第20話



 ロストンは、ふかふかのベッドに横たわっていた。天井には落ち着いた仄かな明かりが点いている。ベッドの傍で一人の女性が立ちながら何かの機器を操作しており、その隣ではオフィールドが回転椅子に座ってカルテのようなものを覗いている。

 目を閉じ、頭のなかで状況を整理した。自分は眠りに落ちていたのだ。この部屋で、しばらく夢の世界に迷い込んでいた。おそらく数分、いや、数十分だったのかもしれない。少し寝たためか、すっきりした気分だ。

 思い返せば、看護婦たちが肩と手に優しく触れてきたのが始まりだった。あの時の彼女たちの優しい態度は、実はルーティン化したプログラムの一部なのではないか、とロストンは疑った。身体を心地よくさせることで自分の心を開かせ、自分の思想や過去の行為など、心に秘めたものを洗いざらい打ち明けるように仕向けているのではないか、と。本当にそうなのかは分からないが、とにかくその時から何かが始まったのははっきりしていた。

 ロストンはこの部屋に移ってきてから、物理療法の一環だと言われ、白人の女性セラピストに何度も身体を揉みほぐしてもらっていた。時には女性二人が同時に取り掛かってほぐしてくれることもあった。それはほとんど素手によるものだったが、時に肘や膝を使ったり、マッサージ用の棒や機具を使ったりしていた。

 途中で、気を引き締めて冷静な気持ちになろうとしたこともあった。だが結局、肩、首、背中、手足、頭皮に施されるマッサージの気持ち良さに身を任せ、心も緩んでしまうのだった。

 そう簡単に心を許すものかと、マッサージの最中に何か不快なことを考えてみたりもした。身体が気持ちいいのはセラピストたちが揉み解してくれるからではなく、自分がそれに身を任せてしまうからだと考えてみたりもした。ところが、いつの間にか身体がとろけ落ちる気分になり、もうどうでもいい、と思ってしまうのだった。

 たびたび、気持よくベッドの上で爆睡することがあった。すると、起きた直後からまた程よいマッサージが始まった。お腹が空くと、一時休憩して、隣の広々とした部屋で美味しいサラダやスープやパンなどを食べられたし、そのまた隣には最新式のシャワールームがあり、温水に浸って身体をすっきりさせることもできた。

 次の日になると、マッサージが中断している合間に、白衣を着た白人の女医が入ってきてカウンセリングを始めるようになった。

 カウンセリングはいつも長く続かず、少し経ったところで中断し、次の機会に持ち越された。おそらく、身体が気持ち良い状態になっているうちに素直な言葉を引き出そうとしているのだろうと思えた。

 女医は背がすらっとしていて、表情と口調は優しく、対応が丁寧だった。威圧的な態度はまったく見せず、連合への忠誠を要求するようなことを言わないのはもちろんのこと、”アメプル″や”グレート・マザー″といった正統派の言葉さえ一切口にしなかった。むしろ向き合う相手を一人の人間として尊重し、異を唱えることなくそっと耳を傾けるといった感じだった。彼女は話を頷きながら聞き、時に相槌を打っては、全て共感できるといった表情を見せた。

 その配慮にロストンは好感を持ったが、実はセラピストのマッサージ以上に、彼女のそうした優しさが彼の心を落ち着かせるところがあった。

 質問にどう答えていいか分からず、言葉に詰まって話が途切れる時も、彼女は急かさなかった。そのような時は、すぐさまセラピストによるマッサージの時間に切り替わり、それが終わるとまたゆっくりとカウンセリングが始まった。

 こっちから話さずとも、すでに体制側は家宅捜査や匿名掲示板の調査やオフィールドの証言を通して自分についてかなり把握しているはずだった。だから自分の思想について隠しておくことに大きな意味はない。単に話す気になるかどうかの問題だった。相手がすでに把握している情報ならば、いっそのこと、内に秘めたものをさらけ出して楽になってしまいたい、という気持ちもあった。

 だから女医に少しだけ心を開いた彼は、思っていることを少しずつ語った。グローバル化や外国人が嫌いなこと、キリスト教以外は全て邪教であること、同性愛を嫌悪していること、婚前の性行為が非倫理的であることなど。さらに、オフィールドを通してすでに体制側に伝わっているはずなので、彼の家で自分がストーンズに忠誠を誓い、国を救うためならば死傷者を出すテロ行為をも辞さないと誓ったことも告白した。当然これは危ない考えだと思われるはずだった。ただ、テロ行為を実際にすることと考えることの間には大きな差があるから、それを言葉で誓っただけでは大きな罪にならないはずだった。ならば、向こうがすでに知っていることを素直に白状した方がいい印象を与え、施設を出る時期が早まるかもしれない、と考えた。

 カウンセリングが終わると、しばらくして女性のセラピストが入ってきたが、前とは違う人だった。白人ではあるが、かなり日焼けをしていて、茶色い肌だった。使う道具も今までと違い、今度は金色のポットとオイルがあり、専用のベッドも入ってきた。どうやらオイルマッサージをするようだった。

 セラピストは、ロストンの頭皮に温めたオイルを垂らし、前頭部、頭頂部、つむじ、側頭部、こめかみ、後頭部、うなじ、耳を両手でゆっくり揉みほぐしていった。揉んでもらっている最中、彼は徐々に眠くなったが、耳のマッサージが終わる頃にはむしろ頭がすっきりして、目が覚めるような感じだった。次にセラピストは、仰向けになった彼の額の上に金色のポットを傾け、その小さい穴から糸のような細いオイルを垂らした。それは、彼女によるとシロダーラと呼ばれるアーユルヴェーダの施術らしかった。温められたオイルがトロトロと流れ、額を優しく撫でていった。まるでオイルが頭の中まで染み込み、脳の疲れをほぐしてくれるような、全ての煩悩を溶かして洗い流してくれるような気分になった。ロストンは次第にうっとりし、夢心地になって、いつの間にか寝てしまった。

 起きると、ちょうど脚のオイルマッサージが終わる頃だった。全身をタオルで拭いてもらったが、オイルを全部落とすために隣のシャワールームに行くように言われた。

 ロストンはシャワーを浴び、身体のオイルと汗をきれいに流した。そして用意された服に着替えてから、部屋に戻った。

 シャワーのおかげで身体はさっぱりしていたが、リラックスし過ぎたためか、まだ強い眠気があった。

 彼はふかふかのベッドに身を投げた。ブラインドの隙間から見えた外は、夕焼けの色だった。ベッドの横では、脳波などを計るための遠隔測定器がチカチカと光っている。次第に瞼が重くなり、目の前が暗くなって、意識が沈んで行った。

 目が覚めると、同じベッドの上だった。

 ブラインドは隙間なく閉められ、白衣の女医が測定器の数値を確かめている。ドアの近くには中年の看護婦と二人の若い看護婦が笑顔で立っていた。女医は、ロストンが起きたのを確認すると、笑顔で彼を見つめた。そして三人の看護婦の方を向いて頷いた。

 すると、中年の看護婦が彼に向かって「ゼロ号室までご案内します」と告げた。

 

 それから数分後、彼は狭い廊下を歩いていた。

 出口の見えないトンネルのような、小さい間接照明が延々と続く仄暗い廊下。前を中年の看護婦が歩き、後ろに二人の若い看護婦が付いてきている。誰も言葉を発しなかった。ロストンも自分から何かを言う気にはなれなかった。話すべきことはカウンセリング中にもう全部話した。

 薄暗闇の中でジェーン、オフィールド、ミスター・アーリントンの顔が浮かんだ。かれらも沈黙している。もしかしたら想像もしない恐ろしいことがこの先に待っているのではないか。今までの自分が全否定され、壊され、まったくの別人に作り変えられてしまうのではないか。徐々に近づく出口の明かりを眺めながら、ロストンは思った。その光は、眩しく、目眩のする、朦朧とした光だった。

 

 ふと気が付くと、ロストンは白い部屋の中にいた。

 大きいリクライニングチェアの上で仰向けになっている。

 どうやってこの部屋に来たのか記憶がなかった。廊下の出口の前で睡眠ガスでも吸わされたのだろうか。

 近くにオフィールドが座っていた。だがどこか遠くにいるような感じがする。

 意識が朦朧とする中で、色々な考えが頭をよぎった。

 オフィールドはどういう人なのだろう。彼はこの施設で何をどこまで決めているのだろう。看護婦やセラピストや白衣の女医に指示を出しているのも彼だろうか。どのようなマッサージを施すのか、どのようなカウンセリングをするのかを決めるのも彼だろうか。彼は人を治療する医者のように見えながら、収監者を見張る監視者のようにも見える。彼はとても理解しにくい、捉えがたい人だった。

 朦朧としていると、どこか遠くから聞こえてくるようにオフィールドの声が聞こえてきた。

「あなたのことが心配です、ミスター・リバーズ。あなたは手に負えないところがある。私のところに来ては、突然自分が異端だと告白しましたね。私はこれを自分の使命だと思い、あなたの担当医になりました。人は不完全なものですから、まずは自分の問題点に気づくのが大事です」

 その声は、きっと自由なところで会うことになるだろう、と言っていた夢の中の声と同じだった。

 続けてオフィールドは、ここに来てからの体調などについて質問した。ロストンは適当に答えたが、自分が何を言ったのかすぐ忘れた。徐々に目が覚めてきてはいたが、まだ朦朧としていた。部屋は目眩がするほど明るく、見渡す限り全てが白だった。

 ロストンはいつの間にか自分の身体が軽くなり、浮いているような感じがした。空気によって優しく、そっと抱き上げられているような感覚。

 オフィールドもいつの間にか優しい、そしてどこか嬉しそうな笑顔になっていた。その顔は肌がつやつやで、皺もなく、引き締まっている。彼は思っていたより若いのかもしれない、とロストンは思った。

 オフィールドの手には中型のスマートスクリーンがあり、彼はそれをテーブルのスタンドにのせた。画面には数字やメーターやボタンが映っている。

「また会うのは自由なところでですか、とあなたは私の家で訊きましたね。ここであなたは自由になるでしょう」

 そう言うと彼は、スマートスクリーンを押した。

 突然、ロストンの身体にじわっとした快感が広まった。刺激的なものではなく、内側からじっくり満たされていくような感じ。その感覚が何によって引き起こされたのかは分からなかったが、自分の全身を癒やしてくれる何かではあった。少しずつ、身体の形が消えていくような、意識だけが浮遊していくような感覚。シロダーラの施術を受ける時も似たようなものを感じたが、これはそれを遥かに超えるものだった。ロストンは、あまりの心地よさに目を瞑った。

「幸せな気分でしょう」オフィールドの声が聞こえた。「身体が軽くなって浮かび上がる感じがすると思います。意識が身体の殻を抜け出て、空へと広がっていくような」

 ロストンは快感に浸って、答えられなかった。

 しばらくすると「ではレベルを落とします」というオフィールドの声が聞こえた。

 すると、浮遊していたロストンの意識が一瞬にして身体の中へと舞い戻った。

 目を開けてみると、どうやらオフィールドはスマートスクリーンを押して快感の度合いを操作しているらしかった。元に戻っただけなのに、ロストンは自分の身体を非常に重く感じた。

「先ほどの解放度はレベル四です」オフィールドがスクリーンを指差しながら言った。「御覧の通り、レベルは十まであります。これを押すと、あなたが寝ている間に体内に注入しておいた数百機の極小ナノマシーンが、あなたの細胞にシグナルを発信し、解放感をもたらすホルモンを分泌させます。必要と思われるタイミングとレベルで私はあなたに解放感を与えたり、元に戻したりできます。麻薬と違い、中毒性はないので副作用の心配はありません。あと、ナノマシーンは脳波と脈拍も計測でき、嘘発見器の機能も備わっているので、自分が本当に思っていることを素直に答えてください。嘘をつくと治療が進みません。正直に答えれば大きなご褒美があることでしょう」

 ロストンはオフィールドの言っていることがすぐに飲み込めず、しばし考えた。自分の身体の中に小さい機械がいっぱい入っていて、それが身体に快感を味わわせているということは分かった。だがそれは、血流の中を回っているということなのだろうか? それとも血管の外なのだろうか? 動き回ることで細胞を傷つけたりしないだろうか? 色々な疑問が湧いてきたが、ついさっきまで快感に浸っていたからか、口がうまく開かなかった。

 気が付くと、和らいでいたオフィールドの表情は、いつの間にか引き締まっていた。じっとロストンを見つめている。医者として、この施設の経営者として、必ず成し遂げねばならない、といった意気込みのようなものの表れかもしれない。

「あなたには真摯に向き合うつもりです、ミスター・リバーズ」オフィールドが言った。「あなたはご自身の問題が何かをまだ十分に理解していません。無自覚なのです。実はこれは一種の精神病で、あなたの病状は、物事の変化に対して過剰な拒否反応を起こすというものです。変化を忌み嫌い、変化してしまうようなものは正しくない、真実ではないと思い込んでいる。変化しないものだけが真実であると思い込んでいます。幸いなことに、これは治療可能です。でも今までに治らなかったのは、あなたのせいではなく、我々の注意が隅々まで行き届いていなかったからでしょう。もっと早くあなたの悩みに気付き、手を差し伸べるべきだった。でもこのように、もう私たちがついていますから、大丈夫です。一緒に治していきましょう」

 ロストンは耳を疑った。異端派の価値観は精神病だと言うのか? 自分が狂っているから捕まったと言うのか? 

「では、具体的な質問から始めましょう」オフィールドはテーブルの上のカルテのようなものをめくりながら言った。「世界軍の創設について、どう思われますか?」

 ロストンは先ほど感じた怒りで、朦朧としていた意識が少し覚めた気がした。だがまだ十分に冴えているわけではない。彼はまず、状況を整理しようと努めた。

 いったいオフィールドは質問を通して何を引き出そうとしているのだろうか? 答えを聞いて治療をしようとしているのか? それとも、これは治療を装っているが、実は取り調べで、危険思想を自白させ、罪状を確定させようといるのだろうか? だが、自分がどういう思想を持っているかについて、オフィールドは既によく知っているはずだ。もう警察が家宅捜査をして匿名掲示板のことが割れているだろうし、自分は彼の家でストーンズとSS同盟に忠誠を誓うと言った。女医にもすでに色々と話している。すでに隠していることなど何もない。だからこのようなやり取りは自分の罪状を増やしたり、精神病を直したりするための情報収集ではないように思えた。

 そこでロストンはハッとし、確信した。

 そう、この診療時間は、自分が精神病だと受け入れさせるためのものなのだ。精神病患者として扱うことで、異端派の価値観が単に正統派と異なる価値観なのではなく、精神病だと思わせるためのものなのだ。ならば、はっきりと主張しておかねばならない。自分は精神病ではないと。異端派の思想は精神病なんかではなく、しっかり理屈の通ったものであると。

 ロストンは意識が少しはっきりしてきたので、理屈で対抗することにし、質問に答えた。

「世界軍の創設は間違った選択です。自国の軍人が世界のことを優先し、自国を守るために動けないのは、おかしい。自国の軍隊は自国のために存在するのであって、他国や世界のためにあるのではない」

 その言葉に、オフィールドが不思議そうな顔をした。

「では世界軍を作るよりも、過去のように国家間で戦争が勃発する可能性を抱えたままの方が良いということですか? それが結局は、自国の破壊につながるとしても?」

「そうならないように、自国の軍隊が自国をしっかりと守るべきなのです」

 オフィールドが無言で頷いた。だが、おそらく同意を意味する頷きではなかった。彼はカルテに何かを書き、ページをめくった。

「では次の質問をしましょう。結構前の話になりますが、ラムフォードという反体制派だった人が体制派に転向した後、暫くしてそれを撤回し、その後また体制派になったのをご存知ですよね。そして転向後もかれが反体制派の幹部と会っていたことを示す写真と記事をあなたは目にした。えっと、これですね」

 写真と記事の切り抜きがスマートスクリーンに映った。ロストンは上体を起こしてそれを眺めた。社内で見たのと同じものだった。どうして自分がそれを目にしたのを知っているのだろうか、とロストンは驚いた。あの写真と記事は社内で目にしただけで、ダウンロードして所持していたわけでもない。自分がそのことについて尋ねた記者から聞き出したのだろうか。それともその話をしたジェーンを尋問して……

「ところがその記事はなぜか雑誌に載らなかった」オフィールドが続けた。「そのことについてどう思いますか?」

 ロストンは再び後ろにもたれ、答えた。「記事が掲載されていたら、ラムフォードに対する世間の印象は変わっていたでしょう。でも掲載されなかったので何も変わらなかった。マスコミの選択によって、物事の印象はかなり影響されることを知りました。過去を隠したり、何度も書き換えたりと、マスコミのやることはまったく信頼できない」

「記事が彼の安全を脅かす可能性を配慮して、掲載が取り消しになった可能性は考えましたか? また、記事が誤解に基づくものだった可能性は?」

「写真がちゃんとあるじゃないですか」ロストンが反論した。

「反体制派の人と一緒に映っていたからといって、反体制派と結託しているということになるのでしょうか。ラムフォードがその幹部に転向を撤回するよう脅迫されていた可能性もあるのでは?」

「それは都合のいい解釈だ」

「写真だけを見て結託していると考えるのも都合のいい解釈なのでは?」

「普通に見たらそう見えるでしょう。そもそも……」一瞬、言葉に詰まった後、ロストンは続けた。「たとえ違う解釈の余地があるとしても、掲載するか掲載しないか、内容をどのように書くかによって、印象が変わるのは間違いない。マスコミが真実というものをコントロールしているのは変わらない」

「そういう側面はあるかもしれませんね」オフィールドが答えた。「しかし、その時に事実と思われることを信じ、新たな事実が明るみに出たら、それまでの認識を撤回し、間違いを認め、新たな情報に基づいて事実を捉え直すというやり方以外に、真実に辿りつく方法があるでしょうか。事実関係が複雑な場合は、何が本当か最初から明らかではありませんから、仮説と検証、新たな事実の発見に基づく再検証というプロセスを経る以外に、真実に近づくことはできないのです」

 ロストンは苛立ちを覚えた。

 今オフィールドの言っていることは、オープンスピークでいう”対立の統合″だった。事実をめぐる相反する証拠がある場合は、両者をお互いの良き検証材料として使い、事実の認識をより多面的なものへと統合するというものだ。

 しかし、常に新しい情報を取り入れて事実を捉え直すというのは、終わりのない過程だ。今の時点で正しいとされているものも、常に後で覆されることになる。そしてそれは正統派の価値観だって同じはずだ。今は正統派が正しいとされているが、それは後で覆され得る。なのに、なぜ正統派の見解を自分は強いられなければならないのだ? なぜそんな不確かなものを自分は押し付けられ、自分の考えは間違いだと排除されなければならない? 

 ロストンは自分の中で強い敵対心が湧き上がるのを感じた。

 顔を上げてオフィールドを睨みつけると、彼もこちらを直視している。医師として、そしてこの施設の経営者として、自分を転向させてみせるという意気込みが滲み出ている。

 オフィールドが口を開いた。

「ご存知のように、世界市民連合のスローガンにこのようなものがあります。過去の多面性を明らかにすれば未来も多面的なものとして開かれ、現在の多面性を明らかにすれば過去の多面性も明らかになる」

 ロストンは義務教育で習ったその意味を思い出そうとした。過去に対する一面的な認識を捨て、過去を多面的なものと捉えれば、未来に向けての姿勢も多面的なものになるという意味だ。また、現在に対する一面的な認識を捨て、それを多面的なものと捉えれば、現在の原因である過去も多面的に捉えられるという意味だった。

「このスローガンについてはどう思われますか、ミスター・リバーズ。過去は多面的だと思いますか?」

 ロストンは再び苛立ちを覚えた。答えははっきりしている。

 だが口を開こうとしたその瞬間、スマートスクリーンが目に入った。

 ふと、ここで「はい」と言えば、解放感のレベルを上げてくれるのではないか、という考えが頭をよぎった。

 オフィールドは一瞬言葉に詰まったロストンを見て、話を続けた。

「質問が少し難しかったかもしれませんね。では質問の言葉を少し変えましょう。不変なものとしての過去はどうやって知ることができますか? 自明で確固とした、揺るぎのない過去というものがあるのでしょうか?」

 ずっとスマートスクリーンが目に入ったが、ロストンは誘惑を撥ね退けて答えた。「もちろんあります」

「そのような過去はどこに存在するのですか?」

「聖書です。神の御言葉にです」

「聖書の中の歴史記録ですか。他には?」

「過去から引き継いできた人種、民族、文化、宗教、国家の特性」

「昔からあった特性ですか。なるほど。今言及された人種、民族、文化、宗教、国家の特性は、はじめから今までずっと同じだったのではなく、時代とともに大きく変わってきたことを多くの研究が明らかにしています。また、同じ時代、同じ地域内でも多様な特性とアイデンティティーが混在していたことが明らかになっています。ならば、過去はやはり多面的なものではないでしょうか?」

 オフィールドの挑発的な言葉に、ロストンは気を引き締め、反論に乗り出した。

「多面性を発掘しようとすれば、そりゃ何かしら多面的な部分は見つかるでしょう。いつの時代だって例外はあります。しかし例外があるからといって、全体としての特徴が無くなるわけではない。多面性を強調しすぎると、全体の特徴や特性を無視することになる。連合はそれを無視している」

 その言葉に、オフィールドは不思議そうな顔をした。「それなら同じく、一面性を強調しすぎると、多面性を無視することになりませんか?」

 ロストンは一瞬たじろいだが、すぐ反論の言葉を見つけた。

「それは例外の数にもよるでしょう。正統派は、ほんのちょっとの例外をもって全体の特徴を無視しているんですよ。それに、人は、揺るぎない確固たるアイデンティティーを求めるもの。それは自分を精神的に支えるための本能のようなものです。なのに正統派は、今までのアイデンティティーを解体して、それを多面的に捉え直せという。それは自己分裂でしょう。精神病なのは正統派の方ですよ」 

 ロストンのその言葉にオフィールドは呆れたような表情をした。そして身を乗り出しながら口を開いた。

「アイデンティティーは、一つに絞らなければ確固たるものにならないのでしょうか。確固たる多面的なアイデンティティーも可能です。人はキリスト教徒でありながらユダヤ人の親友を持つことができるし、白人でありながら黒人の文化をこよなく愛することができ、男性でありながら自分を女性のように感じることができます。あなたはそれを理解していない。そして正にそれだからこそ、あなたはここにいるのです。あなたは、自分の信じるものしか認めず、それ以外をこの世から排除しようとする。善良な市民として受け入れるべき宗教や文化や人種の多様性を拒むだけでなく、それをテロ行為で攻撃するとさえ誓った。あなたは精神医学の観点で言えば精神障害であり、社会的な観点で言えば異端派です。しかし、元々持っている精神の柔軟性を取り戻せば、現実の多面性を認識できるようになるはずです。あなたは勘違いをしていて、現実を内面的な直観で捉えられる何かだと信じている。言い換えれば、自分がそうであると信じたことがそのまま現実だと思い込む傾向があります。自分の目に明らかなことは、他人による検証など必要ないと考えているのです。しかし、ミスター・リバーズ、現実は内省で捉えきれるものではない。現実は個人の精神の中で完結するものではなく、客観的なものとして存在します。ただし、現実は複雑です。はじめから自明ではないので、多くの人が様々な視点、手段、理論をもって観察、分析、検証、修正をし、少しずつ明らかにして行くものです。ですから現実とは、誤認と修正を繰り返しながら徐々に積み上げて行く共通認識と言えます。時には天動説のように、大多数の人が信じていた共通認識さえもまったく見当違いだった場合がある。しかしそれでも、修正を繰り返しながら新たな共通認識を積み上げる以外に方法はありません。あなたが理解すべきなのは正にこの点です、ミスター・リバーズ。人は間違うことがある。間違い得るからこそ、多様な観点にオープンな姿勢が必要なのです。多様な社会の構成員として、排他的な姿勢を捨てなければならないのです」

 立て続けにそう言うと、オフィールドは口を閉じた。しかしそれは次の言葉を見つけるための一瞬の沈黙でしかなかった。

「警察があなたの家を調査済みです。あなたはスクリーンに向かって書きましたね。自由とは、二足す二が四のように当然視される価値観を拒否できる自由だと」

「ええ……」ロストンは困惑しながら答えた。

 オフィールドが親指以外の四本の指をまっすぐ伸ばして見せた。

「二足す二が四であるように、多様性を認めることで自由が可能になることは、自明ではありませんか?」

 ロストンは反論の言葉を探した。

「そのような価値観を押しつければ、それは自由ではなく、強制です。自由を奪っている」

「では、多様性を拒否する自由も許されるべきだと?」

「そうです」

 その時、突然、ロストンの全身にじわっとした快感が広がった。

 薄目でスクリーンを見ると、レベルが五を指している。

 ああ、気持ちいい……

 全身が徐々に、宙に浮かび上る感覚になっていった。そして吸い込んだ息が、歓喜の声となって漏れ出た。頭の片隅で自制しようと思っても、声が出るのを止めることができない。

 しばらくしてオフィールドがスクリーンを押し、レベルを落とした。すると快感が突然収まった。

「質問の表現を少し変えましょう」オフィールドが言った。「多様性を拒否する自由だけでなく、多様性を拒否する価値観を広める自由も許されるべきだと思いますか?」

 快感は収まったが、その余韻はまだ残っていた。朦朧とし、質問の意味を理解するまで時間がかかったが、ロストンは何とか気を取り直して答えた。

「そうです……」

 その時だった。

 突然、爆発的な快感が全身に広がった。スクリーンのレベルは六を指している。気がつけば、自分はいつの間にか身体をよじらせ、喘ぎ声のようなものを出している。羞恥心を感じながらも、止めることができない。

「もう一度聞きます。排他的な思想は許されるべきですか、ミスター・リバーズ?」

 快感に浸りながらも、自分の信念を曲げるものか、とロストンは自分に言い聞かせた。そして喘ぎ声を必死で抑えながら答えた。

「は……い……」

 その時、レベルがさらに上がったのを彼は感じた。レベルの数字を確認したわけではない。もう自分の意思で目を開けることができなかった。果てしなく解き放たれる解放感の中、瞑った瞼の向こうに夜の雲が見え、そのまた向こうに無限の宇宙空間が広がり始めていた。   

「あなたの答え次第でレベルを変えることができます」オフィールドが近くで囁いた。「ではもう一度聞きます。危険思想は許されるべきですか?」

「ああ……」

 ロストンはもう考えることができず、ただただ快感に浸っていられるだけだった。

「答えないとレベルが下がりますよ、ミスター・リバーズ。本心を言ってください。危険思想を広める自由は許されるべきでしょうか?」

 ロストンは遠のく意識の中で答えた。

「わかりません……考えることができないんです……」


 ふと目を開けると、オフィールドがいた。厳しい目で自分を眺めている。

 気持ち良さのあまり、眠ってしまったようだった。あるいは、失神だったのかもしれない。

 快感は、もうすっかり消えていた。しかし全身から微熱が出ていて、暑く感じた。

 オフィールドは無言でこちらを見続けている。

 ロストンはオフィールドが自分を治療する精神科医ではなく、尋問者なのだと確信した。ただし、彼は心身を苦しめて白状させる尋問者ではなく、快楽を餌にして転向を迫る尋問者だった。

「自分の気持ちに素直になってください、ミスター・リバーズ」オフィールドが厳しい口調で言った。

「ずっと素直ですよ」ロストンが答えた。「わたしには押し付けられた価値観を拒否し、自分の信じる価値観を貫く自由があります。それが本心です」

 その言葉に、オフィールドは再び呆れた表情をした。

「まったく理解が進みませんね。あなたの主張する危険思想の自由は、他人の持っている自由を侵すのです。それがお分かりにならないのですか。あなたは、他人の自由を奪って良いという自由を主張しているのです。自由を守るためには、禁止されるべき自由もあります。立派な社会の構成員、善良な市民に生まれ変わるためには、自分が言っていることをもっと真剣に顧みないといけない」

 ロストンは言い返す言葉を探した。すでに快感も安らかさも消え、苛立ちだけが芽生えていた。

 だがオフィールドは言い返す間も与えず、「もう一度お聞きしますよ!」と言い、スクリーンを押した。

 その瞬間、ロストンの体中に今までを超える恍惚とした快感が広まった。

 目の前が真っ白になり、どこか遠くから、歓喜の声を上げている自分の声が聞こえてきた。全ての神経がほどけ、溶けていくようだった。この解放感がずっと続いて欲しい。頭に浮かぶのはただそれだけだった。

 だがしばらくして快感が一瞬にして収まった。オフィールドがレベルを下げたのだ。

「危険思想を広めるのは自由ですか、ミスター・リバーズ?」

 ロストンは言葉が出なかった。信念を曲げるものか、と心の中で自分に言い聞かせたが、先ほどの解放感が忘れられない。

「自分の気持ちに素直になって答えて下さい。危険思想を広めるのは自由ですか、それとも自由ではないですか?」

 ロストンはなんとか妥協点を探して、言葉を絞り出した。「お互いの自由がぶつかることもあると思います……」

 それを聞いて、オフィールドが叫んだ。

「もっとはっきりと、素直に答えなさい!」

 その時、レベルが八か九に上ったのかもしれない。身体の感覚を失う解放感の中、ロストンは自分が今どういう状態にあるのか認識できなかった。泣いているのか、笑っているのか、それとも叫んでいるのか。ただ、目の前には広大な宇宙が広がっていて、そこに浮かぶ自分の身体が、光を超えるスピードで無数の星々を通り抜けていた。横切る星々は徐々に線となり、時間とともに丸く曲がって、時空のトンネルを形成している。それは二足す二が四にも五にもなりうる異次元の空間だった。しばらくその光景をうっとりして眺めていると、意識の向こう、どこか遠くから自分の大きな喘ぎ声が聞こえてきた。まるで知らない他人の声を聞くようだった。

 気がつけば、声が消え、目の前にオフィールドがいた。

 レベルを下げたのだろう。彼は手を広げ、四本の指を見せている。

「二足す二が四であるように、多様性を認めることで自由が保障されるのは、自明ではありませんか、ミスター・リバーズ?」

「それは……」まだ快感の余韻が強く残っていたが、ロストンは朦朧としながら答えた。「四でしょうか……もういいでしょう……四でも五でも何でもいいんです」

 オフィールドは無表情で「わかりました」と言い、カルテに何かを書き込んだ。

 それを見ながら、ロストンは自分の身体を重く感じた。神経が張り詰めていて、緊張感と不安感のようなものが心に圧し掛かっている。いや、もしかしたら、レベルを上げた時と比べてそう感じるだけで、これが普通の状態なのかもしれなかった。

 そしてそこに考えが至ると、彼は自分がモルモットにされていることを強く実感した。

 オフィールドは自分を実験用の動物のように扱っている。治療の名目で自分に快楽を与え、飼いならそうとしている。自分を言葉で通じ合える人間として見ていない。対等な人間としてなんか見ていないのだ。そう思うと、抑えきれない怒りがこみ上げてくるのを感じた。

 ロストンはオフィールドを睨みつけた。

 近くでよく見ると、皺ひとつ見当たらない、苦労を知らない顔だった。自分よりはるかに年上だと思っていたが、もしかしたら年下ではないのだろうか、という気さえした。自分よりも年下の若造に身体をもって遊ばれたのかと思うと、さらに悔しい気持ちがこみ上げてきた。もし気力が残っているなら、身体を起こして殴りかかりたいぐらいだった。オフィールドこそが最大の敵だ、とロストンは確信した。そう、自分は親近感を持って近づいたのに、彼は仲間のふりをして自分を騙し、罠に嵌めたのだ!

「ミスター・リバーズ、聞いていると思いますが、ここがゼロ号室です。どうしてあなたはここに連れられて来たと思いますか?」

 睨みつけられていることなどお構いなしにオフィールドが訊いてきた。

「それは、転向させるため……」ロストンは意識がしっかりしてきてはいたが、快感の余韻が残って、声に力が入らなかった。

「違います。もう一度よく考えてみてください」

「従順にさせるため……」

「違いますね」オフィールドは真剣な表情で語気を強めた。「まったく違います。体制に従わせることが目的ではありません。あなたがここにいるのは、あなたが他人に危害を加えるのを止めさせるためです。その精神障害を治療し、言葉や行動で人を攻撃したり傷つけたりしない、健全な市民に生まれ変わらせるためです。つまり、あなたの精神障害は、危険思想を持つこと自体にではなく、他者を傷つける思想を公にしようとするところ、より多くの人がそれを共有すべきだと考えているところにある。分かりやすく言うと、ミスター・リバーズ、あなたの内面の思想はあなたのもので、我々はそれを別の何かに変えようとしているのではありません。問題は、あなたが内面の危険思想を表面に出して広めようとすることにあります。表面に出してしまうと、それはもう私的ではなく公的な行為ですから、社会のルールが適用されます。我々の関心事はあなたの内面ではなく、外に向けた表現と行為なのです。私の言っていることがお分かりですか?」

 そう話すオフィールドの顔はやはり、とても若く見えた。苦労を知らない、皺ひとつない顔。こちらをじっと見ている。

 ロストンはまたしても強い憤りを感じた。どうしてこんな若造に身体を弄り回されなければならないのだ? これからも、言いなりになるまでプログラム通りに解放感のレベルを上下させるに違いない。

「身体の感覚を変えられて、もしかしたら不愉快に思われているかもしれません」

 全てをお見通しであるかのように、オフィールドが言った。

「しかしミスター・リバーズ、これは正式に認可されている治療方法です。まず安心して頂きたいのは、治療に苦痛はまったく伴わないことです。歴史上、支配階級は暴力、苦痛、恐怖を利用して人々を従わせてきました。白人は黒人奴隷に鞭を打ち、教会は逆らう者を異端者として火刑に処し、独裁者は民衆を拷問し、帝国は被支配民族を虐殺した。監禁、拷問、強姦、凌辱、強制労働など、あらゆる手段で人々を脅かし、苦しませ、従わせた。そうすることで自分たちの支配を確固たるものにしようとしたのです。しかしながら、そのやり方では支配はせいぜい数十年、数百年と、長く持たなかった。なぜなら、人々の心に深い復讐心を芽生えさせたからです。従わせるための暴力が大きければ大きいほど、復讐心もそれに比例して大きくなる。抑えつけられた怒りは、いつしか爆発し、革命につながります。しかし、永遠の安定を志向する世界市民連合は、そのようなことはしません。まず、法の前で皆が平等に扱われ、基本的な人権が尊重されます。そして、努力と工夫をした者が金銭面でも地位の面でも必ず報われる仕組みを作っています。だから体制に対する大きな不満や復讐心が生まれません。暴力や強制ではなく、報酬や幸福感を用いた社会安定を実現しているのです。そして、ミスター・リバーズ、あなたもその仕組みの中にいるのです。あなたがここで頑張って精神障害を克服し、社会に危害を加えることを止め、正統派に生まれ変わったことを公に宣言すれば、それが社会安定への一助となる。そのためなら、我々は支援を惜しみません。まず、数ヵ月分の生活費を賄える社会復帰支援の補助金が出ますし、良い職場で働けるように我々が全力でサポートします。それに、あなたは精神障害の困難を乗り越えたサクセスストーリーの主人公としてメディアで報道されることになります。周囲の仕事仲間や住民が、あなたの努力を褒め称えるでしょう」

 ロストンは疑問に思った。先ほどオフィールドは、内面の思想を変えようとしているのではないと言っていた。だが今言ったのは、正統派に転向すればサポートするという話。矛盾しているではないか。正統派になれば支援をするが、異端派のままなら支援しないというのは、結局、正統派の思想を信じるように誘導することだ。そしてもう一つ疑問なのは、かれらが何故そこまでしようとするのか、という点。自分は反体制派の重要人物でも何でもない。なぜ連合はそこまでして、影響力のない一般人の転向にこだわり、一人一人にこんなプログラムを実施したり、復帰後のサポートをしたりと、多大な時間と労力を費やすのだろうか。そこまでしなくても数少ない異端派はもう体制にとってそれほど脅威ではないはずだ……

「あなたが今思っているのは、おそらく」

 オフィールドが全てを察しているかのようにロストンを見つめ、口を開いた。

「あなたのために、我々がそこまでサポートをして得られるメリットは何か、ということですね? ここに来る患者さんたちによく質問されることです。公に転向の宣言をしただけで、そんなに全てがうまく行くわけがない、何か裏があるはずだと」

 ロストンは考えを見透かされたことに困惑しながら「そうです」と答えた。

 オフィールドは真剣な顔でさらに身を乗り出した。

「ミスター・リバーズ、あなたはダイヤモンドの原石なのです。磨くほど綺麗に輝く原石です。先ほどもご説明したように、我々は昔の体制と違って、苦痛を加えて人々を従わせるようなことはしない。人々が自らの自由意志で、自ら進んで体制を積極的に支持してくれなければ、長期的な社会安定は望めないのです。ですから我々は異端派に正統派の思想をお勧めはするけれど、強要はしません。心の中に秘めた危険思想を取り締まりはしない。そんなことをすれば復讐心が生まれてしまいますから。我々が取り締まるのは、危険思想を表に出して公にする行為に限られます。ただし、万が一、自らの自由意志で正統派への支持を公表した場合には、先ほどもご説明したように、大きなご褒美があります。支持を表明しない場合は、特に何もありません。あと数日間ここで気持ちよく過ごした後、外の世界に戻るだけ。選ぶのはあくまであなたです。そう言えば、反体制派とつながっているとあなたが疑っていたラムフォードですが、彼もかつてこの施設で過ごしました。彼はここで転向を表明した後、外の世界でそれを撤回すると宣言し、そしてまたその撤回宣言を撤回するという、二転三転した様子を見せましたが、あれは反体制派からの脅迫があったからです。脅迫に屈して転向を一度撤回したのです。ここにいる間は幸せそうな顔でしたよ。はじめの頃はいつも不機嫌そうだった顔が、解放感を得て次第に穏やかになり、よく声を上げて笑うようになりました。治療が終わる頃には充実感に満ちた表情で、それまでの考え方を懺悔して、グレート・マザーの愛を実感したと語っていました。その更生ぶりは著しく、この施設から出たらまた心が汚れてしまうのではないかと本人が心配していたほどです」

 美しい思い出を振り返る時のような、いきいきとした声だった。オフィールドの顔にはいつの間にか優しさが戻っていた。

 だがロストンは表面的な姿や言葉に騙されるものか、と気を引き締めた。そもそもオフィールドは本当のことを言っているのだろうか。全ては自分を思い通りに操るための、緻密に練られた言葉なのかもしれない。はたして彼は精神科医としてもしっかりしているのだろうか。カウンセリングをした女医と違い、自分がこれまでに考えを重ねて辿りついた見解を彼がちゃんと吟味しているとは思えない。はなっから間違えたもの、精神障害だと決めつけている。思い込みが激しいのは自分ではない。彼の方なのだ。

「治療が終われば、ミスター・リバーズ、あなたは新しく生まれ変わるでしょう」

 オフィールドが優しい声で言った。

「どのような異端派にも我々は救いの手を差し伸べます。巣立ちができるようにサポートしますし、ここでの特別な経験は今後の人生の糧になるでしょう。どうかご安心ください。我々はあなたを別のものに改造しようとしているのではなく、あなたが持っている本来の人間性を回復しようとしているのです。人として持っている自然な感情を呼び覚まそうとしているのです。本当の愛や思いやりや慈しみなど、心の中に埋もれていた感情が蘇り、あなたは満たされるでしょう。あなたが自立して飛び立てるように、我々は最大の努力を注ぐつもりです」

 彼はそこで口を閉じ、自分の座っている椅子を少し高く調整した。そしてスマートスクリーンへと手を伸ばした。

「これから、前のとは違うタイプのシグナルを使います」

 突然の言葉に、ロストンは意味が理解できなかった。違うタイプ?

 オフィールドが見下ろしながら言った。「では、目を閉じてください」

 その瞬間、ロストンの身体と心に安らかな静謐が訪れた。

 目の前が徐々に白になった後、意識が今度は宇宙ではなく海へと向かい、気がつけば、暖かい日差しの中、仰向けになった自分がエメラルドの海に浮かんでいた。今度は快感ではなく、安らぎをもたらすナノマシーンのシグナルのようだった。自分の背中に広大な海、そしてそれを抱きかかえるさらに広大な地球の地殻を感じた。

「質問しますが、目は瞑ったままでも結構です」オフィールドが言った。「世界軍の創設についてどう思いますか?」

 ロストンは後ろに凭れたまま「間違った選択です」と即答した。気持ちは落ち着いていたが、なぜか頭の回転は速くなっている気がした。

「世界軍によって永遠の平和が実現してもですか?」

「見せかけの平和に過ぎません。自国の軍がなければ自国を守れません」

「戦争が勃発して多くの死傷者が出てもいいのですか?」

「見せかけの平和によって人々は搾取され、奴隷にされているのです」

 そう、世界軍の創設は、国境を無力化して世界を征服しようとする大資本家の企みであり、形を変えた戦争なのだ。ロストンは心の中でそう付け加えた。

「ラムフォードが反体制派と結託しているという記事が掲載されなかったのを、どう思いますか?」

「マスコミによる情報操作です」

「社会を維持するために危険思想の表現を禁じるべきなのは、二足す二は四のように自明ではありませんか?」

「自明ではありません」

「本当にそう思っていますか?」

「はい」

 ロストンにとって、自分の答えは全て自明なものだった。オフィールドが同じ質問を繰り返しても、変えるべき答えは何一つない。おそらく、ナノマシーンが細胞に発信するシグナルの種類を変えて、同じ質問をした場合に答えが変わるのかを確かめたいのだろう。だが何度訊いてきても、正統派の価値観は自明ではないのだ。

「なるほど」オフィールドが言った。「もう目を開けて良いですよ」

 目を開けると、頭が冴えきっているような感覚はなくなった。

 オフィールドが暗い表情でカルテに何かを書き込んでいる。それが終わると、彼は椅子を回して再びロストンの方を向いた。

「あなたが掲示板に書き込んだものを読みましたが、私に親近感を覚えていたようですね。私もあなたと本当に親しくなりたいです。今日の治療プログラムはこれまでにしますが、何か要望や質問などありますか?」

 ロストンは少し考えた後、気になっていたことを訊いた。

「ジェーンはどうしていますか?」

 オフィールドは一瞬スマートスクリーンを確認し、またロストンの方を向いた。

「そうですね、他の施設にいて私の担当ではないのですが、彼女もあなたと同じく、治療中に拒否反応を示しているそうです。体制への反抗心など、今のところ何も変わらず、そのままだと聞いています。まだ治療の最中なので今後どうなるか分かりませんが」

「彼女にもシグナルを使ったのですか?」

「さて、どうでしょう。私の管轄ではないので詳細はわかりませんが、人によって治療方法は少しずつ異なります。他の質問は?」

 ロストンはジェーンのこと以外はそれほど切実に知りたいことなどなかった。だが咄嗟にあることが思い浮かんだ。オフィールドの地位なら何か知っているかもしれない。

「グレート・マザーには実在のモデルがいますか? 連合の後ろで全てを操っている人物だという噂があります」

「いいえ、連合の理念を視覚的に表現するために作ったイメージキャラクターです。モデルにした実在の人物などいません」

「参考にした人物がまったくいないのですか?」

「死んだり、空間に制限されたりする有限なものをモデルにはしません」

 オフィールドの言葉をそのまま鵜呑みにするつもりはなかった。何もないところに噂は立たない。裏に何かがあるかもしれない。しかしここで同じ疑問を何度ぶつけても返ってくる言葉は変わらないだろう。

「SS同盟は存在するのですか?」ロストンはもう一つ気になっていたことを訊いた。

 その質問に、オフィールドが呆れた顔をした。

「ニュースでいつも報道されているではありませんか。存在しますよ。自明のことだと思いますが、なぜそんなことまで嘘かもしれないと思ったのでしょうか?」

 ロストンは押し黙り、信じていたあなたに騙されたせいだ、と心の中で叫んだ。ストーンズもSS同盟も、すべて異端派を騙すための連合のでっち上げではないかとさえ思えた。

 だがオフィールドに言い返そうとした瞬間、ロストンは今の自分にもっと直接的に関係する別の質問が浮かんだ。

「このゼロ号室では、これからもずっとシグナルを使うのでしょうか?」

 オフィールドの口元に笑みが浮かんだ。

「ここでどのような治療が行われるかは、経過観察をしながら決めて行くことになります。あなたの心の状況によって変わるので、あなた次第ということになります」

 そう言うと彼はスマートスクリーンに映る時間を確かめた。

「ではミスター・リバーズ、そろそろ次の予定がありますので。看護婦が案内に来るのを待っていてください」

 オフィールドは椅子から立ち上がると、軽く会釈をして部屋を出て行った。



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