第21話



 ロストンは大きなリクライニングチェアにまた身を任せていた。背もたれが後ろまで倒してあり、寝かされているような姿勢だった。

 毎回二時間ほどのこの治療プログラムも、もう三回目で、慣れてきたためか、始まる前の不安は無くなっていた。むしろ、シグナルによる解放感を待ち遠しく感じることさえあった。シグナルのレベルを上げれば通常は感じることのない、至福の感覚に浸れるのだ。

 だが同時に、ロストンは自分の信念を曲げるつもりはなかった。快感は待ち遠しいが、それと何が正しいかは彼の中では別のことだった。

「では始めましょうか」

 近くに座るオフィールドが口を開いた。

「以前もお話しましたが、なぜ一個人に我々がこれほどの時間と手間をかけて治療を行い、社会復帰のためのサポートを準備するのか、あなたは疑問に思いましたよね。しかし、この施設に入る前もあなたはそれと似たような疑問を持っていたと思います。自宅で掲示板に向かってこう書き込んでいましたね。その理由は分かるが本当の理由が分からない、と。文脈なしにそれだけが書いてありましたが、おそらく、連合の活動の本当の意図が分からないという意味なのでしょう。その本当の意図や理由について、あのストーンズの本から何か得たことはありましたか?」

 ロストンの頭にはストーンズが説明した大資本家たちのことが浮かんだが、全部を読んではいなかった。

「本には色々書いてありましたが、逮捕されて最後まで読めていません」ロストンはそう答えると、その本について気になっていたことを思い出した。「そういえば、あなたはSS同盟の人間ではなく、私をSS同盟に入れたいわけでもないのに、なぜあの本を私に送ったのですか?」

 オフィールドは肩をすくめ、答えた。

「あなたが克服しなければならない精神病の特徴が何かを知ってもらうためです。あれは同じ精神病を持った人が書いたものですから」

「どこが精神病だというんですか」ロストンは咄嗟にこみ上げる怒りを抑えながら言った。

「そうですね……自分の頭の中で作り上げた妄想を、客観的な事実だと信じてしまうところです。要するにあの本は、確固たる証拠なしに憶測で諸事例を繋ぎ合わせた陰謀論です。陰謀論による扇動でもあります。事実の検証や論理的思考を放棄している。反知性主義とも、フェイク情報とも表現できますが、要するに知性の放棄です。もっとも、それでも共感する人はいるでしょう。自分の価値観に沿うものにしか耳を傾けない人は大勢いますからね」

 オフィールドは座ったまま少し前に乗り出し、話を続けた。

「ミスター・リバーズ、あなたが疑問に思っていた、本当の理由というものについて一緒に考えてみましょう。この社会で過去と事実の書き直しが繰り返される本当の理由は何だと思いますか? 同じことの言い換えになりますが、連合が一面的な記述を多面的なものに書き直すことを奨励する本当の意図は何でしょう?」

 ロストンは言葉に詰まった。自分は答えが分からないから匿名掲示板に分からないと書き込んだのだ。だがオフィールドが聞きたがっている答えは察しがついた。連合は世界を支配下に置くためではなく、世界全体の安定のためにそうしている、というのが彼の期待している答えだろう。世界中の個々人が各自直面している現実と向き合って各自の観点から見えたものを発信すれば、多面的な側面が明らかになり、一面的な視点による偏見と排他性と暴力が無くなる、というのが連合の主張だ。表現の自由と社会の安定は深く結びついているとかれらは言う。オフィールドが望んでいる答えをこのように容易に予想できるのは、小さい頃からの義務教育とマスメディアの宣伝のせいだが、結局全ては連合を正当化するための情報操作にすぎない。連合の中心メンバーであるオフィールドはその欺瞞を重々知っているはずだ。経済的不平等はどんどん拡大していて、中間層が崩れ、庶民の間では剥奪感が広まっている。見せかけの自由のもとで、人々は経済的な奴隷と化している。たとえ報酬が若干増えた人がいても、本来得るべき分け前の大きな部分が大資本家に吸い取られている。オフィールドはその点をよく知った上でそれを肯定しているのだ。人々の奴隷化を正当化しているのだ。

 ロストンの中で再び強い怒りがこみ上げてきた。

「あなた達の本当の意図は、世界を支配することでしょう。社会安定や人々の幸せのためではない!」ロストンが声を荒げた。「連合は、個々人の自由と自立を謳いながら、実は貧富格差をひろげ……」

 その時、彼はつい、喘ぎ声を出しそうになった。身体中に快感が走ったのだ。スマートスクリーンを見ると、オフィールドがレベルを四に上げていた。

「少し落ち着いた方が良さそうですね、ミスター・リバーズ。感情をコントロールできなくなっています。頭が冷静な状態になるまで、少し待ちましょう」

 しばらくしてロストンが落ち着いたのを確認すると、オフィールドはレベルをゼロに下げた。そしてスクリーンをスワイプして何かを押すと、ロストンの方に向き直って言葉を続けた。

「誤解があるようなので、説明しましょう。世界市民連合の意図は、世界の平和と繁栄にあります。意図はそれだけで、見せかけの意図も裏側の本当の意図というものもありません。我々はただただ、世界の平和と繁栄を熱望している。過去のあらゆる体制も平和と繁栄を標榜していましたが、実際は支配者の富と権力を拡大するための体制だった。我々がそれらと異なるのは、世界の平和と繁栄がこの体制の本当の意図であり、その意図が変質しないための仕組みを作っている点です。つまり、昔の権力者たちは権力を自らの手に集中させましたが、今の体制において権力は連合それ自体にではなく、世界市民の投票権にあるのです。市民の選択によって連合メンバーの当落が決まる。そしてその市民たちが求めているのは平和と繁栄です。グローバル総選挙に基づくグローバル民主制が平和と繁栄を実現しています。偽善でも理想論でもない」

 ロストンは熱弁するオフィールドの顔に若々しさを感じた。この前に見た時よりもさらに若返った感じがした。その顔はどこか成熟した老練な知性を醸し出していたが、肌の状態はなぜかとても若々しいのだ。張りがあって、皺ひとつない。

 彼はロストンの視線に気づいたのか、顔を少し傾げた。

「あなたは今、私の話を聞いているのではなく、私の顔を見ていますね?」オフィールドが言った。「自分で言うのもなんですが、よく見てください、肌が五十代の割に若いと思いませんか? それも先ほどから説明している世界の繁栄と関係していますよ。医療技術の発展も繁栄の表れですから」

 ロストンはその言葉が信じられなかった。医療技術で人の顔をそこまで若返らせることなど、できるはずがない。五十代と言うが、どう見ても三十代前半にしか見えなかった。

 オフィールドはロストンの疑いの視線などお構いなしに言葉を続けた。

「話を戻して、あなたは連合について何か誤解をされているようですが、もう一度強調しましょう。連合のメンバーは市民のしもべです。すなわち公僕です。様々な権限を市民から預かっているだけで、権力の源は市民側にあります。もっとも、一言で市民と言っても、それは一つの総体的な意志として存在しているのではなく、多様な意志を持った人々で構成されています。市民を一つのまとまったもの、総体として捉えると、市民の間の意見の違いを無視して、一つの主張を議論なしに推し進めてしまうことになります。それは市民の名を振りかざした独裁につながりかねません。ですから権力は、一括りにした市民概念に基づくのではなく、市民一人一人のその時その時の選択、つまり投票によって発生しなければならない。”相対は絶対なり″という連合のスローガンをご存知でしょう。実はその逆も然りです。つまり”絶対は相対なり″ということです。絶対権力は必ず腐敗し、社会を貧困と戦争に陥れる。だから絶対権力や絶対真理というものは必ず相対化し、常に捉え直すべきなのです。それが”絶対は相対なり″および”相対は絶対なり″の意味です。その実践によって、我々は永遠の平和と繁栄を享受できるでしょう」

 オフィールドはそこで軽く咳をすると、言葉を続けた。

「ついでにもう一つ強調したいのは、先ほど格差について言及されましたが、確かに、先進国の斜陽産業で働いている人は格差を感じているかもしれません。しかし他方で、途上国でそれらの産業は著しく発展し、途上国の人達の所得は格段に増えました。それに、諸先進国は不得意になった一部の産業を途上国に任せることで、自身の得意分野に資源を集中させることができ、それが成長につながっています。ですから、世界全体を見ると、世の中はどんどん豊かになっている。そのような物質的な繁栄は、社会および世界の安定に貢献する一番の要因です。もちろん心も大事ですが、物質環境は精神に大きな影響を与えるので、物質環境が安定すると、精神も安定しやすい。ですから今の繁栄は、心の幸せを実現する上でも重要な働きをしています」

 オフィールドの畳みかけるような言葉の勢いにロストンは圧倒された。だが、何とか反論の言葉を絞り出した。

「でも、物質的な環境を整えるだけで精神をコントロールできますか? このようなプログラムを何回も実施してさえ、私一人の心すら変えられないじゃないですか。何をされても私の信念は変わりませんよ」

 オフィールドは肩をすくめながら答えた。

「ミスター・リバーズ、今の私たちに出来ないことが多くあるのは事実です。まだ私たちはこの社会から様々な精神障害、たとえば対人恐怖症やうつ病などを一掃することができないでいる。ですが、取り組み続ければ、一つ一つ克服していけるでしょう。物質世界を上手く操る技術が発達するほど、幸福感の実現や精神障害の治療が確かなものになるのは間違いありません。心は物理の法則から自由ではありませんから」

 その言葉に、ロストンは再び、こみ上げる怒りを感じた。

「心の病気は治せるようになるかもしれないが、あなたたちが否定する信仰心や異端派の思想は心の病ではない! それらは物理的な環境を変えることで操れるようなものでないんだ! クリスチャンは歴史上、暴君たちによって何度迫害されても、信仰心を保ち続けたのです!」  

「信仰心を病だなんて私は一言も言っていませんよ」オフィールドは少し驚いた表情で答えた。そして言葉を続けた。

「ですが、もし信仰心をなくそうとするならば、迫害する人達は、やり方が間違っていたと言えるでしょうね。物理的な力で心を抑圧しようとしてはなりません。暴力と恐怖で相手の心を操るのは、短期的にはともかく、長続きしませんから。以前申し上げた通り、復讐心を芽生えさせてしまうのです。だから、むしろ安らぎを与える方が良い」

 ロストンは震える声を抑えながら言い返した。

「物理的な刺激で快感を味わわせても、敬虔な信仰心は揺るぎませんよ。恐怖や快楽に負けない気高い精神こそが人間を特徴づけるのです。本能の赴くままに生きていたら、世界は変わらない。環境と妥協しない気高い精神がこの世界と社会を作ったのであって、環境が精神を作ったのではない」

「なるほど、精神が世界を形作る側面はもちろんあると思います」オフィールドが言った。「それを否定しているのではありません。私が言っているのは、その不屈の精神や信仰心も物理的な環境の影響を強く受けて形成される側面があるということです。つまり精神と物理環境はお互い影響し合っているのであって、どちらがどちらのより根本的な原因になっているわけではありません」

「それは違う!」ロストンは怒りを抑えきれずに叫んだ。「一番はじめに存在したのは、物理的な制約を超えた精神なのです! まず神の意志があり、次に神に自由意志を与えられた人間の意志がある。精神がこの世の中を作ったのであって、その逆ではない!」

「ほう、なるほど」オフィールドが笑みを浮かべた。「ミスター・リバーズ、そのような信仰心をお持ちになるのはあなたの自由ですが、科学的な見地から言えば、証明できる話ではありませんね。そういえば、肖像画のイエスの肌色がアフリカでは黒く描かれることがあり、ヨーロッパでは例外なく白く描かれていますね。でもイエスは黒人でも白人でもありませんでした。仏像も、ヘレニズムの影響を受けた西アジアではギリシャ人のような顔立ちで作られ、東アジアでは東アジア人の顔立ちになっていますね。しかしゴータマ・シッダールタは南ヨーロッパ人でも東アジア人でもなかった。ですから、信仰の対象も環境に強い影響を受けてイメージが形作られると言えます。その観点から考えると、神が人間と世界を作ったのではなく、人間と世界の方が神という概念を作った可能性の方が高い。もっとも、これは情況証拠であり、証明ではありませんが」

「そうだ」ロストンは震えながら言った。「あなた達がいくら科学を振りかざして否定しようとしても神が存在しないという証明にはならない。地球上の環境を少し操れるようになったからって、自分たちが創造主であるかのように傲慢になっているが、まだ地震や台風を食い止めることもできなければ、地球から遠く離れて旅をすることもできない。地球のことも宇宙のこともまだ分からないことだらけなのに、自らが神や世界を作ったなどと自惚れている」

「神というのは人間の言葉で描写されていますよね」オフィールドがまた笑みを浮かべて言った。「神がこう言い、ああ行動したと。しかしその描写が人間によるものならば、神の言葉というのは結局、神の名を利用した人間の言葉ではないでしょうか。もちろんどの宗教でも、神の言葉を記した聖典は、たとえ直接的には人間の手によって書かれたものでも、神が人間を媒介して書いたものであると説明しています。ですがそれは、聖典の言葉が人間の言葉だと思われるのを避けるための方便ではないでしょうか。つまり、本当のところは人間が神の名を利用して語っているのに、逆に神が人間を媒介して語っているという、倒錯した説明を人々に刷り込んでいるのではないでしょうか」

 ロストンは震えが収まらなくなった。とうとうオフィールドが本性を露わにしたと思った。やはりこれがかれらの本性なのだ! 連合の連中はやはり、表では信仰の自由を唱えながら、心の中ではそれを否定しているのだ! 

 だが怒りをぶつけるだけでは勝てないこともロストンは分かっていた。勝つためには矛盾を突くような反論が必要だ。

「あなたは科学的証明が必要だと言いながら、自身も憶測で語っているじゃないですか。科学的証明だって、所詮は不完全な人間が編み出した不完全なものに過ぎない。証明などしなくても神の存在は明らかだ。宇宙から細胞まで全てはうまく出来過ぎている。その美しい秩序と調和が、カオスの中から自然と出来上がったと考えるのは、それこそ確率的にあり得ない非科学的な思考で、創造主が存在すると考えた方がよっぽど理に適う」

 その言葉に、オフィールドは再び呆れたような表情をした。

「前にも言いましたが、ミスター・リバーズ、あなたは物事を実証的ではなく、形而上学的に捉える傾向が強いようです。観念論とも言えます。ですが、この話はもういいでしょう。少し脱線しました」

 ロストンはオフィールドが議論から逃げたと感じた。矛盾を突かれたから、反論できずに逃げたのだ。形而上学? 観念論? 難しい言葉を並べて煙に巻いているにすぎない。世にいうインテリたちは不利になるといつもそういう風に逃げる。

 オフィールドはカルテに何かを黙々と書き込み、それが終わると再び口を開いた。

「連合の意図が何かという話に戻りましょう。我々は、人々を抑圧して支配するような権力は、持続可能な真の権力だと思っていません。人々の自由な選択の中にこそ、真の権力があると考えています。ではミスター・リバーズ、人々は自らの自由意志でどのようなものを選ぶと思いますか?」

「あなた方の考え方だと、快感をもたらすものでしょう」ロストンが即答した。

「ほう、良いですね、近いです。より正確な表現を使えば、自分にとって不快なものを避けるように、より大きな満足感を得られるように人々は行動します。誰かに強制されなくても人々は自然とそのような選択をする。生への意志と言いましょうか、そのような本能は揺るぎないものであり、だからこそ、そこから発生する権力も揺るぎないものになるのです。抑圧されない自由な選択のうちに権力はある。そろそろ、我々が今まで作ってきたものを理解できたのではないでしょうか。それは過去の独裁者たちが作り上げた抑圧の世界とは対極にあるものです。安らぎと信頼と快適さがあり、人々が助け合って、幸せが増幅する世界です。過去の支配者たちは暴力を体制の基礎にしていましたが、我々の基礎には愛がある。たとえば、結婚して幸せな家族を持ちたいという願いが叶うように、婚活と出産と子育てに我々は巨額の手当を支給してきました。また、自己表現の欲求も満たせるように音楽、文学、美術の振興に力を注いできましたし、その他にも映画やスポーツ観戦や遊園地など、人々があらゆるエンターテインメントを満喫できるように資金面と制度面でサポートしています。まさにここが重要なところです、ミスター・リバーズ。つまり、誰かが誰かを弾圧するのではなく、人々がお互いの自由を侵害しないように気遣いながら自分の自由を享受できる環境が必要なのです。それによって人々の幸せは増幅し、社会はより安定的なものになる。イメージしてみてください。手をつなぎ合い、肩を組んだ人の輪が世界中に広がっていくい姿を」

 オフィールドはそこで話を中断すると、反応を待つかのように、ロストンをじっと見つめた。

 ロストンは彼の説明に強い違和感を覚えた。何かが矛盾していて、欺瞞に思えるのは確かだったが、その理由をすぐには言葉で表せなかった。

 ロストンの反応がないのを確認すると、オフィールドは再び話を続けた。

「人々が手を取り合うのが大事です。反対勢力はなくならないでしょうが、我々は繰り返しかれらを抱擁し、宥め、治癒していくつもりです。あなたもきっと、ここでの経験が治癒につながるでしょう。世界はもっと強い信頼関係で結ばれ、開放的で、快適で、健康的になるはずです。ストーンズの唱えるような危険思想が完全に無くなることはないでしょうが、今あなたに対してそうしているように、我々は異端派に対しても寛容な姿勢で辛抱強く向き合ってきました。ここに来た人たちは、治療によって心身を癒やされ、未来への希望と高い自己肯定感を持つようになります。そして善良な市民として巣立っていくのです。それこそがこの施設が目指していることです。手を取り合える仲間のいる、安定した社会。お互いを受け入れる社会。これでご理解頂けたでしょうか、我々の意図を。あなたにはそれを理解し、納得した上で治療に取り組んでもらいたいのです」

 オフィールドの話を聞きながら、ロストンは自分が何を矛盾と感じたのか分かってきた。そして口を開いた。

「そんなもが成り立つはずがない」

「どうしてですか、ミスター・リバーズ?」

「あなたが言っていることが矛盾しているからです」

「矛盾?」

「快楽と欲を基礎にした社会安定なんて不可能です。矛盾している」

「それはどうしてでしょう?」

「人がみな自分の本能と欲求の赴くまま好き勝手に行動すれば、無秩序になるからですよ。道徳も規律もなく、下品な性欲と物欲だけが残る。実際、人々はすでに昔の倫理観を捨て、性の乱れも深刻だ。自由と自由、欲と欲が激しく衝突するから、混乱と争いが生まれるのは必至です」

「なるほど。社会の安定化には自由よりも規律、道徳、そして秩序を乱す者の取り締まりの方が大事だとお考えなのですね」オフィールドは軽く頷き、言葉を続けた。「ですが、あなたが見逃しているのは、我々がその問題にも以前からずっと真剣に取り組んできたことです。社会の規律と道徳に従わずに秩序を乱す者というのが、まさに異端派、あなたご自身だと考えたことはないですか? 我々は個人と社会の自由を守ろうと、他者を排除しようとする危険思想を取り締まってきたのです」

「それは違う!」ロストンは再び強い怒りを覚えた。「あなたたちが悪意をもって危険思想と名付けたものは、人を排除するためではなく、人を守るためのものだ。脅かされている我が国、文化、宗教と、それに根差した個人のアイデンティティーを守るためのもの。我々を脅かすものを排除せずに我々がどうやって生き残ることができる? 我々には自らを守る権利がある。我々の生活圏を守る権利がある。それを許さないあなた達こそが自由と秩序の破壊者だ!」 

 オフィールドは呆れた表情で答えた。

「確かに、人々がただ自分の自由を主張するだけで終われば秩序が乱れるでしょう。しかし、選択によって生まれる利害関係の衝突が、話し合いや裁判で緩和され、今後の衝突を避けるためのルール作りにつながれば、秩序は保たれます。現体制で、人々の自由な選択が無秩序ではなく秩序をもたらしている理由はそこにあります。つまり自由な選択には、それに対する責任がついて来なければならない。自分の選択によって衝突してしまう相手と話し合ったり、譲り合ったり、ルール作りをする責任が伴わなければならないのです。ところがミスター・リバーズ、あなたのような危険思想犯は、相手と話し合いをして衝突を解決しようとするのではなく、相手を排除し、根絶することで衝突を解決しようとする。つまり、自分のことしか考えない、わがままな自由を主張している。その態度が、秩序と社会の破壊につながるのです。大抵のトラディットのように不満をただ心に秘めているだけなら問題になりませんが、危険思想を公にするのは許されません。それが連合の考える、人類が調和した社会を築く方法です」

「違う!」ロストンは叫んだ。「話し合いに応じてないのはあなた達だ! 話し合いが必要と言いながら、連合に都合の悪いことを言えば、話し合いなんかせずに危険思想の罪名で即逮捕しているじゃないか。そんな理不尽なことを続ければ、トラディットたちはいつか立ち上がりますよ。表に出さなくても、心の中では大きな不満が募っている。抑えられた分、大きな圧力となって爆発するはずだ」

 オフィールドは不思議そうな顔をした。

「ミスター・リバーズ、トラディットの表に出ていない心の中の不満をあなたはどうやって知っているのですか? 無記名のアンケート調査や脳波測定をしましたか? それに、どれほどの不満が募れば爆発するのでしょう? それに、不満のはけ口が体制への反乱であるだろうと考える根拠はありますか?」

「いや、そんなのは要らない。見ればわかる。あなた達は頭でっかちで、もっと謙虚になるべきだ。世の中にはあなた達にも絶対に変えられないものがある」

「先ほど言っていた、神や人間の精神のことですか?」

「他にもある。昔から続いてきた共同体の文化、宗教、民族性。それらは何千年、何万年にわたって形成され、定着したものだから、変わらないものだ。黒人やアジア人は白人のようにはなれないし、イスラム教の国は自力でキリスト教の国にはなれない。本質が変わることのない異質な人たちが同じ社会に混在するような多文化社会がうまくいくはずがない。そんなものはいずれ崩壊する」

「なるほど、相変わらずあなたは、自分のアイデンティティーが不変の確固たるものだと主張するのですね?」

「主張ではなく、実際にそうだ」

「ミスター・リバーズ、あなたはご自身のことを道徳的だとお考えのようですが、その道徳観が正しいとされたのは国境を超えた人の移動が少なかった昔の話で、今ではそれは非道徳的なものです。共同体に新たに加わる人たちに対してひどい態度をとっているわけですから」

「では、よそ者たちを守るために自分たちが苦しむのが道徳的だとでも?」ロストンが反論した。

 オフィールドは質問に答えず、手を伸ばしてスマートスクリーンを操作した。だが今度はシグナルの操作ではないようで、解放感は訪れなかった。

「どうぞ降りて下さい」オフィールドが言った。

 すると突然、リクライニングチェアが自動的に前倒しになった。ロストンは困惑しながらも、身体を起こし、床に降りた。

「あなたの一面的なアイデンティティーは多面的なものに生まれ変わることができます」オフィールドが部屋の隅にある壁掛けの鏡を指差して言った。「あなたはこの物質文明の体現者であり、一員です。そんな自分の姿を確認してください」

 ロストンは何のことか疑問に思いながらも、言われたとおり鏡の方に足を進めた。だが鏡に近づくにつれ、自分の姿がくっきり見えてくるにつれ、歩幅が徐々に小さくなった。そして間もなく立ち止まった。彼は驚きのあまり、目を大きく見開いた。

 鏡の中には自分の知っている自分の姿がなかった。

 そこには、みずみずしい若者がいた。

 鏡にもっと近づき、まじまじと見つめると、鏡の中の若者は、肌がつやつやで、顔のたるみなど一切なく、目は澄み渡る青空のように輝いていた。体も、病衣に隠れて分かりにくくはあったが、全体的に引き締まっていた。

 そこにいたのは、間違いなく、若い頃の自分だった。

「あなたは先ほど私の顔をじっと見ていましたね」オフィールドが言った。「年齢の割に、そして以前見た時よりも若く見える、と思ったはずです」

 彼はロストンのすぐ隣に立って一緒に鏡の中を覗いた。

「これが今のあなたの姿です。若々しくて美しいでしょう。全身に潤いがあって、異性を引き付けるような良い香りさえする。以前よりもさらに筋肉がついて、強靭な体つきになっています。髪の毛にハリが戻り、歯だって前より頑丈です」

 鏡の中のオフィールドは横を向いてロストンの顔を見た。

「あなたは若々しく生まれ変わったのです。ナノマシーンは、解放感を高めるシグナルだけでなく、他にも様々なシグナルを出し、細胞に働きかけることができます。肌を潤わせたり、ウィルスを退治したり、がんを治したりできる。商用化はしていますが、まだ製造コストと運用コストが高いので、超富裕層の間でしか普及しておりません。ですがそんな高額なものでも、我々はあなたのために惜しみなく使うつもりです。鏡の中を見て下さい。あれが新たな人類の姿。いつまでも若々しく、強靭で、柔軟で、新しいことを受け入れる、高いチャレンジ精神を持つ新人類です」

 ロストンは今日を振り返ってみた。今朝、自分の顔を見た時はいつもと同じだったのに、短時間にこれだけ変わるものだろうか。短い間に人の容姿を二十年近く若返らせられるほど、体制側は物質世界をコントロールしているというのか。

 しかし驚きの感情よりももっと強くこみ上げてきたのは、正直、若返りへの喜びだった。思わず笑みがこぼれ出てしまうほどの喜び。気がつけば、鏡の中の自分が満面の笑みになっている。若さがどれほど美しいことか、どれほど希望に満ち溢れ、わくわくすることかを、全身で感じた。それを震えるほどに感じ取った。エネルギーの漲る自分の身体が嬉しさのあまり思わず飛び跳ねそうになるのを必死で堪えなければならないほどだった。

「このような心と身体の状態をずっと保つことができます」オフィールドが囁いた。「止めることもできれば、続けることもできる。どちらにするかはあなた次第です」

「続けたい」反射的にロストンは言った。自分の即答に自分もびっくりしたが、口が勝手に動いた。「若いままでいたい」

「そうでしょう。それが自然です、ミスター・リバーズ」

 オフィールドはそう言うと、少し厳しい表情に切り替わって言葉を続けた。

「ただ、誤解しないで欲しいのですが、あなたはどちらかを選べますが、選択肢を提供しているのは我々です。あなたの意志によってではなく、医療技術の発展によってこのような選択肢が生まれたのです。そもそも物質的な環境が整っていなければ、このような選択はできない」

 オフィールドは自分の手をロストンの肩に乗せ、話を続けた。

「ミスター・リバーズ、我々はあなたを蘇らせました。再生させたのです。身体もそうですが、心もそうでしょう。あなたは今、内側から湧き上がる希望でいっぱいになっているはずです。心地良いマッサージとシグナルで我々はあなたを隅々まで癒やしました。あなたは解放感のあまり歓喜の声を上げ、宙の中を浮遊した気分になった。胸の内を明かすほどに、心も少しずつ開き始めました。それでもまだあなたを悩ますものがありますか? あなたのために私たちは最善を尽くすつもりです」

 悩ますもの、という言葉を聞いた瞬間、ロストンはふと思いだした。

「ジェーンを道連れにしてしまった」

 オフィールドは当然のことを耳にしたかのようにロストンを見つめた。

「そうですね、確かに、あなたと出会ったことで彼女はあぶない行動に出るようになり、結局は逮捕された」

 瞬時に、喜びの感情が後退し、ロストンはオフィールドに対する苛立ちを覚えた。やはりこの人間とは分かり合えないという気がした。

 自分が言ったことに対して彼がただ頷いただけ、とも言えるが、状況をよく理解した上でそうしているとは思えなかった。確かに自分は彼女を道連れにはしたが、彼女を守りたい気持ちは強かったし、今でもそうだ。治療の最中もどこかでずっと彼女のことを心配していた。でも捕まってからではもう遅いし、自分にはもう何もできない。心の中では分かっていた。彼女を守れなかった自分は彼女を愛する資格がないのだと。もう彼女の傍にはいられないのだと。そんな辛い気持ちをオフィールドはまったく分かっていない。

 だがここでその思いを彼にぶつけてもしょうがなかった。ロストンは反論の言葉を呑み、代わりに質問をすることにした。

「いつか、ジェーンとわたしは社会に復帰できるのでしょうか」

「それほど先のことではないかもしれません」オフィールドが答えた。「あなたの症状はよくある症例です。しかし油断してはいけない。しっかり取り組まないと完治はできません。真剣に取り組めば、最後には救われることでしょう」

 そう告げるオフィールドは、強い決意の表情を浮かべていた。



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