第26話


「佐久夜お姉さま」 

 黒い塊が自分に向かって走ってきたかと思うと、佐久夜を逃さないように抱きつかれてしまう。佐久夜が呼び鈴を鳴らしたことが分かったので、烏森家の使用人ではなく、智が玄関まで迎えに来てくれたのだろう。 

 たやすく捕まえられてしまった相手の顔があげられると佐久夜は思わず、口許を綻ばせていた。

 いまはあどけなさを残すが、将来が楽しみになる少年に懐かしさを覚える。

 少年の可愛らしさに我慢できなくなった佐久夜がつい、頭を撫でてしまうと『僕、もう子供じゃないんですから』と不貞腐れた口調で少年はいうが、表情は佐久夜に撫でられて嬉しそうだ。

「今日はどうしたんですか? あのくずに会いに来たんですか?」

「……智くん。お兄さんのこと、そんな風に言っちゃ駄目だよ」 

 佐久夜も尊のことは同様に思っているが、実の弟の評価を聞けば、世界が多少、異なっても、人の本質は変わらないことは分かる。 

 兄のことで注意をされた智は、わかりやすく顔がむくれている。

「今日は智くんに会いにきたんだ」

「僕にですか?」

「うん」

「じゃあ、僕のお部屋でお話しましょう」 

 すぐに機嫌を直してくれるところが、口には出さないが子供らしくて可愛いと佐久夜は思う。

「僕、お姉さまをエスコートします」 

 智に腕を差し出されると、佐久夜はそっと手を寄せる。

 烏森家を見上げると代々、武家だった屋敷の造りは威圧感がある。玄関には刀匠が作った刀が飾られている。後世に名を残す刀ではないものの、先祖から引き継がれる家宝の一つらしい。

 前世、尊には甘い烏森家の両親と祖父であったが、彼が遊ぶための金策がなくなって売りに出そうしたときには、さすがに叱ったと聞いている。 

 智の部屋は子供らしくない部屋だった。

 真面目に勉学に励んでいるのか、本棚には難しそうな書物が何冊も綺麗に並べられている。

「入ってください。今、お茶を持ってきます」 

 彼が敷いてくれた座布団に佐久夜は座る。

 尊の部屋には一歩も踏み入れたことはないのに、こうして、彼の弟の部屋に自分がいることが不思議だった。

 智はしっかりとした足どりで羊羹と日本茶を持ってきてくれる。

「ありがとう。智くんが淹れてくれたの?」

「お姉さまに『美味しい』と思ってもらえるように習ったんです。それで、佐久夜お姉さまはお兄さまのなにが聞きたいんですか?」

「どうして分かったの?」

「あの屑。いえ、お兄さまは今まで、家にも寄りつかず、学友たちと遊んでばっかりでした。しかし、最近は真面目に大学も通っています。まぁ、両親はようやく真面目になってくれたかと喜んでいますけど。あいつ、頭でも打ったんじゃないかって」  

 系統の方に目を向けるが、スリープモードになっている。

 自分が前の世界にいた間、霧島が文句を言わず自分に付き添ってくれたことを知り、申し訳なくなる。

「なにか、心変わりをすることがあったんじゃないかしら」

「……あのお兄さまが、ですか?」 

 どうして、智がこんなにも兄を嫌っているかといえば、彼の苛立ちの発散相手になっていたからだと聞いている。

 姫子には表面上、優しく接していたようだが、弟に対する扱いは無慈悲だったようだ。妹が庇おうとしたところ、余計にひどくなったようで、彼女は悔しそうになにも出来なかったと目を伏せた。 

 彼が佐久夜に懐いている理由も尊から庇い、智の怪我を手当てしたことが原因だが、この世界の〈佐久夜〉も彼に同じことをしたのだろうか。

「お姉さま、本当にあんな男と結婚するのですか? お姉さまがお顔を隠さなくちゃいけなくなったのも、あいつがお姉さまを馬鹿にしたからだって、僕、知っているんです」

「……智くん」

「僕、はやく大きくなりますから。僕じゃいけませんか? 僕ならお姉さまを悲しませません」 

 可愛らしい告白に佐久夜は思わず、声を立てて笑ってしまう。

 この告白を違う世界の自分が聞いてしまったことを申し訳なくなってしまった。

「お姉さま。僕、本気なんですよ」

「ありがとう、智くん」 

 その後、智の家庭教師が来るということで、佐久夜は烏森家を後にする。

『佐久夜。年下が好きだったんだ⁇』 

 系統がずっと沈黙を守っていたことで、石上はまだ、出勤していないと思っていたが、佐久夜と智の様子を見ていたようだ。

「いやいやっ。智くんは婚約者の弟だよ。なんか、尊さまの様子がおかしかったから、なにか知ってるかなって思って」

『あぁ、話に出てきた屑とかいってたやつだね。それでなにか分かったの?』

「ううん。でも、この世界は私がいた世界じゃないって、ようやく実感した」

『なにかあったの?』

「多分、この頃かな。智くんね。私の世界だと行方不明になっていた筈なの」

『行方不明?』

「神隠しだって言われたまま、騒がれていて。私が烏森家に嫁いだときには尊さまの仕業じゃないかって使用人たちの間では言われていたようなの」

『佐久夜。ぼく、気になっていたんだけど。きみが過去を口にするとき、誰かから聞いたように話をするときがあるよね』 

 石上にはいずれは気づかれると思っていたが、意外に早くて佐久夜は苦笑する。

「石上は瓊瓊杵尊ににぎのみこと木花咲耶姫このはなさくやひめのお話、知ってる?」

『あぁ、瓊瓊杵尊には二人の妻が嫁ぐ筈だった。美しい木花咲耶姫と磐長姫だ。美しい木花咲耶姫に一目惚れをした一方で、容姿の気に食わない磐長姫を父親の元へ返したって話だろう?』 

 ひどい話だよね! と怒ったように言う石上に佐久夜は少し、救われたような気持ちになる。

「あの話を聞くたびに、私、私と妹のことだなって思って」

『妹さん?』

「うん。私と彼は政略結婚だったんだけど、まず、彼が『こんな醜い女とは結婚するなんてごめんだ!』ってごねたんだ。それから、会うたびに顔のことを言われたから、私は彼や周りの人が不快に思わないようにって、顔を隠すことにしたの」

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