第23話
いつも治療を受けているゼロ号室が、いったい建物の中のどのあたりにあるのか、ロストンはまったく見当がつかなかった。そこに辿りつくまでの通路に窓は一切なく、仄暗い廊下が曲がりくねっていて、方向感覚を狂わせるのだった。傾斜もかかって緩やかに上下しており、何階かも分からない。
到着するとそこはいつものゼロ号室だった。見渡す限り全てが眩しい真っ白な部屋。
ただ、いつも使っているリクライニングチェアがなくなり、それがあった場所には一つの大きな白テーブルと、それを挟んで向かい合う二脚の椅子があった。
ロストンは手前の椅子に座り、テーブルの上に両肘をつけた。すると一緒に部屋に入っていた二人の看護婦が外に出て行き、入れ替わるようにオフィールドが入ってきた。
オフィールドは奥の椅子に腰かけ、徐に口を開いた。
「以前、質問されたことがありましたね。ゼロ号室ではずっとシグナルを使うのか、と。経過観察をしながら決めて行くものだと私はお答えしました。あなたの心の状態によって変わるので、あなた次第で治療方法は変わると」
ドアがまた開き、一人の看護婦が入ってきた。その手にはタブレット型のスマートスクリーンがある。看護婦はそれをオフィールドの前に置き、軽く会釈をして出て行った。スクリーン上には何かが映っていたが、ロストンの角度からは見えなかった。
「ミスター・リバーズ、あなたにとってこの世で最も大切なものは何ですか?」オフィールドが訊いた。「自分の命だと言う人もいれば、自分の家族や友人やペットだと言う人もいるでしょう。なかには人や動物ではなく、特定の物や理念だと考える人もいます」
そう言うと、オフィールドはスマートスクリーンに触れた。そのスマートスクリーンはプロジェクターと繋がっているようで、二人の間を遮るようにテーブルの中央から透明な膜が浮かび上がった。大きさは五十インチ以上で、かなり大きい。
手元のスマートスクリーンに映っているであろうものがそこにも映し出された。何かの表紙が上下左右に並べてある。週刊誌の表紙だった。数は十ぐらいある。
「あなたにとって」オフィールドが言った。「この世で最も大切なのは、彼女ではないでしょうか」
それまではプロジェクターの透明な膜を見ても、並んでいる雑誌を見ても、ロストンはそれらが何を意味するのか気づかなかった。しかしオフィールドの言葉を耳にすると同時に、表紙の内容が目に入ってきて、彼はすべてを理解した。そして自分の鼓動が激しく打ち始めるのを感じた。
「そんな」ロストンは声を押し殺すようにつぶやいた。「こんなにも……」
「これを覚えているでしょう」オフィールドが真ん中の週刊誌を押すと、ページが開いた。「借家で彼女が撮ったあなたとのツーショット写真です。あなたにとっては人生はじめての記念写真だったようですね。家族との写真がないわけですから。小さかった頃、あなたの母が出て行き、その後、父もあなたを置いてどこかへ行ってしまった。家族との思い出の写真は一枚も残っていない」
「どうして」ロストンは声が震えた。「どうしてこんなプライベートの写真が許可なく……どうしてこんなことをするんですか!」
透明な膜の向こう側にいるオフィールドは肩をすくめ、それは週刊誌の問題であって自分の責任ではないという表情をした。
しかし次の瞬間には、まるで親身になって相談に乗るような表情に切り替わり、身を乗り出してロストンに語りかけた。
「大切なものだと口では言っても、実際のところ、人間は生きていくために色々なものを諦めることができます。だが人によっては、本当に諦めることのできない、本当に大切な、かけがえのない存在というものがある。自分の命がその一つですが、それだけではない。親はわが子を助けるためなら線路や洪水の中へ躊躇なく飛び込むでしょう。理屈とは関係ありません。本能的にそうするのです。あなたにとって彼女はそういう存在でしょうか? それとも、大切だと口では言っても、諦めて忘れることのできるぐらいの存在でしょうか? 彼女のためにあなたは何をしますか?」
ロストンは何も思い浮かばなかった。彼女はさらし者にされてしまって、それはもう起きてしまったことだった。何をしたってもう取り返しがつかない。
「何ができると言うのです? いまさら私が何をしたって、すでに記事はこんなにも出てしまったし、彼女はさらし者になってしまった……」
オフィールドは再びスマートスクリーンを手にすると、雑誌を並べた元の画面に戻り、別の雑誌をクリックしてその表紙を拡大させた。
その表紙を目にして、ロストンは自分の鼓動がさらに激しくなるのを感じた。そこにはジェーンの写真があり、その真下に”裏の顔″や”同棲生活″といった刺激的な見出しが書いてある。
「このような証拠写真付きの週刊誌は」オフィールドが言った。「ゴシップ誌とはいえ、影響力が大きい。あなたもメディア業界で働いてきたのでよくご存知でしょう。かれらに目をつけられ、暴露記事を書かれた有名人たちは一瞬にしてイメージダウンし、仕事や友人や家族を失い、どん底に突き落とされる。社会的に望ましい暴露の場合もあれば、そうでない場合もある。いずれにせよ、ゴシップ誌に弱みを握られたが最後、社会的な死は避けられません」
ロストンは記事の中身を確認したかったが、見たくない気持ちもあった。見出しを読んだだけでも過激なことが書いてあるだろうと分かった。表紙には自分とは無関係の見出しもある。政治家や芸能人の顔写真の上下にセンセーショナルな表現が散りばめられていた。だが、写真と見出しの大きさから言って、ジェーンの記事がメインであることは一目瞭然だった。まるで脳内に直接訴えかけるような、大きく真っ赤な文字だ。
オフィールドはスマートスクリーンに人差し指を置き、表紙画面をスワイプした。するとページが静かにめくられていった。ロストンは凍り付くようにじっと見ていた。しかし見なくて済むのなら、見なくて済ませることができるなら、逃げたい気持ちでいっぱいだった。
しばらくめくると、オフィールドがあるページで指を止めた。それから二本の指の間を広げるように動かし、彼女の写真を拡大した。
「ここからが彼女の記事です」オフィールドが言った。「先ほどの週刊誌はまだ上品で裏付けがしっかりしていますが、こちらの週刊誌はかなり下品な表現を使い、裏づけの弱い記事を乱発する雑誌として有名です。そのせいで訴えられることもありますが、大抵の芸能人は事実無根の中傷であっても騒いで問題を大きくする方がイメージダウンにつながると心配し、泣き寝入りを選ぶ。そのような弱みにつけこんでこの週刊誌は刺激的な記事を書き、芸能人たちを食い物にし、売り上げを伸ばしている。そしてジェーンもそのターゲットになったのです」
オフィールドは指を動かし、記事の文章が見えるように画面を移動させた。
文字が静かに意識の中へと入ってくる。”思想犯カップルの大量殺人計画″やら、”一般男性を誘惑″やら”トラディット地区の隠れ家でセックス″やら”淫乱な裏の顔″やらと、事実無根の誹謗中傷が続いていた。ロストンは徐々に喉を抑え込まれるような息苦しさを感じた。次第に身体が震え、目の前が真っ白になった。何かを叫びたかったが、喉が詰まって声が出なかった。彼女がこの記事を目にすると思うと、胸が締め付けられた。彼女を守るために何か方法はないか考えようとしたが、頭がまるで麻痺したように何も思い浮かばない。
オフィールドはロストンの様子を一瞥し、またページをめくった。
すると今度は、画面全体が写真で埋め尽くされた。左上の写真は、スクラップ集積場で自分とジェーンが驚いた表情で腕を組んでいるものだった。見下ろすような角度で撮られている。左下にあるのは、同じところで自分が目をつぶった彼女に抱き付いている写真だった。自分が彼女に惹かれ、彼女がそれを受け入れてくれた二人の大切な瞬間だった。右側にある写真は、別のところで二人がキスをしているのを撮ったもの。確か十二月ぐらいに坂道を歩いている時のことだった。空に広がる花火を背景に、彼女がマスクを外して自分に唇を重ねている。そして画面の真ん中には、先ほどの雑誌にも載っていた、借家で撮った記念写真があった。不意に撮られた自分はびっくりした顔をし、その横で彼女は満面の笑みを浮かべている。あの時ジェーンは、これから二人の思い出をいっぱい作って、記念写真もいっぱい撮ろう、と言ってくれた。でも、それはもう叶わない。
ロストンの頭に彼女との日々が走馬灯のように浮かんだ。自分は彼女を守ると言いながら、彼女を道連れにしてしまった。もう彼女は後ろ指をさされずに外を歩くことができない。淫乱な女だと蔑まれずに人前に立つことができない。犯罪者だと世間に気味悪がられずに生きることができない。全部自分のせいだった。自分が彼女を貶め、地獄に突き落としたのだ。
浮かんでいた彼女との日々が頭の中で過ぎ去ると、瞑った目の前には空き地だけが残った。スクラップ集積場の隣にあった空き地。掘っ立て小屋だけが立っていた空き地。そこには、希望のかけらも、すがるものも、何もない。ただ絶望だけが果てしなく広がっている。もう助かる方法はなかった。もう何をやっても世に出てしまった記事は消えない。消えないばかりか、繰り返しコピーされ、脚色され、歪められ、でっち上げられ、増殖されていくだろう。それを止める方法はない。もう終わりなのだ。
しかし、見渡す限り何一つすがるものの無い荒涼とした空間の中で、彼はふと、そこに立っている誰かに気づいた。彼女の身代わりとして差し出せるかもしれない小さな存在、もう手遅れかも知れないが、もしかしたら彼女を救えるかもしれない唯一の存在。それに気がつくと、涙がいつの間にかロストンの頬を伝っていた。
彼は椅子から立ち上がり、両ひざを崩して床につけた。そしてオフィールドに向かって深くひれ伏し、涙声を振り絞って叫んだ。
「ジェーンは何も悪いことをしていない、全部私がやったのです! どうかお願いですから、もう彼女を苦しめないでください! 自分が彼女を騙して悪い道に引きずり込んだのです。彼女はただ僕に騙されただけなんだ!」
ロストンは同じ言葉を何度も何度も繰り返し叫んだ。両腕と顔を地面にうずめ、声が枯れるまで叫んだ。
瞑った目の暗闇の中で、オフィールドの姿は消えていた。自分の姿も消えていた。そこにはただ、ジェーンの優しい笑顔だけが浮かんでいた。
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