8.想定外のアクシデント!

 「うっわぁ……」


 パドックに詰めかけた観衆の数に光希が声を上げる。軽く咳払いをして注意を促したが、実際オレも少しだけ感嘆の声をあげそうになった。オレや光希が普段見ている光景とはあまりにも違って見えたからだ。



 3月に入っていよいよ春競馬も始まった中山競馬場、それも重賞ともなると競馬場自体の来場者数も1万人近い規模になる。となればパドックに来てこれから走る馬を間近で見ようという人の数も見渡しただけで数百人はいる感じだ。


 競馬のメインである東京や中山競馬場でも人の少ないシーズンだったり、メイン以外のローカル競馬場だったりの、しかもメインレースまで時間のある午前の早いレース、つまり――――


 オレや光希、『その他のメインレースには出られないような騎手』しか殆ど乗っていないようなレースでは、一部の『カメラを構えた愛好家』や『いかにも博打打ちといった感じの中年や老人』が数えるほどしか見に来ていないのに比べたらとんでもない風景だった。


 

 ゼッケンの番号と名前から今日跨る馬に近付き、手綱を引いていた担当厩務員さんから馬に跨らせてもらって輪乗りに加わる。担当厩務員は千葉 雄作ちば ゆうさくさんという30代半ばのがっしりした人だ。何でもトゥルーロマンスを管理していた厩舎が解散して転厩になった時、馬と一緒に福山厩舎へ厩舎スタッフとして付いてきたのだという。福山調教師は他の調教師や馬主との挨拶から抜け出せないのか、直接の指示は貰える感じではない。


「あの、千葉さん。この馬の情報とか今日の作戦とか……」

「あとで返し馬の前に伝える。今はちょっと集中して歩かせてくれ。コイツの戦績とか脚質は?」

「あぁそれはアタマ入ってます。レースは全部見たので」

「そうか。じゃそれ以外は後だ」


 ぶっきらぼうとも取れる感じの千葉さんと話して、とりあえずは輪乗りに集中する。


 今回跨るトゥルーロマンスは4歳の牝馬、昨年の牝馬クラシックを川原さんと闘った馬だ。牝馬にしては長距離のオークス2400mとエリザベス女王杯2200mでは掲示板(5着以内)を外してはいるが、1600m~2000mでは桜花賞おうかしょう2着・秋華賞しゅうかしょう3着・秋華賞トライアルの紫苑しおんステークス優勝と、ある程度の結果を出している。闘志をむき出しにした走りが印象的な馬だったハズだ。

 

 だが今跨ってる感覚からは覇気のようなものは全く感じられず、そわそわと落ち着かない感じでキョロキョロとしたり、他の馬の挙動にいちいち気を取られているような感じがする。おかしいな、こんな姿は見た覚えがないけど。


「なぁ、あの加賀ってヤツ知ってる?」

「ん~まぁ知ってるっちゃ知ってるけど……川原じゃない時点で消しだな」

「あ~やっぱそうだよな」


 パドックで買う馬を相談し合ってる奴からはそんな言葉が聞こえてる。多分だけど、ここに居るほとんどの奴がそう思ってるんだろう。実際、乗り替わりがアナウンスされる前までは3番人気だったオッズが5番人気まで落ちている。


 一方でチラッと斜め前を見やると、光希の馬自体は堂々とした動きでしっかりパドックを周回しているのに、肝心の騎手の方はキョロキョロと落ち着きがない様子だ。


 光希の乗るレイカプリンシパルは去年の牝馬クラシックを全て3着以内に入り、このレースと同じ1800mの秋華賞トライアル・ローズステークスも優勝している。いかにも今日の主役であることが分かっているかのような雰囲気の馬と、その状況についていけないといった感じの騎手。これでホントに大丈夫なのか??


 やがてパドックでの輪乗りが終わり、関係者以外は入れない地下馬道の方まで来ると、担当厩務員の千葉さんは話しづらそうに口を開いた。



「すまん、数日前からなんだが……フケ(発情期)だと思う」

「えっ!? でも去年のこの時期は……」

「ああ、去年は何とも無かったんだがな」


 牝馬は春になると繁殖のための生理現象として、発情期が一定の周期で訪れるらしく、数か月間は21日おきに1回・数日間のタイミングでその兆候が現れ、その間は落ち着きが無くなるのだ。


 ある程度競走馬として年数を重ねた馬ならば、それを考慮してレース間隔を空けるのだろう。だが、去年までその兆候が全く無かった馬なのに今年になって……となれば考慮のしようも無いし、数日後に控えたレースを棒に振るわけにもいかない。ましてや厩舎立ち上げすぐのタイミングだ、どうしたって文句は言えるわけがない。


「……わかりました。もし惨敗ざんぱいしても僕が責任を」

「責任はこんな状況でレースに送り出した俺が取る。だからお前は試せるだけのことを試せ」


 てっきり『急な乗り替わりだし、無名だから仕方ない』と責任を押し付けられるものだと思っていたので驚いて千葉さんの方を見ると、曳き手綱をしっかりと抑えながらこちらをまっすぐに見据えていた。


「レースになればいつもみたいに闘志の入るスイッチがきっと何処かにあるはずだ。それをうまく引き出してレースで爆発させられるのは……俺達厩舎スタッフじゃなくて、乗り役にしかできない役割だと思ってる。信じてるからな」


 そう言って本馬場に入る手前で手綱を解いて送り出してくれた千葉さんに一礼して馬を前に進める。


 解決策は全然分からないけど、信じると言ってもらえたからには期待に応えないといけない。久しぶりに感じるその感覚で、胸が熱くなった。


__________________

競馬マメ知識

 牝馬クラシックとは牝馬(メス馬)が3歳の時にのみ挑戦できる芝のG1レースで、4月の桜花賞・阪神1600m、5月のオークス(優駿牝馬)ステークス・東京芝2400m、秋の秋華賞・京都2000mで行われるレースの事を指します。


 その他競馬用語で分からない事などあれば随時説明を足しますのでコメントをください。

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