第19話



 ロストンは校外にある博愛園の関連施設にいた。

 施設は複数の建物と公園から成るが、いま彼がいるのは天井がガラスのドームになっている大きな建物で、中は野球場ぐらいの広さがあった。その広々とした空間に太陽の明るい光が降り注ぎ、ドームの形に合わせて円筒状になっているベージュの壁にも大きな窓が多くついていて、外の明かりと景色を招き入れている。そして窓の向こうには自然公園が見え、小鳥の囀りが微かに聞こえていた。床の中心には円が描いてあり、その中心に向かって、椅子がまばらに置いてある。

 逮捕後、留置場を経てこちらに移送されてから、ロストンはゆったりとした時間を過ごしていた。忙しいことは何もなく、一人でいたい時は隣接する建物の個室で休めたし、たまに対話プログラムがある時にはこのドームに来て参加した。食堂の給食も、栄養バランスが良く、美味しかった。スマートスクリーンらしきものも見当たらない。

 先ほど昼食を食べて満腹になったロストンは、運動で消化させようと、白い病衣を着たまま、ドームの中をゆっくり歩き回っていた。ドームの中だけでなく、施設の敷地内であればどこでも自由に歩くことが許されており、実際に誰も邪魔をしなかった。

「こんにちは、ミスター・リバーズ」と、ある女性が声をかけると、笑顔を浮かばせて通り過ぎた。ここで勤めている看護婦だった。

 彼はドームの中をゆっくりと回り続けながら、今までの一週間を振り返った。

 はじめに連れて行かれたのは、こことは環境のまったく違う、警察の留置場だった。収監された人たちはみな同じ鼠色の服を着て、同じものを食べ、同じサイズの檻に入り、同じスケジュールで動いていた。だが、それまで自分の持っていたイメージと違って、檻の中の簡易ベッド、トイレ、床は清潔だった。配備された小型ロボットが常に掃除をしているからだった。試しに壁にペンで落書きをしてみたが、起きた時には綺麗に消えていた。留置場は音も静かで、セキュリティーのためか、所々にノイズキャンセリング機器が設置されているようだった。斜め向かいの檻の中で何かを叫ぶように口をパクパクと動かす人がいたが、一体何を叫んでいるのかまったく聞こえなかった。おそらく暴言を吐いているのだと推測できたが、看守も聞こえないらしく、無視して通り過ぎていた。

 留置場にはあらゆる風貌の人達が収監されていた。おそらく刑事犯も危険思想犯も区別なく収監されているように思えた。ギャングのような人もいれば、平凡な人、インテリのように見える人もいた。

 ロストンのところから五メートルぐらい離れた真向かいの檻には、初老の女性がいた。斜め向かいの人の声はまったく聞こえなかったが、真向かいの女性が立てる音はなぜかよく聞こえた。おそらく、ノイズキャンセリング機器は部屋ごとではなく、列ごとに設置してあるようだった。六十過ぎに見える彼女は、やせ細っていて、薄い髪をきちんと整えていた。彼女はロボットが食事を運んでくるたびに、ロボットに向かってお礼を言い、食べ物をゆっくりと口に運んだ。礼儀正しそうにみえる人がいったいどんな犯罪をおかしたのだろうか、と彼は気になった。

「あの……」突然、女性がロストンの方を見て口を開いた。「そんなにじっと見られると食べ物が喉を通ら……」

 そこで彼女は急に胸を押さえ、ひどい咳を続けた。風邪で出るような咳ではなく、深刻な病を持っている感じがした。

 しばらくして落ち着くと、女性は短い吐息をついた。そしてロストンの方を見て、檻の鉄棒に顔を近づけた。

「失礼しました。持病で咳が出てしまうのです。うるさくてご迷惑をおかけしますが、お許しください」

 女性はそう言うと、背を向けて檻の奥の方へ歩いて行った。後ろ姿も痩せ細っていて、腕は特に細かった。

「おいくつかしら?」後ろ向きのまま女性が言った。

「四十です」ロストンが答えた。

「そうですか」と彼女は言うと、どこか寂しそうな口調で付け加えた。「あなたとちょうど同じ歳の息子がいます。長い間会っていませんが」

 その言葉を聞いて、ロストンは一瞬動揺した。

 もしかして、この女性が自分の母である可能性はないだろうか? 彼は思った。おそらく母と同じくらいの歳だ。風貌は似ていないが、記憶の中の母は遥か昔の姿。三十年近く過ぎれば、人の見た目は大きく変わる。

 だが冷静に考えてみると、やはり別人に違いなかった。風貌がまるっきり違う。それでも訊いてみたいことはあったが、女性はずっと咳をしていて話を続けるのが難しかった。

 結局、その直後に彼女は他のところへ移送された。

 その後に真向いの檻には誰も入らなかったので、ロストンは誰とも話さずにいた。看守二人がロストンの檻の前を通る時に話し合う声が少し聞こえたぐらいだった。彼らは”ゼロ号室″が云々と言っていた。不思議な響きなので、何を指しているのか気になった。

 留置場で四日間を過ごした後、ロストンは今の施設に移送された。そしてそれからまた三日が経っていた。

 留置場とは違い、博愛園の施設では広い空間を自由に歩き回ることができた。公園の自然に囲まれ、温度もちょうどよく、快適な空間になっている。

 ただ、社会から離れている今の状況が不安になり、早く社会復帰しなければ、という焦りを感じることもあった。これから自分に何が起きるだろうかという不安もあった。もしかしたら自分は既に洗脳されはじめているのだろうか、それともこれからそのためのプログラムが始まるのだろうか。自分が徹底的に洗脳され、高揚感と喜びに満ちた顔で体制への忠誠を叫ぶ姿が頭をよぎったりもした。

 ジェーンのことも心配だった。外部との接触が禁じられているので連絡が取れなかったが、彼女もおそらく留置場のあと、他の博愛園施設に移っているはずだった。

 ロストンは事あるごとに彼女のことを思い浮かべていた。体制側に何をされても、二人を結び付け、二人が大事にしてきた価値観を捨てることなんてしない、と心を決めていた。今までの自分の価値観を捨てることは今までの自分を否定することであり、死に値する。彼女を愛おしく思う気持ちも絶対に変わらない。今この瞬間にも、彼女は無事だろうか、乱暴な扱いをされていないだろうか、と心配でならなかった。

 彼はオフィールドのことも気になっていた。すでに家の近隣住民や職場の人達は自分が危険思想犯として捕まったことを知っているだろう。オフィールドとSS同盟は自分の逮捕を知って、どう動いているのだろうか。まさかオフィールドも捕まるようなことがあるのだろうか。

 ロストンは考えを巡らせた。もしかしたら、自分がオフィールドのことをしゃべったり、体制側に洗脳されたりするのを防ぐために、SS同盟が小型脳神経装置なんかを予想外の方法でここに送ってくるかもしれない。以前どこかで、気分や思考を調整するための脳神経装置が開発されたと聞いたことがある。それがあれば自白や正統派への転向を回避できるのではないだろうか。

 ロストンは上を向いてドームを眺めた。ドームは一枚の円いガラスで出来ている。

 この建物にいると、彼は自分が時間と空間を強く意識してしまうのを感じた。真上に視野を遮るものがないため、空の色の移り変わりを常に意識せざるを得ないし、壁の窓からも外の風景がよく見え、横の空間の広がりも意識せざるを得ない。

 ある意味、博愛園には境界がなかった。ドームの建物は多くの部分がガラスでできていて、外から中が見え、中からも外が見渡せるし、建物を出て自然公園を進んでいくと施設の境界線が出てくるが、境界線が地面に引いてあるだけで、壁はない。もちろん、線を越えればおそらく警告が出て、無視してさらに進めば警報が鳴り、ロボットたちが出動するはずだった。だから実際には閉じ込められている。だが、少なくとも視野を遮る壁はない。自然公園の端からは、地平線に向かって緩やかに波打つ地形の上に、川や森や畑や家々が点在しているのが見える。それらを見渡していると、ここが自由な場所で、さらには世界の中心のようにさえ思えてくるのだった。

 窓を眺めながら考えを巡らせていると、入り口の方から話し声が聞こえた。自動ドアが開いて、中年の看護婦がゆっくりと入ってくる。白い地味なシューズを履き、白とピンクのナース服を着て、丸々とした優しい顔をしていた。

「新しく入って来られた方です。どうぞ温かく迎えてくださいね」看護婦はドームの中の人達にそう言うと、自動ドアに向かって首を縦に振った。

 ドアがまた開き、まばらな拍手とともに徐に入ってきたのは、どこか馴染みのある顔だった。

 ロストンはその瞬間、驚いてビクッとした。よく見るとそれは、同じ部署で科学関連記事の校閲を担当するグリフィスだった。

 グリフィスはドーム内の人達に向かって軽く会釈をしたが、それは不特定多数に対するもので、ロストンがいることにまだ気付いていなかった。良く磨かれた革靴を履いていて、髪もいつも通り七三分けにしている。小柄だが、どこか堂々としていて、知的な雰囲気が漂っている。彼は、始めてここに入ってきた人が自然とそうするように、ドームを見上げた。

 ロストンは声をかけようと近づいた。近くで看護婦が微笑みながら見ている。

 歩み寄る人の気配を感じたのか、グリフィスはロストンの方を向いた。すると、驚いた様子も見せず、納得したような表情で口を開いた。

「ロストン、捕まったとは聞いていたが、ここにいたのか」

「君は何で捕まったんだ?」

「まあ……」彼は近くに置いてある椅子に座った。「危険思想らしい」

「君が危険思想犯?」

「そうみたいだ」

 彼は強がっているのか、平然とした表情で答えた。そしてロストンの顔を見ずに言葉を続けた。

「君は、私が本業の他にも、ペンネームで科学関連の記事を書いているのを噂で聞いているよね」

「うん」

「先日、僕がある雑誌に投稿した記事があるんだが、そこで、宗教が科学的な思考を阻害する有害なものだと批判したんだ。その批判が排他的な危険思想だと見なされ、掲載されるどころか、雑誌の担当者にむしろ通報されてしまった」

「それは……」

「だが宗教と正統派の価値観が相容れないのは一目瞭然だし、だから正統派の価値観を普及させるには宗教を葬り去らなければならない。いくら妥協点を考えても、宗教を排除することなしに正統派の価値観を徹底的に広めることはできないし、だから私はその本質を突いた記事を書いたんだ」

 話し終えると、グリフィスの表情から余裕が消え、別の表情が浮かんだ。自分の知的な試みが社会に認められなかった知識人の苦悩とでも言おうか。一瞬にして、失望感がにじみ出るような暗い表情になった。

「君もよく知っていると思うが」彼は続けて言った。「科学の歴史とは、宗教的で魔術的な考え方を駆逐してきた歴史なんだ」

 ロストンはそのような考え方があることをよく知っていた。そして反感を持っていた。だがここで彼と口論をするつもりはなく、彼の愚痴をまるでカウンセリングをするようにじっと聞き続けた。

 十分ほど経っただろうか。また自動ドアが開いた。

 今度は別の看護婦が入ってきた。そしてロストンとグリフィスを見守っていた看護婦に近寄り、「ゼロ号室にお通ししましょう」と告げた。

 留置場で耳にしたゼロ号室はここにあるのか、とロストンは驚いた。

 二人の看護婦に案内され、グリフィスは会釈しながらドームの外へと出て行った。平然な顔をしていたが、平然を装った強がりのようにも見えた。彼はゼロ号室が何なのかを知っているのだろうか。

 ロストンは再び一人になり、特にやることもないので、ドーム内を歩き回りながら考えを巡らした。窓の外を眺めて安からな気持ちになったり、オフィールドやジェーンのことを考えて不安になったりを繰り返した。だが辿り着く結論というものはなく、いつも堂々巡りだった。

 空に薄いオレンジ色がかかり始めた頃、看護婦がまた別の病衣の人をドーム内に連れてきた。

 どこか見覚えのある顔だと思った瞬間、ロストンはそれがサム・ドーソンだと分かって仰天した。サムもロストンを見て驚いた顔をした。

 立て続けに会社の同僚が二人も入ってくるようなことが起き得るのだろうか、と彼は不安になった。これは偶然ではなく、もしかしたら自分のせいで会社にも調査が入り、それで同僚たちもボロが出て次々と捕まったのではないだろうか。

 二人は近くの椅子に座り込み、話し始めた。

 聞いていると、どうやらサムも危険思想で捕まったらしかった。彼は意識的に声を小さく抑えている様子だったが、その言葉選びから、有罪にされたことへの不満、憤り、絶望感が滲み出ていた。

「わざとやったわけではないのに、捕まるのは不公平だ。かれらの判断は間違っているし、まったく信頼できない。私の経歴からして、わざとやったわけがないじゃないか。ここからすぐ出られるだろうか」サムが不満を漏らした。

「いったい何をやったんだ?」

 サムは、少し離れたところにいる看護婦を一瞥して、再びロストンに視線を注いだ。

「これは間違った逮捕だ。危険思想は適用範囲が広すぎる。わざと犯したわけでなくても、不快な思いをして精神的なダメージを受けたと主張する者がいれば、捕まってしまう。私は確かに有色人種に対する差別用語を使ったが、その時は周りに誰もいないと思っていたんだ。ところが気づかないうちに、黒人の子供がすぐ後ろにいた。でもそこにいるとは本当に知らなかった。相手がいると思っていない時に放った言葉が罪になるのか? ここから出たら法廷で徹底的に戦うつもりさ」

「じゃあ、その黒人の子供に通報されたのか?」

「いや、その時に一緒にいたうちの娘にだよ」

 サムの浮かべていた憤りの表情が、瞬時に呆れた表情に変わった。

「うちの娘はその子と遊んでいたんだ。その子は差別用語の意味をはっきり分かっていない様子だったが、うちの娘がそのことを友達の親に話し、その親が警察に通報した。娘は前にも同じようなシチュエーションで他の人を通報したことがあったから、慣れたものさ。正義感の強いしっかりした娘と言うべきか、父親がどうなるか考えもしない馬鹿者と言うべきか。社会と親の価値観がぶつかったら、社会じゃなくて親の方を選びなさいと教育すべきだった」

 そう話す間、彼の額にうっすらと汗が浮かび、汗の匂いがした。

 その様子を、少し離れたところで笑顔の看護婦が見ている。

 しばらくするとまた自動ドアが開いて、他の看護婦が入ってきた。サムを迎えにきたようだった。「案内します」と言って彼をドームの外へ連れ出していった。

 出て行くサムに手を振りながらロストンは不思議に思った。自分の方が何日も前に入ったのに、看護婦に案内されて場所を移るということはなかった。もしかしたら、一人一人に対して違う段取りが用意されているのだろうか。

 ドームを見渡すと、今ドームの中にいるのは六人だった。男も女もいたが、誰もが外を眺めたり、歩いたりしながら、ゆっくりとした時間を過ごしている。

 その中で一人目立つのがいた。がっしりした顎を持ち、終始口をかたく閉じている男だった。どこか虎のような顔で、そのオレンジ色のかかった目はじっと窓の向こうを見つめている。

 その男をなんとなく眺めていると、また自動ドアが開いた。そして看護婦と一緒にまた新入りが現れた。

 ロストンは思わず笑いそうになったが、意識的に自分の表情を引き締めた。

 新入りの男はびっくりするくらい太っていた。太り過ぎて、口と目が肉に埋もれて小さく見えるほどだった。

 その男は自動ドアに一番近い椅子に近づき、腰を下ろした。満腹感に浸っているような、安らかな顔をしている。ついさっきまで食事をしていたのかもしれない。

 だがそこで突然、滑稽なことが起きた。

 その近くに、顎のがっしりした虎顔の男が座っていたのだが、太った男をちらっと見ると、自分の横に置いてあったビスケットを彼の見えない方に移したのだった。まるで欲しいと言われるのを避けるかのように。

 それを見た一人の看護婦が虎顔の男に近づき、優しい声で話しかけた。

「ミスター・ハンプステッド……」そして彼の肩にそっと手を置いた。

 その時、自動ドアが開いて、中年の看護婦と華奢な看護婦が入ってきた。そして二人は虎顔男の方に歩み寄り、膝と腰を少し曲げて、座っていた彼の目線に自分たちの目線を合わせた。華奢な看護婦が両手を伸ばし、彼の右手を包んだ。

 すると虎のようだった彼の顔が緩み、突然涙と鼻水が溢れ出た。中年の看護婦はティッシュでそれを丁寧に拭き、もう一人の看護婦は彼の背中を優しくさすった。

 ドーム内の他の人達は、それをただ茫然と眺めていた。

 しばらくすると、また自動ドアが開いた。

 新たな看護婦が入り、太った男に近づいて「ゼロ号室に戻りますが、今準備中なので、もう少しお待ちくださいね」と言った。

 太った男は嬉しそうな表情で椅子にもたれ、両手を軽く結んだ。

「看護婦さん」と彼は口を開いた。「わたしは早く戻りたいです。自分をもう全部曝け出したい。今までよりも、もっと先があるのを感じるのです。そこに達することができるのなら……」

「わかります。もう少しだけお待ちになれば戻れますからね」看護婦が言った。

 喜びの表情を浮かべていた太った男の顔が、さらに高揚した表情になった。

「待ち遠しいですね。お腹もいっぱいですし、身体も心もエネルギーが漲っている気がします。このまま私を最後まで連れて行って、生まれ変わらせてください。他人のために自分の命をも惜しまないような立派な人間になりたい」

 彼は、希望に満ちた目で、他の人達を見まわした。そして顎のがっしりした虎顔の男にその目がとまった。

「あの人も早く楽にさせてあげてほしい」指をさして太った男が言った。「あれだけ泣くというのは、変わろうとしている証拠です。彼は今まさに生まれ変わるために葛藤している。以前の私と同じように」

 看護婦が静かに頷いた。

 それを見て男は言葉を続けた。「なんなら、私より先に彼を行かせてもいいですよ。私もいち早く戻りたいですが、一度に一人しかできないのであれば、彼のために譲歩してもいい」

 すると看護婦が腕時計を見てから、「でももう準備ができましたので、戻りましょう」と言った。

 それを聞いて、太った男は自力で立ち上がろうとしたが、難しそうだった。そこで看護婦は、虎顔の男のところにいる三人の看護婦たちに合図をした。そのうち二人が来て、男の両腕を掴み、立ち上がるのを助けた。

 そしてかれらはゆっくりと外へ出て行った。太った男は重い身体を引き摺りながらも、首をまっすぐにし、何かに挑むような姿勢になっていた。  

 窓の外を見ると、空はいつの間にか夕焼けの色だった。

 一連の出来事の後、皆どこかに出て行った。看護婦もいなくなった。ドームの中はロストン一人だった。

 彼は円を描くように歩きはじめ、時々、端っこに置いてあるウォーターサーバーから浄水を飲んで喉を潤した。

 静謐さと空に広がる夕焼けの色に包まれ、彼は安らかな気分になったり、不安な気持ちになったりした。オフィールドのことが自然と頭をよぎり、ジェーンの姿もありありと浮かんだ。彼女は大丈夫だろうか、乱暴な扱いを受けていないだろうか、と常に心配だった。

 彼女のことを心配するのは、偽善ではないかという気持ちもあった。今ジェーンが苦痛を味わっているとして、自分にできることはなかった。言葉だけなら身代わりになるだの、命を捧げるだの、何とでも言える。だが捕まってからでは、もう自分に出来ることは何もない。

 その時だった。

 外から慌ただしい足音が聞こえ、自動ドアが開いた。看護婦たちがぞろぞろと入ってきて道を空けると、その間から見覚えのある顔が現れた。

 オフィールドだった。

 ロストンは仰天して目を見開いた。「あなたも捕まったのですか!」

 看護婦たちがいるのも気にせずに大声で叫んだ。

 すると、オフィールドが淡々とした口調で答えた。

「いいえ、わたしは捕まる方ではありません。私はこの精神病院の経営者であり、同時に精神科医でもあります。トゥルーニュース社では社外取締役をしていますが、私が医師なのはご存知でしょう。ロストン、いや、ミスター・リバーズ、こうなることはあなたにとって想定外だったと思いますが……」オフィールドは少し間を置くと、呆れた表情になって言った。「私について何か誤解をされていたようだ。あなたは自分の直観に素直というか、思い込みが激しいというか……」

 ロストンはその時に気づいた。

 自分がまったくの勘違いをしていたことに。

 ロストンは身体から力が抜けて、よろめき、椅子に腰を下ろした。呆然とし、打ちひしがれ、身体が震え始めた。

 そこに一人の看護婦が近づいてきて、肩にそっと手をのせた。とても暖かく、触れるだけで身体をほぐし、癒やしてくれるような、そんな感触だった。すぐにでも身体の震えが収まり、心が少し落ち着くような感じがした。

 いつの間にか他の看護婦二人も目の前でしゃがんで、自分を見上げている。彼女たちは優しく両手をとった。その感触も柔らかく、とても暖かかった。



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