第22話
ロストンの身体は再び元の状態に戻りつつあった。時間が経つほど肌のハリと潤いがなくなり、体中にみなぎっていたエネルギーも感じられなくなった。
ゼロ号室にいる時以外、彼は暖かい日差しの入る個室によくいた。部屋にはふかふかの枕とベッド、ソファがあり、広い机の上にはタブレット型のスマートスクリーンもあった。奥には小さい浴槽があって身体をあたためられたし、備え付けの洗濯機もあって頻繁に病衣と下着を洗うことができた。建物内はどこも禁煙で、外の自然公園のフレッシュな空気を取り込んで換気していた。食事も、質素だが栄養バランスがとれていて、ロストンはそれなりに美味しいと感じた。生活の面で特に不便なところはなかった。
しかしなぜか、悪夢を見ることが多くなっていた。地獄の中で苦しむこともあれば、凍り付いた未来の空間で母親やジェーンやオフィールドに自分の過ちを責められることもあった。目が覚めた後は、明るい気持ちを保つために、夢について考えるのを意識的に避けた。それでも、時には部屋の机の前に座ったり、歩いたりしながら、色々なことに考えを巡らしてしまうのだった。そんな時には心が落ち込んでしまい、治療の時間が来るのを待ち望んだりもした。
それに、ロストンは徐々に睡眠時間が長くなり、ベッドの上で横になることが多くなっていた。以前と同じ速さで歩けたし、腹筋運動と腕立て伏せもそれなりにできたので、シグナルを受ける前より体力が弱くなったわけではなさそうだった。どこかが痛いわけでもない。だから客観的には治療を受ける前と体は同じだった。だが若返りしていた状態と比較をしてしまうせいか、ロストンは自分の体力に自信を失くし、顔がひどく老けたように感じた。満ち溢れていた希望は薄まり、考え事をすればするほど悲観的な気持ちになった。
しかし心が折れたり、心の中の抵抗を止めたりしたわけではなかった。博愛園に着いてから、彼は心の中でずっと抵抗していた。いや、厳密にはもっと前、警察に捕まった瞬間から、世界市民連合の圧力には屈しないと固く決心していた。確かに、連合は手ごわい相手だった。かれらは全てを把握している。思想犯捜査の名目でかれらは街中のスマートスクリーンの録画記録を調べ上げ、今までの二人の言動を隅々まで知ることができる。スクリーンを通して連合は時空を支配しているのだ。
しかしそれでも彼は屈するつもりがなかった。転向なんかするものかと心を引き締めた。多数派で正統派だからといって正しいとは限らない。時にかれらの主張が正しく見えてしまうのは、正しさの基準そのものをかれらが作っているからにすぎないのだ。
ロストンは、連合の主張を理解してみようと、物質環境を重視する観点に立って考えてみたりもした。たしかに、身体が若返りした時に自分がそれまでにない喜びを感じたのは事実だった。だが、だからといって物質によって全てが決まるわけではない。オフィールドも自分たちが対人恐怖症やうつ病を完全に克服できないでいると認めたではないか。物質的な現実が精神に影響を与える部分があるのを、かれらは拡大解釈して、物質が精神を規定しているとまで主張する。言葉では違う風に言っていても、本心では物質が精神より先に存在すると信じている。だが、たとえば宇宙という物質世界の始まりは、その観点では説明できない。物質世界の始まりの前に物質の変化があるという話になり、矛盾になるのだ。だから神の意志が物質に先行すると考えた方が、矛盾がない。神の精神のなかに物質世界はあるのだ。それは理屈に合うことであり、だから太古の昔から人々はそう考えてきた。しかし物欲にまみれ、物質を重視する今の社会では、神の存在は物理的に証明できる問題ではないと無視され、すべてがもっぱら物質的な観点から捉えられている。そのような唯物論が現代人の持つべき当然の常識、オープンスピークでいう”普遍的良識″と呼ばれるものだ。
ロストンは連合が広めてきた”普遍的良識″を振り返ってみた。宇宙の始まりを物理的に説明する科学者の解説をオンライン上で読み、進化論の立場から創造論を否定する人達の文章を読んだ。しかし、二足す二は四のように自明なものとは思えなかった。論理的な検証を行っているものの、証明されていない幾つもの前提の上にかれらの理屈は成り立っている。前提と言えば科学的な響きがして聞こえはいいが、つまるところ何かがそうであると信じるということだ。正統派は、証明できないものを非科学的だとあざ笑うが、科学や普遍的良識も証明されるものだけで出来ているのではなく、かれらが信じるものの上に成り立っている。信じているものが間違っていた場合、科学と普遍的良識も間違いだったことになる。結局、多数派で正統派だからといって正しいとは限らない。正しさの基準そのものをかれらが決めるから、一見、かれらの主張が正しく見えてしまうだけなのだ。
だが同時にロストンは、頭の中で体制の主張を拒否できても、それを口に出して拒むのは簡単ではないと感じていた。社会復帰ができなくなってしまうからだ。
彼の頭の片隅には、色々と考えを巡らせている間も、ずっと社会復帰への不安があった。オフィールドは「それほど先のことではないかもしれません」と言っていたが、その通り、自分の取り組み方によっては復帰の時期を早められるかもしれない。異端であることを懺悔し、転向を表明すればすぐに復帰できるだろう。今まで目にしたテレビのニュースがそれを裏付けていた。転向者がプレスルームのようなところで体制側の人達と握手する姿を何度も観たことがある。
不安に思っているからか、そのような場面は夢にさえ出てきた。
夢の中で、ロストンは暗い廊下を歩きながらプレスルームへと向かっていた。心はまだ葛藤し、矛盾を抱え、納得できずにいた。疑念と、敵対心と、敗北感に包まれていた。身体だけが健康的で若々しくなっている。重い足取りで、心苦しさを噛みしめながら、暗闇の中を延々と歩く。気が付くとそこは、プレスルームへと向かう廊下ではなく、博愛園の狭くて仄暗い廊下だった。そして次の瞬間、自分は”地獄″の中にいた。何もない空き地が続き、それを人工的な照明が白く照らしている。そしてその向こうにはスクラップの山があり、その下を溶解した真っ赤な鉄が流れていた。隣には……
夢から覚めた時、彼は瞬時に現実世界に舞い戻った。
そして思い出したのだった。自分は捕まってここに入れられているのだと。自分は社会から遠く隔離された施設の中にいて、精神障害の患者として扱われ、実験用動物のように弄繰り回されていることを。そしてジェーンもまた連合によって隔離され、精神病の患者にされ、心と身体を弄ばれているであろうことを。
ロストンはベッドの上で身体を丸め、「会いたいよ」とつぶやいた。
自分は彼女を不幸にさせたのだから彼女のことを忘れないといけない。何度もそう自分に言い聞かせた。彼女も自分を必要としない新しい人生を歩み始めた方がいい。他人として別々の道を歩いた方がいい。そう必死に自分を納得させた。
だが同時にロストンは思った。自分のせいではあるものの、元を辿れば思想犯のレッテルを貼って捕まえた連合側に非がある。人を隔離して心身を弄ぶかれらに問題がある。連合が全ての元凶なのだ。
絶対に屈するものか、と彼は心に決めた。脳波は測定できても、感情の中身までは分かるはずがない。表面的なことをいくら把握していても、心の奥底まで知ることはできないのだ。自分はオフィールドに向けて何度も反論したが、そうやって考えをぶつけること自体が心を開き始めた証拠だと彼は言っていた。だがそれは違う。自分の考えは少しも曲げていない。自分が正しいことは分かっている。正しいことを貫く人間でいたいのだ。だから……
ロストンは大きな覚悟をもって、机の上の電子ペンを握った。そしてそこに置いてあるスマートスクリーンに書き込んだ。
<相対は絶対ではない。>
そしてその下にゆっくりと書き足した。
<正統派の価値観は、二足す二は四のような当然のものではない。>
すると、自分の中で心理的な障壁が取り払われた気がした。そして、次に何を書くべきかがはっきりと見えてきた。理屈なしに頭の中に自然と浮かんだものだった。それを続けて書いた。
<権力は、人ではなく、神から生まれる。>
これで自分は連合の一切を拒む心の準備ができた、とロストンは思った。
体制側の主張を拒むのは簡単なことではない。社会復帰ができなくなってしまう。だから今まで心の中では抵抗し続けてきたものの、治療プログラム自体を拒んだりはしなかった。しかしもう従順になるのを止めて、全てを拒否する決心がついたのだ。もうかれらの言いなりになったりはしない。
ふと、鏡に映る自分が目に入った。身体が再び若々しくなっている。
ロストンは疑問に思った。かれらはナノマシーンを遠隔操作しているのか、それとも自動で動くようにプログラミングされているのだろうか。
彼は鏡に映る自分の若い顔を撫でてみた。肌が弾力的になり、頬や額の小皺が無くなっている。全体的に引き締まって、以前より顔立ちがはっきりしている。そして身体全体に力が漲り始めていた。
若返った自分の顔を眺めていると、ロストンは不意に笑いがこぼれてしまった。
堪えようとした。でも、どうしても笑ってしまうのを止めることが出来ない。
コントロールできないのは表情だけではなかった。嬉しくなって、心も躍っている。
ロストンはこの時、心に秘めたものを守るためには、それを強く意識しなければならないことに気付いた。無意識的に連合に屈してしまわないように、自分の心の状態を常に意識する必要がある。洗脳されないためには、常に疑う姿勢を持ち、連合への憎しみの感情を前面に出して、うっかり丸め込まれないようにしなければならない。
おそらく、社会復帰を意識させるのも、連合側の策略なのだろう。開けた未来は自分の意思で決められるとかれらは言う。転向の意思を伝え、廊下を歩いて、プレスルームに入る、ただそれだけのことだ。だがその短い間に、自分の本心と連合への憎しみは、自分にも見えない胸の奥底へと押し込まれ、堅く閉ざされることになる。自分の本当の感情と考えに蓋をすることになる。そして連合側の人間と握手をした瞬間、今までの自分は崩れ去るだろう。危険思想を懺悔し、体制への支持を誓い、かれらの作っている世界を補強する一つのブロックになるのだ。かれらを称賛しながら生きること、それは奴隷に成り下がることを意味する。
ロストンは鏡の中の自分を見ながら思った。肉体的に楽になるよりも、精神の方がはるかに重要であると。身体がいくら若々しく強くなっても、信念を捨てることは本当の自分を殺すことなのだと。
ふと、彼の頭にグレート・マザーの姿が浮かんだ。あの優しい顔と、迎え入れるように広げた両腕は、全ての人を抱きしめ、受け入れるという連合の理念をイメージ化したものだった。だが、かれらが実際にやっていることは、それとまったく違う。かれらは異端派を受け入れるどころか、徹底的に排除し、隔離し、信念を捨てさせようと全力で圧力をかけているのだ。
その時、ノックが聞こえた。
ドアを開けると、そこには中年の看護婦と若い看護婦が笑顔で立っていた。そしてその後ろに無表情のオフィールドがいた。
ロストンは三人を部屋に招き入れた。椅子をすすめようとしたが、一つしかないので、一脚をオフィールドにすすめ、自分はベッドの上に座った。看護婦二人は立ったままでいる。
「調子はいかがですか?」オフィールドが座りながら訊いた。
ロストンはどう答えていいか分からず、一瞬黙り込んだ。
「ミスター・リバーズ、最近は胸の内を明かしてくれるようになり、嬉しく思っています」
そう言うとオフィールドは机の上を一瞥し、また口を開いた。
「症状はだいぶ良くなってきています。まだ自覚していないかもしれませんが、あなたは自分の観点とは違う観点があり得ることに気づき始めている。ただ、感情の面ではまだ納得していない。そこで一つお聞きしたいのですが、正直に答えてください。正直な答えでないと治療方法も間違ってしまいますから。改めてお聞きしますが、あなたはグレート・マザーをどう思っていますか?」
ロストンは頭の中で適切な言葉を探り、答えた。
「偽善的です」
「偽善ですか」オフィールドが肩をすくめて言った。「分かりました。では次の治療に入り、グレート・マザーの愛について一緒に考えてみましょう。あなたがそれに愛着を持つ義務はありませんが、あなたはもっと愛されるべき人ですから」
彼が看護婦たちに合図をすると、若い看護婦が笑顔でロストンに声をかけた。
「では、ゼロ号室にご案内いたしますね」
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