。
淑女らしくない態度にユアの母親らしき人は彼女を叱っていたが、ユアはどこ吹く風だ。母親に反論し、使用人や貧困者と共に食事をする。イゼルは、彼女の豪胆さに目を離せなくなったのである。
「こんなところで、良く食事なんて出来ますね」
イゼルは勇気を出して、風変わりすぎる令嬢に話しかけた。
ユアは、とびきりの美人というわけではなかった。ありふれた容姿をしていて、埋没してしまいそうな凡庸な顔立ちをしていた。けれども、その精神は稀な輝きを放っていた。
ユアは、行事悪くスプーンを一舐めして答える。
「この味が、この国の実情よ。こんな悪条件な場所で食事をする人間がいるってことを私たちは知らなければならないわ」
ユアは、大人のような言葉を言った。
それは、まるでセシラムが息子のイゼルに言い聞かせるような言葉だった。
「聞きなさい。私が王妃になったら、この国の住民全員に清潔な場所で食事をさせるわ!」
ユアの発言に、イゼルは目を点にした。
それと同時に、目の前のユアが王子の婚約者であったことを知る。
咄嗟に、教えてもらったばかりの最敬礼をとって、改めてユアの姿を見る。
ユアは、ごくごく普通の女の子だった。顔立ちも普通で、髪や目も黒くて目立つようなものではない。
それでも、輝く瞳は強気な性格が伺われる。
世の中の当たり前に流されてたまるか。
男ですら持ち合わせる者は少ない気概が、小さな女の子のなかに潜んでいたのである。
「あなたは、アティカ王子の婚約者だったのですね。あの……王妃は王を支えるべき、存在で……」
イゼルは、言いよどんだ。
目の前の女の子が、アティカ王子の婚約者だとは信じられなかったのである。何故ならば、ユアの姿は理想的な淑女にしてはたくましすぎた。
女性は、陰に隠れるべき存在である。
影で夫を支える事こそが、最大の使命である。それが良き妻の姿であり、理想の女性像であると言われていた。
だが、ユアの言い方では己が政治を動かすとも取られかねない。
「王妃は、王に一番近くで進言できるのよ。だとしたら、何をしたいのかを考えていないともったいないでしょう。私は食べる事と作る事が大好きだから、その幸せを国民全員に与えたいのよ」
自分の幸せを押し付けたいだけ、とユアは笑った。その笑顔は、実に晴れやかなものだった。
「貧しい人を救う方法なんて、今は分からないわ。大人になっても分からないかもしれない。けれども、それを行える人を探すことは出来るかもしれない。あるいは、その人を助けることが出来るかもしれないでしょう」
だから、私は食べるの。
「この味が、現実。この匂いが、今よ」
嬉々として夢を語るユアであったが、食事を終える前に拳骨が飛んできた。彼女の母親が、ユアの頭を殴ったのである。
「ユア!あれほど、食べるんじゃないって言ったでしょう。まったく、目を離すといつもこうなのだから」
ユアの母親は、ぶつぶつと文句を言いながら彼女を連れて行ってしまう。残されたイゼルは呆然としながら、ユアが言った言葉を思い返していた。
「この味が、現実。この匂いが、今……」
イゼルは、父が自分に奉仕活動の見学を言い渡した理由を理解した。それと同時に、ユアが王妃になったときに自分が臣下になれるかもしれないことを嬉しく思った。
彼女のために、あらゆることを学ぼうと思えるほどに。
「いつか……私は」
ユアが助けになりたい、と思うような人材になりたい。
イゼルに初めて夢が出来て、憧れの人が出来た。
イゼルは、それこそが初恋であったと思っている。
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