第18話
眠気に襲われ、ロストンもいつの間にか寝ていた。でも短い間だったようで、時計は夜の十時を指していた。
隣の建物からいつもの歌声が聞こえてくる。
思いは叶うはず 恋の予感がするから
二人の瞬間は 永遠につづく
あの目 あの言葉 あの夢が
わたしの心を いつも満たしてくれる
歌を聴いていると、ジェーンが起きてきた。そして目をこすりながら部屋の時計を見た。
「寝ちゃったみたい」
「疲れてたんだね。僕も少し寝てた」
「火が消えそう」そう言うと、彼女は徐に立ち上がって、暖炉に近づき、ジェリ缶を手に取った。
「軽い。缶のなかが空だわ」
「ミスター・アーリントンが持っているかもしれないけど、もう夜遅いから電気暖房に切り替えるよ」
「うん、そうしよう。私、着替えるから後ろ向いてくれる?」彼女が少し恥ずかしそうに言った。
「分かった」ロストンは彼女に背を向け、窓のカーテンの方を眺めた。相変わらず、隣の建物から女性の歌声が聞こえてくる。
心地よさに つつまれて
いつまでも きっと忘れないわ
今感じている 嬉しさと切なさは
時とともに 消え去っていく
彼は窓に近寄り、カーテンを少しだけ開けて、隣の建物からこぼれ出る明かりを眺めた。掃除をしている女性のシルエットが見える。ふと、ずっと家事をしているあの女性は、あの部屋に住む住人ではなく、もしかしたら家政婦かもしれない、と思った。それとも、住人ではあるが、家族が多くてやるべき家事が多いのだろうか。
そう考えていると、ジェーンが彼の横に来て、こっそり覗き見る仕草をした。人の家の中をじろじろ見るのはいけないことだったが、その忙しく働くシルエットには目を引き付ける何かがあった。顔の表情や着ている服などは影で見えないが、動きが機敏で逞しい。今まで彼は人があれほど懸命に家事をする姿を見たことがなかった。今の時代、掃除と料理はもちろんのこと、服を洗濯機と乾燥機に入れたり、取り出して畳んで収納したりする作業も、全てをロボットがやってくれる。人が直接やらなければならない家事はほぼないのだ。ところがあの女性は手足を一心不乱に動かして自分の力だけでそれをやっている。その姿には人間としての美しさのようなものがあった。
「頑張ってるね」ロストンが言った。
「運動にもなりそうだわ」
「たしかに、シルエットを見るかぎり、太ってはいないね」
彼はそっとジェーンの手をつないだ。彼女も彼に寄り添った。
いつか二人が結婚をして、子供を産んだら、ジェーンはあの女性のようになるだろうか、と彼は思った。ロボットに任せれば苦労はしないが、家事は昔から女性がやってきたものだからか、家事をする姿の中に女性らしさというか、女性の理想像みたいなものがある。ロボットに頼らないあの女性には人としての心、女性らしい心がある。
ふと見上げると、建物の間から夜空が見えた。星は一つもない。空も、グローバル化と同じで、ヨーロッパ、アジア、アフリカなどの区切り無しにつながっている。そして夜空と同じく、全世界も暗闇に覆われている。しかし暗闇の下で、人としての尊厳と心を失っていない、あのような女性もいる。よく探せばきっと、そういう人たちが世界中にいるはずだ。世界中に点在しているかれらが、現状を覆す潜在力を秘めている。
そう、と彼は頷いた。希望はトラディットたちの中にあるのだ。まだ読み終えていないが、ストーンズの書いたあの本の結論もそうであるに違いない。点在するかれらの力が結集すれば、未来は変わるはずだ。かれらの作る新たな世界において、今の異端派は正統派となり、今の正統派は異端派となるだろう。我々は不当な扱いを受けなくて済むだろう。いつか世界中のトラディットが立ち上がる日がきっと来る。それまでにかれらは、正統派が蔑ろにする伝統的な価値観と人間の尊厳をしっかりと受け継いでいくのだ。
「覚えてる?」ロストンが言った。「あの日、スクラップの山のところで突然カラスが鳴いたこと」
「うん、覚えている。それで私がびっくりしてあなたの腕に抱き付いた。わたしたちのために鳴いたのかもしれないね」
そう、カラスは僕たちのために鳴く。トラディットは生きている証を歌う。世間ではボーカロイドが歌う曲が流行っているが、トラディット地区には自分の声で歌い、人の歌声に耳を傾ける人たちがいる。かれらの歌声はいずれ大きな合唱となり、世界中に響き渡るだろう。もしかしたらそれはずっと先の事かも知れない。だが、僕たちは今を生きている。今ここで出来ることがある。それは、二足す二が四のように当然視される正統派の価値観を拒み続けることだ。かれらの思想に洗脳されず、伝統的な価値観を保ち続け、僕たちは未来の革命を準備する。
「ぼくたちは今を生きている」ロストンが言った。
「そう、わたしたちは生きている」ジェーンが答えた。
「そう、あなた方はこれからも長く生きるでしょう」
突然、背後から知らない声が聞こえた。
二人は驚いてドアの方へ振り向いた。
「この先も長いから、ちゃんと教育を受けた方がいい」同じ声が聞こえた。
「どなた?」ジェーンが緊張した声で訊いた。
「警察です。令状が出ているので、開けますよ」
二人は身体が固まり、まったく動けなかった。ロストンは状況を把握できずにいた。令状ということは、逮捕されるということなのだろうか? 危険思想犯ということだろうか?
二人で窓から逃げ出そうかという考えが一瞬彼の頭をよぎったが、たとえここで逃げられたとしても、捕まるのは時間の問題だった。目をつけられたが最後、体制側の監視網に長期間ひっかからずにいるのは無理なことだ。オフィールドからもらったリストバンドを巻いていれば、とロストンは悔やんだ。
その時、ドアが開いた。
警察の制服を着た大柄の男が片手に警察手帳をかざしている。その後ろにも男女の警察官がいた。
「お二人が危険思想犯である証拠が挙がっているので令状が出ています。これから逮捕します」と大柄の警官が言うと、後ろにいた男女の警官が前に出てきて、ロストンとジェーンの後ろに回り込み、手錠をかけた。
突然のことに、二人はなされるがままだった。窓の外からは依然としてあの女性の歌が聞こえてくる。だが、さっきまでの印象と違い、なぜか少し、人工的な声のような気がした。
「あなた達には黙秘権があります。あなた達の話すことは法廷で不利な証拠として用いられる場合があります。弁護士の立ち会いを求める権利がありますが、もし経済的に自分で弁護士に依頼することができないのであれば、公選弁護人を付けてもらう権利があります」
大柄の男がそう言い終えると、他の二人の警官がそれぞれロストンとジェーンの腕を強く掴んだ。
その時、ロストンは咄嗟に、腕を激しく動かした。意識的にではなく、反射的なものだった。だが動きが激し過ぎたのか、腕を掴んでいた男の警官がよろめき、その手がデスクの上のスペースドームに当たった。そしてそれは床に落ち、大きな音とともに割れ、中のものが飛び散った。
即座に、大柄の男がロストンの両腕を強く取り押さえた。
「罪を重ねずに、じっとしているんだ!」彼はそう言って、よろめいた警官が姿勢を回復するのを待った。
床には、ドームの中で星屑のように輝いていたものが、光を失って砂のように散らばっているのが見えた。
よろめいていた警官が姿勢を回復し、ロストンは二人の男の警官に両腕をしっかりロックされた。ジェーンは女性警官の横で思い詰めた表情をしている。
「また会えるよね」ジェーンが言った。
「うん……きっとまた会える」ロストンが小声で答えた。
部屋を出ると、廊下にはミスター・アーリントンが立っていた。こっちに目を合わせず、緊張しているように見えた。彼は外から部屋の中を一瞥して、割れたスペースドームを確認した。
「どうやら掃除が必要のようですね。あとで私がやりましょう」
そう話す彼は、どこか、いつもと印象が違っていた。トラディットの話す英語のイントネーションではなく、まるでグローバル企業で働く都会人のようなイントネーションだった。またその風貌も、黒く染めていた髪が色落ちして白くなっており、普段とはまるで違う印象を与えた。
ふとロストンの頭に、この人は実はトラディットではなく、体制側の人間なのではないかという疑問がよぎった。家電製品の中に監視機能が密かに組み込まれているかを調べているというのは実は真っ赤な嘘で、むしろ彼がそれを組み込んで売っていたのではないだろうか? 本当のところは、この地区を監視するためにトラディットに成り済まして潜伏していたリベラル・ネットワークの一員なのではないか?
そこに考えが及ぶと、ロストンは震えあがると同時に、怒りが込み上げてきた。
「わたしたちを売ったのですか!」ロストンが睨みながら言った。
「そんな、私は通報していませんよ」と彼はびっくりしたような声で答えた。「警察が来て危険思想犯を逮捕すると言ったので、道を通しただけです」
嘘だ、とロストンは思った。だがもはや誰のせいであろうと、捕まってしまったことに変わりはなかった。自分たちはとうとう捕まってしまったのだ。
驚いた表情のミスター・アーリントンを後にして、二人は警官たちに腕を引っ張られながら階段を下りていった。
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