第17話



 年末年始のホリデーシーズン中、ほとんどの社員は家族と一緒に過ごすが、家族のいないロストンは一人で過ごしていた。ジェーンも家族と合流するために他の州へ行ってしまい、クリスマス以降は会えない日々が続いた。だがホリデーシーズンもようやく終わり、彼女は二日後に帰ってくる。もうすぐ会えると思うとロストンは嬉しかった。

 年末年始の休みを挟んだ一週間ぶりの仕事は、処理すべき業務がたくさんあったものの、ロストンは精神的な苦痛も身体の疲れもあまり感じなかった。むしろ活力が溢れ出ていた。オフィールド邸での出来事によって、生きる意義を探し当てたからだった。自分には成し遂げるべき使命がある。そう思うと、力が漲り、身体の隅々まで活力が行き届く感じがした。

 退社後、寒い夜の中、ロストンは周りを見渡しながら歩いていた。

 いつも使っている道ではなく、社内便で送られてきたメモに書いてあったルートだった。シュレッダーにかける前に、書かれたルートを頭に叩き込んだつもりだったが、進んでいくうちに正しい道なのか不安になった。

 会社の外に出るまで彼は忘れていたが、世間では世界首脳会談が行われていて、昨日からは大規模な軍事パレードも行われていた。それは、世界の数十カ国から来た軍人が、市内で自国の軍事パレードを披露するというものだった。ロストンは街頭に浮いている中型スマートスクリーン越しにその様子を見ながら歩いていたが、メモに書かれていたルートの行き着く先は、正にその軍事パレードが行われている大通りだった。

 ロストンが目的地に着いたのは、ちょうどパレードが盛り上がりを見せている時だった。目の前を各国の将兵たちが足並みを揃えて行進し、それに次いで様々な種類の戦車と移動式ミサイル発射台が通り、頭上では戦闘機や爆撃機やヘリコプターの編隊が飛び交っていた。

 多くの観衆たちは小さな国旗を振って各国の軍人たちを熱心に歓迎していた。アイドルを応援しているかのような表情の女性たちもいた。

 しばらくするとパレードが終わり、まるでスーパーボウルのハーフタイムショーのようなものが始まった。大通りの向かい側にあるステージに歌手が現れ、派手に踊り、歌い始めた。その圧倒的なパフォーマンスに観衆は最高潮に盛り上がった。夜だったが、ステージの強い照明を受け、音楽に合わせて身体を揺らす数千人の観衆の輪郭がくっきりと浮かび上がった。

 ショーが終わると、音が静まり、世界市民連合の一員として知られている男のタレントがステージに現れた。司会役のようだった。

 その男は嬉しそうな顔をし、片手でマイクをつかみ、もう一方の手を胸に当てていた。ステージ前列の報道陣のカメラがその様子を捉えている。彼は感情を込めた声で、その場の人達と、カメラ越しの全世界の人々に向けて語り始めた。

 それは、世界平和の維持に諸国の軍隊が中心的な役割をしてきたことを称える内容だった。人権擁護、難民支援、紛争防止、インフラ復旧、治安維持、地雷除去作業、非武装化の監視、そして停戦監視などの活動を、彼は次から次へと称えた。そしてその言葉に合わせて、ステージのバックスクリーンに、汗だくになって人を助けている軍人たちの映像が映った。その献身的な姿は、司会者の言葉と相俟って、見る側の心を熱くさせるところがあった。観客のなかには、感動して涙を浮かべる者さえいた。

 それが五分ほど過ぎた頃、男は演説を締めくくった。そして彼がステージの隅にはけると、バックスクリーンの映像が切り替わった。ある会場の中継映像だった。

 中央に世界市民連合のバッジをつけた人がいて、その後ろに各国の首脳が並んで立っている。そしてまたその後ろには、お互い異なるデザインの軍服を着た、地位の高そうな人たちが立っていた。かなり大きい会場だった。

 ほどなくして中央の人が数歩前に出てくると、演壇に立ち、紙を広げ、宣言文らしきものを読み始めた。ショータイムの時の騒ぎが嘘だったかのように、群衆は静まり返って耳を傾けている。注意深く聞いていると、それは重大発表だった。

 驚くべきことに、アメリカ大陸、ヨーロッパ、中東、アジア、オセアニアの諸国が協力して世界軍を創設するという内容だった。

 以前からそのための交渉が国家間で行われていたのをロストンも知っていたが、その早期実現性については専門家たちも悲観的だったし、彼も懐疑的だった。しかし予想をはるかに超えたスピードでそれは実現したのだった。アフリカ諸国を束ねているアフリカ連合だけは、欧米や中国などの意図を疑って加わらなかったようだが、今回加わった国だけでも世界の軍事力の七割を占めるとのことだった。

 発表の全貌が明らかになると、観衆の中から喜びの声が一斉に沸き上がり、大通り一帯は瞬く間に大歓声に包まれた。ロストンの近くで「ついに世界軍が創設された!」と誰かが叫び、「テロリストを一掃せよ!」と叫ぶ声も聞こえた。司会の男もまたステージの中央に出てきて、「もう大国間の戦争は不可能になりました! 各国の軍隊に対する指揮権は各国政府から世界市民連合に委譲されたのです!」と興奮気味に叫んだ。

 スクリーンの中で世界軍創設の宣言文が読み終わると、ステージの傍からキャノン砲が発射され、大通りの上にきらきらとした紙吹雪が舞い降りた。祝賀ムードの中、人々は喜びのあまり抱き合ったり、頬にキスを交わしたり、涙を流したりした。

 その時だった。

 誰かがまるで恋人のようにロストンの腕に身体を密着させ、「これを落とされましたよ」と言った。

 マリーだった。違う女性の顔になっていたが、一瞬でそうだと分かった。周りの雰囲気に合わせるかのように満面の笑みを浮かべている。

 ロストンは咄嗟に我に返った。そう、これを受け取るために自分はここに来たのだ。彼は黙って小包を受け取った。そして体を引き離して、背負っていたカバンをおろし、その中に小包を入れた。

 顔を上げると、マリーはすでに歓喜する人々の中へと遠ざかっていた。

 お祭り騒ぎが少し収まり始めた頃、再び司会の男がマイクを握り、世界軍の創設を祝福するスピーチを始めた。

 ロストンはその内容が少し気になったが、最後まで聞かずにその場を離れた。小包を持ったまま外にいるのが不安だったのもあるが、会社の上司から職場に戻るようにとの緊急メッセージが届いたからだった。予期しなかった世界軍創設のサプライズ発表を受けて、やるべき仕事が沢山できたらしい。ロストンだけでなく、ニュース関連部署の全社員に連絡が行ったはずだった。

 会社へ向かいながら彼は考えた。前の戦争が終わってから、国家間の戦争はすでに起きなくなってはいたが、各国が自前の軍隊を持つ以上、何かをきっかけに戦争が起きる可能性もゼロではなかった。だが今日の出来事によって、アフリカ連合だけは参加しなかったものの、少なくとも世界戦争が起きる可能性は無くなったのだ。そしてそれにより、国家間の関係は今までとまったく違うものに変わってしまうように思えた。

 新しい関係の構築には新しい歴史が必要だ。実際、三十年ほど前、戦時中に対戦国を痛烈に批判していた新聞や本やドラマや映画は、戦後には手のひらを返し、両国の歴史に存在した幾つかの友好の証を大きく取り上げるようになった。同じようなことがこれからも起きるだろう。一昔前はいがみ合っていた関係なのに、これからは親しみのある国に感じられるように、イメージの塗り替え作業が大急ぎで行われるはずだ。

 事実、会社に呼び戻されたのは、そのためだった。

 時刻は午後8時を過ぎていたが、社員たちは準備しておいた翌日のニュースや翌週発売予定の週刊誌と月刊誌の記事を、不意打ちで発表された世界軍創設の記事に差し替える必要があった。そして新たな記事は、続々と校閲部に回ってきた。

 それらを読みながらロストンは、他国のイメージが塗り替えられていく瞬間に自分が立ち会っていることを実感した。たとえば来週発売予定の週刊誌には中国を叩く記事が載るはずだったが、差し替えられた記事は、世界軍創設において中国が果たした役割を称えるものになっていた。

 そのような差し替えを何十の記事に対して行うために、その日は社員の誰もが徹夜で残業せざるを得なかった。ロストンも殺到してくる記事を相手に、眠気と戦いながら用語のダブルチェックを続けた。

 休憩なしに夜通し働き、ようやく朝の四時ごろになって当日発信する記事の差し替えが終わった。だが、全てが一段落したわけではなかった。次の日の新聞記事と、週刊誌の対応は済んでいなかった。そのためロストンを含めた多くの社員は帰宅せずに、時々仮眠をとりながら、作業を続けた。大変な仕事量で、社員たちは昼休みなどの休憩なしに働いた。

 そして夕方になる頃、ようやく校閲部に回ってくる記事の量が少なくなり、夜七時になって全ての差し替えが終わった。社員を総動員した丸一日の作業の末、新たな状況に合わせてイメージを塗り替えるというメディアの使命は達成されたのだ。

 ロストンは重労働から解放されると、小包の入ったカバンを背負い、身体を引きずるようにして会社を出た。仕事が忙しかったため、小包の中を覗く暇もなかった。

 彼は、ミスター・アーリントンの店の部屋へと向かった。そこでジェーンと会う約束をしていた。眠気が襲ってきたので交通機関の中で仮眠をとった。

 しばらくして着いた店は、営業時間が過ぎて正面の入り口はもう閉まっていたので、彼は横の非常階段から二階に上がった。

 さっそく部屋のすぐ隣の浴室で体を洗って、身体の汚れと臭いをきれいに落とした。

 疲れているはずだったが、いつの間にか眠気が吹き飛び、眼が覚めていた。交通機関の中で仮眠をとり、シャワーを浴びてさっぱりしたせいもあるが、もう少しで彼女に会えることに、そしてやっとあの本を読めることに、徐々に興奮してきたのだった。

 彼は、以前ミスター・アーリントンに教えてもらった通りに、暖炉の給油口にエタノールを注入し、火をつけた。暖炉のなかで黄色い炎が広がり、静かに揺れる。

 彼は窓を開けて換気をし、暫くしてまた閉めた。胸が高鳴っていた。ようやくあの本が読めるのだ。彼は部屋に残ってあったインスタントコーヒーの粉末をお湯に入れ、椅子に腰を下ろした。

 カバンから小包を取り出し、開いてみると、中にあったのは白色カバーの薄い本だった。色あせや汚れがまったくなく、使用感がなかった。

 彼は思い出した。そういえば、オフィールドはこの本の扱いに細心の注意を払っていると言っていた。回し読みをすると指紋が付いてしまうので、人に渡す時は、新しくプリントしてから渡すのかもしれない。

 カバーには何も書いていなかったが、それをめくると、中表紙にタイトルと著者名が書いてあった。


<グローバル民主資本主義の本質


       ソル・ストーンズ>


 ロストンはページをめくり、読み始めた。


<第一章 


寛容は不寛容なり


 物事には明確な上下関係があり、その上下関係の秩序が世界を安定させてきた。昔の社会では上が下を賢明に統治し、下が上に従うことで混乱が避けられていた。古くから上に位置するのは白人、西洋文明、キリスト教であり、下に位置するのは有色人種、非西洋文明、邪教であった。たしかに、過去において有色人種が白人を打ち負かしたり、非西洋文明が栄えたりした時代もあった。だがそれらは例外でしかない。総じて白人や西洋文明の方が優越であるという本質は決して変わらず、平時においても激動の時代においても、それは常に明らかであった。これらの上と下は、いくら強くかき混ぜたところで、まるで下に沈む水と上に浮かぶ油のように上下がはっきりと分かれるものである。>

 

 ロストンは本から目を離して、コーヒーに手を伸ばした。今この本を読んでいるという事実に自分が舞い上がっているのを感じ、心を少し落ち着かせるためであった。誰かに通報される心配のない隠れ家で、社会でタブー視される禁書を密かに読んでいることに彼は興奮を覚えた。

 街は静まり返っていて、外からは微かな音さえ聞こえない。暖炉で暖まった空気が心地よく部屋を包み始めていた。彼はコーヒーを一口含み、その味と香りをじっくり味わった。そして再び本に目を落とした。だが不意に本の全体の流れが気になり、後ろの方のページを開いてみた。ちょうど第三章の始まりだった。タイトルが気になり、順序は逆だが読み進めてみることにした。


<第三章


多様化は一体化なり


 前世紀から、世界のさらなるグローバル化は予見されていた。アメリカ大陸、アジア、中東、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカの間では、すでに人と物の移動が拡大していたのである。国家間の国境、地理上の境界線は意味を失いつつあった。戦争によってグローバル化の潮流が一度中断した時期もあるが、終戦とともにそれは再び勢いを取り戻した。

 グローバル化は、単なる国家間交流の拡大だけを意味するものではなかった。それは、大資本家たちが国境を越えて物理的かつ精神的に人々を操り、従わせるための道具であった。だが、かれらが表に出てグローバル化を唱えたわけではない。それを積極的に唱えたのは大衆であった。大資本家たちは巧みに大衆を洗脳し、大衆が自主的にグローバル化を推し進めるように誘導したのである。人々は信じ切っている。グローバル化は、経済成長率と生活水準を高めるので、庶民にとっても望ましいことであると。そして大衆がそれを信じ切った結果、グローバル化の潮流は揺るぎないものになった。自国でテロが起きて数多くの死傷者が出ても、諸国の政府と国民はグローバル化と多文化主義への支持を止めようとしなかった。

 現代におけるグローバル化の本質を理解しようとするならば、まず、それが大資本家たちに決定的な勝利をもたらした点を理解しなければならない。グローバル化の名のもとに広がる、国境を越えた企業や個人の横のつながりは、各国の持っていた政治的・経済的な自主権と独立性を崩してしまった。国家間で生産が分業化され、資本移動が増えて、経済的な相互依存性が高まり、もはや各国民は自らの運命を自力で決められなくなった。労働資源も然りで、先進諸国の企業は、自国民の労働者を賃金が高いという理由で雇わず、南アジアやアフリカの安い労働力を使っている。そのため諸国は、たとえ国益のために外国人を締め出す必要性が出てきても、もはやそうすることができない。このように、大資本家たちは人と物と資本の移動をめぐる規制を撤廃させ、国家間の相互依存性を高めることで、国家の自主権を崩した。そして、国家が弱体化したところでかれらがこの世界を乗っ取り、支配するようになったのである。もはやこの地球上において、大資本家たちの資本に支配されていない領域は存在しない。

 メディア・企業家・政治家・学者の口を利用した印象操作は、大資本家たちの支配手段の一つである。かれらがよく口にするのは、グローバル化が物と労働者の供給を効率化するという主張である。国家間の取引が自由で関税が低いほど、物が余って安くなっている場所から物が足りず価格が高くなっている場所へと物が売られ、前者では無駄な在庫が減り、後者では物不足が解消されるという。労働力も同じで、国家間の行き来が自由であれば、失業率が高い国の失業者が労働力不足の国に移って働くことになる。それによって、失業率が高い国は失業者増加による貧困と、社会保障費や犯罪の増加を回避でき、労働力不足だった国は労働者が増えて生産を増やせるというわけである。また、かれらは、途上国労働者の安い賃金のおかげで製品が安く生産できるようになり、世界の生活水準が向上したと主張する。途上国に仕事を奪われた先進国の労働者もそのおかげで物を安く買えるのだから、実はグローバル化の恩恵を受けているというわけである。

 だが、かれらがいくら正当化しようと、先進諸国の中流層と下流層が没落しつつある事実は疑いようがない。一握りの例外を除いて、経済的不平等は拡大しているのだ。

 大資本家たちは労働者を搾取の対象として見ており、労働者を働かせるために、労働者が目先の欲求に夢中になるように仕向けている。グローバル化はそのための方法でもある。昔の社会は、食糧不足が大きな問題であったため、食料以外のものに対する消費欲は緊急課題ではなかった。だが、グローバル化によって世界中の安い食料の輸出入が拡大した現在、昔と比べて食事にありつける人が多くなり、人々の意識はお腹を満たすこと以外に向かっている。飢えていた人間が満腹になれば、意識はもっと別の欲求に向かうのである。物が溢れる環境で、大衆は基本的な衣食住の欲求を満たした後でも消費欲を募らせていくが、そのように物足りなさを感じ続けさせるのが大資本家たちの意図である。もはや、飢えるか飢えないかの問題ではない。問題は、隣の人より高級な料理を食べているか、もっと良い家に住んでいるか、もっと良い車に乗っているかである。ほんの僅かな収入の違いをもって人々はお互いを比較して嫉妬心や優越感を覚える。下にいる者は上にいる者に追いつくために必死に働き、上にいる者はさらに上にいくために、そして下にいる者に追いつかれないために、必死に働く。そのように消費欲と競争心を持たせることで、大資本家たちは人々をさらに働かせ、物やサービスの生産が拡大するように仕向けているのだ。

 もちろん、働いた分がそのまま労働者の収入になるのであれば問題はない。だが実際のところ、途上国の労働者か先進国の労働者かに関わらず、労働者が生み出す富の大きな割合は、大資本家の取り分になる。大資本家は労働者たちが働いている企業そのもの、労働者たちが使う設備、労働者たちが賃料を支払う土地や建物、労働者たちが依存する金融機関、労働者たちが住む地域、これらの全てを所有しているからである。直接的な所有者は何百万人といるため、一見、所有者は少数の大資本家たちではなく、大勢の富裕層のように見える。だが、大資本家たちはその大勢の所有者たちの所有物を、株・社債・公債の保有という形で所有しているのである。つまり、労働者の取り分になるはずだったものは、まず企業、土地と建物の所有者、金融機関、政府へと流れ、次にそれらを所有する大資本家へと流れていく。大資本家の下には、富裕層、準富裕層、アッパーマス層、マス層、貧民層があるが、これらの層はいくら懸命に働き、大成功を収めても、もはや大資本家の資産規模に追いつくことができず、むしろ大資本家の富を増やすことに貢献してしまう。なぜなら、これらの層の生み出した価値の大半が最終的には大資本家に吸い取られるからである。

 しかし労働者を搾取する力があるからといって、労働者の取り分を減らしすぎてもならないことを大資本家たちは心得ている。不満が募ると、共産主義が台頭した時のように、革命が起きてしまうからである。したがって大資本家たちは、労働者の所得をほんの少しずつ増加させることで、不満を少しずつガス抜きし、働かせ続けるという方法を取っている。また、格差への不満を抑えるために、庶民たちも成功してのし上がれる環境を整えている。資本力のない者がそれを持つ者に勝つのは難しいため、庶民が実際に富豪にまでなるのは稀だが、まったく不可能なわけではない。つまり、どうにかすれば自分も成功できるかもしれないと期待を持たせることで、かれらは庶民の不満を抑え込んできたのだ。自らの努力で状況が変えられるかもしれないという希望が、人々を従順にさせるのである。そして、格差への不満を抑えるもう一つの方法は、格差を克服できずにいる境遇を自分のせいだと思わせることである。大衆に義務教育の機会を与え、複数の道を提示し、道とは自分が切り開くもの、全ては自分の努力次第であると教育する。そうすれば失敗した場合も、それは他人のせいではなく自分のせいだと自ら納得する。支配されている側が自らの意志で支配者に対する不満を抑え込むのである。

 革命家と大衆が決起して大資本家の支配を覆した事例がないわけではない。過去には共産主義が台頭して、階級の撤廃を推進したこともあった。だが共産主義による階級の撤廃は、格差問題の解決にはつながらなかった。階級の撤廃は、人々がすでに味わってしまった物欲と両立しないものだった。物欲に囚われた党員たちは、共産党を頂点とする新たな階級社会を作った。階級を撤廃しても、新たな階級が生まれるだけなのだ。そして共産主義の国々も結局、民衆が蜂起して崩壊するか、または、そうなる前に資本主義を採用するようになった。

 だが共産主義の失敗は一つの大きな教訓を残した。それは、消費欲と所有欲を否定するのではなく、それらを利用した方が、支配が安定するということだった。物の生産が増えて贅沢品が溢れるようになれば、大衆は常に物足りなさを感じるようになる。するとかれらはそれを満たすことに気が向いて、物を買うための収入を得ようと自発的にあくせくと働く。無論、そのように人々を意欲的に働かせる方法は、資本主義の初期段階である19世紀には一部の国ですでに確立していた。だがほとんどの共産圏が崩壊した20世紀後半以降になって、さらに広範囲で、全面的に実践されるようになったのだ。そして物足りなさと物欲を感じる大衆は、物をもっと安く豊富に手に入れるために、貿易障壁の撤廃を積極的に支持するようになった。

 グローバル化を力強く推進するためには、大衆だけでなく、世界市民連合の中心メンバーたちもその積極的な支持者となる必要があった。かれらこそが、世界の経済的・法律的・政治的な制度を整備する実務家だからである。かれらは一般大衆とは違い、背後で物事を操る大資本家たちの存在を認知している。中心メンバーに選ばれると、仕事をする上で知る必要があるからと、連合側から極秘情報としてその存在を知らされるのだ。ただし存在を知るだけであって、接触があるわけではない。実のところ、大資本家たちはかれらを操るために直接指令を出す必要もない。なぜなら、そもそも連合の中心メンバー達は、大資本家たちが作り上げた価値観と制度の中で生まれ育ち、それに適合しているがために社会的な成功を収め、連合の中心メンバーになれたからである。かれらは、疑いをもって事実を検証する冷静な側面を持つ反面、グローバル化とそれがもたらす多文化主義の正義を無条件に信仰する。生まれた時からそう洗脳されているからである。誰かの指令を受けなくても、かれらは自らの信念にしたがって自発的に率先してグローバル化を推進するのだ。

 たしかに、ごく稀にではあるが、グローバル化の恩恵の多くが大資本家たちの取り分になっていることに気付いた連合の中心メンバーが、グローバル化への支持を止め、異端派へと転向するケースはある。その一人が、この私、ソル・ストーンズである。だがほとんどのメンバーは、それを知った後でもグローバル化への支持を続ける。グローバル化が富と共に搾取も生んでいるという矛盾は、かれらの得意な”現実の多面性″の視点によって解消されてしまうのだ。つまりかれらは、グローバル化には悪い側面もあるが、良い側面もあり、総合的にみて人々の暮らしを良くするから望ましいものであると自らを納得させるのである。

 もっとも、グローバル化を推進すると同時に大資本家のグローバル資本を規制することはできないため、連合がグローバル化を推し進める限りは、現状に疑問を持ったところで大資本家に制約をかける方法はない。大資本家を引き摺り下ろす方法があるとすれば、それはグローバル化を断ち切ること以外にない。すなわち、グローバル化を推進する体制を転覆するしかないのだ。

 世界市民連合と大資本家たちにより、グローバル化は様々な方面で推進されてきた。国境を越えた人々の交流拡大もその一つである。観光客の増加、移民の流出入、文化の輸出入によっても国境を越えた交流は拡大しているが、連合がもっとも力を入れているものの一つが科学面での交流である。つまり、国籍や民族や宗教の異なる科学者や技術者たちが現在、あらゆる分野で知的交流と共同研究を行い、新たな技術を絶え間なく開発している。連合が科学面での交流を強く推し進める理由は、単に科学と技術の進歩のためだけではない。もう一つの目的は、国・宗教・文化・民族・人種の異なる人々を科学という共通の価値観で繋ぎ止めて一体化させるためである。科学的進歩という旗のもとに宗教や文化の異なる人々を結集させようとしているのだ。つまり、国・宗教・文化・民族・人種に基づく人々の帰属意識を解体し、それに代わる”科学的な共同体″という新たな帰属意識をかれらは作り上げている。そうすることで、人々のグローバル化への支持はさらに強まっていくのだ。

 戦後、科学は飛躍的に発展し、科学的な思考法も普及した。英語の”サイエンス″は実験と実証を通した事実や理論の検証というニュアンスがあるが、そのような意味での科学を推進するために、英語の”サイエンス″は非英語圏のオープンスピーク用語になっている。今や、科学的な方法論と価値観はあらゆる領域に適用されるようになった。人々は神や観念論が科学的に検証できないものだとして語ることを止め、実験によって検証されるものだけを信じるようになった。愛や道徳まで科学的な検証の対象として扱われ、計量的に分析される始末である。理系の科学のみならず、政治・社会・経済を扱う社会科学においても、哲学・宗教・文学を扱う人文科学においても、実験と計量分析による検証が行われ、それがグローバル・スタンダードな学問の方法論と見なされるようになった。

 グローバル化は他の方面でも推進されてきた。軍縮もその一つである。つまり、大資本家たちと連合は各国の軍備縮小を推し進め、軍事費を削り、軍事費にあてられていた予算が国際的な人・物・サービスの移動のために使われるように仕向けた。国家間の戦争はグローバル化を中断させるため、軍縮によって戦争勃発の可能性を低くすることは、グローバル化を推し進める上でも重要となる。

 国家間の制度的な壁を取り崩すのもグローバル化の一環である。連合は国家間に存在する制度の壁を壊し続けており、たとえば、世界のどこかで作られた物は、国境に阻まれることなく地球全土に速やかに伝搬するようになった。以前は、特に医療やバイオテクノロジーの分野において、各国の官庁と該当機関が新技術の安全性などを検証してからそれを受け入れていた。それは自国を守るために必要な過程である。見境なく受け入れるのではなく、自国にどのような好影響と悪影響をもたらすのかをしっかり検証しなければならない。にもかかわらず連合は、グローバル化の妨げになるという理由で、国家間の壁を乱暴に壊してしまった。結果、今では何もかもが筒抜けで、各国は自らの判断で他国のものを取捨選択することができない。

 技術だけでなく、文化の面においても同じことが言える。今では異国文化も外国人も如何なる制限もなしに自国に入ってくる。一つの国の中で異なる文化が入り混じり、積み上げてきた固有文化が汚され、破壊されている。街は外国人で溢れ、人々は自国語を読み書きする能力すらままならないうちに外国語を学び、外国人の子供を産んで、固有の民族性を失いつつある。そしてその現象は全ての国で起きているため、結果的に全ての国がみな同じような多文化的な雰囲気になってしまう。アメリカにいようが、フランスにいようが、オーストラリアにいようが、街中でムスリムが頭にヒジャブを着用しているし、中国人がジーンズを穿いて歩いているし、人々はお昼にインドのナンを口に入れている。文化の混合を推進する多文化主義は、むしろ文化を均一化させるのだ。つまり、グローバル化は人の移動と文化の伝搬を自由にすることで世界を開かれた空間にしているように見えて、実は、全てが同じになってしまうような閉じた世界を作り上げている。違う色の絵の具を全部混ぜれば一つの同じ色になってしまうのと同じである。

 文化だけでなく、思想(政治思想・経済思想・社会思想)についても同じことが言える。世界には違う名前のついた思想が幾つもあるが、大まかには同じような思想になってしまっている。たとえばアメリカでは”アメリカン・プルーラリズム″が、ヨーロッパやオセアニアでは”グローバル・デモクラティック・キャピタリズム″が、アジアや中東やアフリカでは”ネオ・リベラル・デモクラシー″が主流だが、これらの政治経済思想は、お互いにニュアンスの違いはあるものの、内容において大きな違いはない。これらの思想はいずれも、多文化主義を支持し、グローバル化が全ての人と国に大きな利益をもたらすと論じてそれを擁護するのだ。だが、これらの思想は、グローバル化によって国そのものが解体されていることには触れない。世界市民連合も、自らが推し進めるグローバル化がむしろ世界を閉じたものにしている矛盾について、見て見ぬふりをしている。グローバル化が極端に推し進められることでグローバル化はその性質を変えてしまったが、連合はそれを認めようとしないのだ。

 ここでもう一度強調せねばなるまい。社会の多様化を推し進めるグローバル化は、むしろ社会を均一化してしまう。一見、様々なものが混ざって多様化するように見えるが、多様化の感じがどこも同じになるのだ。どの国に行っても、同じようにアラブ人とアジア人と黒人が行き交い、人々は同じように多種多様なデザインの服を着て、同じように多種多様な料理を食べる。全ては同じような感じで多様化され、個性が効率よく大量生産される。グローバル化が完成した世界は閉じられた空間であり、いかなる異質なものも、特有のものも、神秘的なものも存在しなくなるのである。

 過去において諸国は、お互いの独立性を保つ範囲で、自国の利益になる範囲を見極めながら、慎重にグローバル化を行ったものだ。だが今では、維持すべき国家の独立性というものは存在しない。もはやどの国も、グローバル化の波に逆らう自主的な法律や政策を実施することができない。現在のグローバル化は、国の独立性や固有性を保つためではなく、むしろ独自の制度・文化・政策を無くすためのものになっている。グローバル化によって、全てはグローバル・スタンダードに合わせた均一化したものになっているのだ。これこそが、「多様化は一体化なり」という世界市民連合のスローガンの隠れた本当の意味である。人々はそれを、「多様性の容認が社会に調和をもたらす」という意味で教わっているが、そこに隠された本当の意味は、多様性の名の下に全てを均一化すれば、世界をコントロールしやすくなるというものだ。>

 

 ロストンは本から目を離した。

 部屋は静穏に包まれている。彼は秘密の隠れ家で禁書をこっそり読んでいるという非日常的な感覚に浸っていた。

 本の内容は魅力的で、彼を興奮させた。書かれていることの多くがはじめて知ることで、未知の世界からの贈り物のように感じられた。自分で突き止めることのできなかった隠れた真実を詳細に説明してくれているのだ。ストーンズはかつて世界市民連合の中心メンバーだったので、色々な内部情報を得ていたに違いない。

 本を最初から読むために彼は再び第一章へとページをめくった。

 だがその時だった。非常階段を駆け上る足音が聞こえた。

 彼ははっとして、椅子から立ちあがり、部屋のドアを開いた。間もなく向こうからジェーンが現れ、彼に飛び込んできた。

 二人は抱き合い、軽い口づけをした。久しぶりの再会だった。

「おかえり」唇を離しながらロストンが言った。「今、あの本を読んでいたんだ」

「わたしもはやく読んでみたい」彼女はそう言うと、自分のバッグを下に置き、暖炉に歩み寄って、両手を前に出しながら冷えた身体を温めた。外は相当寒いらしかった。

 白い結露ができている窓の隙間から、聞こえるか聞こえないかぐらいの微かな歌声が入ってきていた。おそらく例の、隣の建物の女性だ。窓から覗き込みはしなかったが、いつものように家事をしながら歌っているのだろうと思われた。

 二人が本の話題に戻ったのは、彼が見た軍事パレードのこと、仕事で二日間缶詰になっていたこと、ホリデーシーズン中に彼女の家族に起きたことなどを話し終えてからだった。

 ジェーンは、デスクの上に置いてあった本を手にした。

「これがその本?」

「うん。一緒に読もうか。僕が後でもいいけど」

「密着して座らないと一緒に読めない」彼女が笑いながら言った。

 二人はソファにもたれて肩を寄せ合った。ロストンの膝で本を支え、二人はページを眺めた。


<第一章 


寛容は不寛容なり


 物事には明確な上下関係があり、その上下関係の秩序が世界を安定させてきた。昔の社会では上が下を賢明に統治し、下が上に従うことで混乱が避けられていた。古くから上に位置するのは白人、西洋文明、キリスト教であり、下に位置するのは有色人種、非西洋文明、邪教であった。たしかに、過去において有色人種が白人を打ち負かしたり、非西洋文明が栄えたりした時代もあった。だがそれらは例外でしかない。総じて白人や西洋文明の方が優越であるという本質は決して変わらず、平時においても激動の時代においても、それは常に明らかであった。これらの上と下は、いくら強くかき混ぜたところで、まるで下に沈む水と上に浮かぶ油のように上下がはっきりと分かれるものである。>


「ページめくっていい?」ロストンが言った。

「うん、読んだ」

 彼はページをめくり、またじっくり黙読し始めた。


 <古くから、上と下にいる者たちのそれぞれの目的は完全に一致していた。すなわち、社会の秩序を保ち、それを安定化することであった。つまり上層は、下層の人々を保護し、悪しき言動は厳しく罰して、秩序が保たれるように統治した。下層は保護を受ける見返りに上層に忠誠を誓った。上層は治める者としての使命感と責任を、下層は保護を受ける側としての義務をしっかり認識し、各自の位置で各自が果たすべき役割に忠実であった。それが古くから受け継がれてきた社会の自然な姿であった。

 ところが、民主主義と資本主義の理念が普及すると、状況が一変した。歴史とは人類がより大きな自由・平等へと向かう過程であるという歴史観・世界観が広まり、人々は上層階級の命令に従わなくなった。反乱と革命が起き、多くの国が民主資本主義の体制へと移行していった。

 そしてその展開を積極的にサポートし、利用したのが資本家たちであった。過去に教皇、皇帝、貴族、高級軍人などの特権階級に振り回され、自由な経済活動を制限されていた資本家たちは、民衆の怒りを利用してそれまでの特権階級を追放した。そして自らの手に富と権力を集中させたのだった。民主資本主義の下、新たな特権階級となった資本家たちは際限なく資本を展開することが可能になり、かつての特権階級をはるかに超える富と権力を手に入れた。かれらは思想さえ自由に操った。現代の正統派思想であるアメリカン・プルーラリズム(所謂アメプル)とそれが肯定するグローバル化は、国境や宗教や人種の違いに阻まれない自由な資本展開を促進し、資本家たちを潤わせるものであった。そして、その資本家の中で最も成功したのが大資本家たちである。

 無論、資本家・大資本家が台頭する前にも、上層と下層の間に経済的不平等はあった。たとえば王族・貴族と平民の間には大きな格差があった。しかしながら、いくら差があると言っても、両者の所得差が数十万倍も開いているということはなかった。それが今や、大資本家と庶民の間では、それだけの格差が存在するのである。大資本家ほどではないが、富裕層と庶民の間にも千倍以上の所得格差がある。今の世界は、表面的には平等な社会のように見えるが、実際のところは、未だかつてない不平等社会である。

 問題は貧富格差だけではない。人種も民族も宗教も性別も国籍もまちまちである大資本家たちは、如何なる既存のコミュニティーにも帰属意識を待たない。したがって、かつての上層が持っていた下層に対する使命感や責任感などあるはずもなく、かれらは庶民を単なる搾取の対象としてしか見ていない。

 歴史を振り返ると、アメプルなどの正統派思想が台頭したのは、先の戦争の最中からであった。正統派思想は、戦前から”自由主義″や”民主資本主義″という名で呼ばれていた価値観を下敷きにしており、その推進役は世界中に散らばっていた。各国の弁護士、科学者、企業の経営者、メディア業界の幹部、銀行の重役、労働組合の代表、医者、大学教授、ジャーナリスト、各種市民団体の代表などが主な推進者で、かれらのイニシアティブの下に世界人口の四分の一にあたる三十億人以上の市民が立ち上がって生まれたのが世界市民連合であった。メンバーの大多数は普通の社会人や学生だったが、より影響力を持つ先述の職業の人達が自然と中心メンバーになっていった。全体的な傾向として、中心メンバーは中流層の少し上の方から準富裕層の間に属するグループで、民主制と資本主義の波に乗って身分を上昇させた者たちだった。

 かれらは、権力に対して多面的な姿勢を持っていた。すなわち、戦後、連合の中心メンバーたちは既得権益を倒すために自らの手に権力を集中させたが、そうすることで自分たちが新たな上層階級になったと見なされることに強い警戒心を抱いていた。故に、かれらは選挙制度を導入し、世界中の市民たちに投票で連合の中心メンバーを選んでもらうようにした。そうすることで、不正を犯したり権力を乱用したりするメンバーが連合に残れないようにし、公正で有能なメンバーが残るようにしたのだ。

 それは一見、自らの権力を制限することのように見える。だがそうすることで連合は、人々の不満を和らげ、人々に問題解決への希望を持たせ、自らの支配をさらに強固なものにしたのだった。そのやり方は、昔の民主制と同じではあるが、違いは、連合がそれを世界規模で行った点である。周知のように、連合の一般メンバーは各国の中心メンバーを選出するための投票権を持ち、かれらの投票により各国で選ばれた者たちが中心メンバーとなる。だが政治家とは違い、中心メンバーはその国の政府に属するのではなく、世界市民連合に属し、その中で諸案件を多数決で決め、権限の範囲内で各国政府にその実行を命ずる。そのように、国家主権が連合に委譲された範囲において、連合は国家の上に立っているのである。

 連合は、スマートスクリーンを通しても、自らの力を制限するように見せかけながらむしろ勢力を拡大した。すなわち連合は、まるで自らの権力を制限するかのように、防犯用スマートスクリーンが撮った記録を第三者機関の同意なしには確認できないという法律を作った。だがそれと引き換えに、連合はスマートスクリーンを世界中に普及させることに成功したのだ。昔の権力者たちは、人々を常に監視することが権力を維持する上で必要不可欠と考え、人々の表面的な言動はもちろんのこと、人々の心の中までも知ろうとして、隣人にスパイを紛れ込ませたり、罪状なしに捕まえて拷問で自白させたりした。そのような多大な労力が必要だった理由は、昔は効率の良い監視技術が無かったからであった。常に誰かが現場にいて尾行しないと、人々の活動を確認できなかったのだ。だが街中に設置されたスマートスクリーンが周りの状況を二十四時間記録し続けるようになって、以前のような監視体制は不要になった。警察やスパイが常に目を光らせなくても、道を歩く人々の顔、動き、話す内容、脳波、持ち物などが一秒の漏れもなく記録され、中央コンピューターに送信され、数十年間保管される。全てはくまなく記録されているため、何か問題が生じた時にだけ記録を確認すれば事足りるのである。監視の目を常に光らせる人間がいなくなったので、一見、監視が緩くなったように見えるが、実質的には以前よりはるかに効率よく、はるかに広い範囲で監視が行われている。

 もう一つ、連合が自らの力を拡大するために行ったのは、大衆が本能的な欲を満たすことに熱中させることだった。私欲・所有欲に目が向けば、社会全体の格差問題などという大きな問題には目が向かなくなり、反体制運動が起きにくくなるのである。したがって連合は、政治的混乱や制度的不備などによって所有権が十分に保護されていなかった途上国でも、それが徹底的に保護される環境を作った。それにより、貧しい地域でも蓄財で裕福になる人が増加し、かれらは連合の強固な支持基盤となった。さらに連合は、政府の無駄遣いや非効率性を強調し、国営企業の民営化を促して、国の所有物を減らすと同時に民間の私有財産を増やした。それで私有財産を増やした民間の人々も、連合の強力な支持基盤となった。

 連合が自らの力を拡大するために行ったのはそれだけではなかった。連合は、体制にとって脅威となる内部と外部の敵の排除にも乗り出した。まず連合は、全世界を自身の影響下に置き、全てを内部化し、外部そのものをなくすことで外部の敵を除去した。それにより、全ての国家は連合の許可なしに自由に行動することができず、もはやこの世界で連合の目と手が届かないところはない。次に連合は、大衆の注意が連合ではなく、大衆自身に向くように仕向けることで内部の敵を除去した。つまり、人々の関心をお互いへの比較に向かわせた。結果、大衆は他人と自分の差を大きく気にし、お互いに対して嫉妬や優越感を抱いて、他人の上に立つことに熱心になった。個人レベルの競争が第一の関心事になったため、かれらの注意は社会的・政治的なことに向かず、体制への批判は限定的なものとなった。

 連合が敵の台頭を防ぐために使っているのは経済的な方法だけではない。イメージ作りにも力を入れている。連合は自分たちに親近感を持たせるためのイメージを作り、そのイメージを人々の意識に刷り込んできた。その代表的なものがグレート・マザーである。それは連合のイメージキャラクターであるが、連合が自分たちの宣伝広告を流す際には必ず登場させている。人のあらゆる欠点、あらゆる失敗、あらゆる敗北、あらゆる間違い、あらゆる無知、あらゆる愚かさ、あらゆる不幸、あらゆる罪を、優しい包容力で暖かく包み込むというのがグレート・マザーのコンセプトである。グレート・マザーは連合のメンバーだけでなく、体制に反感を持つ異端派やトラディショナリスト(通称トラディット)さえも暖かく受け入れる存在とされている。敵や味方を分けずに全てを包み込むというわけである。だが、それは言い換えれば、外部の敵を内部へと取り込んだ挙げ句、無力化させるということだ。グレート・マザーは反対勢力を完全に封じ込めるために作られたイメージなのである。

 内部の敵をなくすには、イメージを刷り込むだけでなく、現実の境遇の違いに人々が不満を持たないようにする必要もある。その方法の一つが、選択の自由の幻想を植え付けることである。たとえば、連合の中心メンバーと一般メンバーとトラディットのどれに属すかは、原則として個人の選択であり、強制されたり世襲されたりするものではないと連合は主張する。一般メンバーや中心メンバーになる上で人種差別も宗教差別もなく、連合の活動に参加して投票権を獲得すれば一般メンバーになれるし、選挙で当選すれば中心メンバーになれる、というわけである。また、たとえ親がトラディットでも子供がそれに従わずに正統派の価値観を持っていれば中心メンバーになり得るし、大都会に住んでいなくても連合の支部は各地域にあり、中央と同等の機能を持っているため、地域格差もないとかれらは主張する。世界のどこに住んでいてもメンバーになるかトラディットになるかを自分で決められるので、自分の境遇に不満を持つ必要がないというわけだ。

 しかし、それは欺瞞である。表面上は機会の平等があっても、実際は世界共通語である英語とオープンスピークの両方が堪能でないと国を超えた仕事ができない。したがって、オープンスピークを拒否するトラディットの家庭で育った者が連合の一般メンバーになれる可能性は、実際のところ皆無である。また、連合の一般メンバーも、オープンスピークと英語が上手にできなければ連合の中で責任のあるポジションに就くことができない。そのため、英語圏の人間が自ずと中心メンバーや影響力のある一般メンバーになる。そして英語圏の人たちは、当然ながら英語圏で流行る文化を共有する。選挙によって中心メンバーが激しく入れ替わってはいるが、その中の多数派が常に同じ言語圏と文化圏の人間である事に変わりはないのだ。また、トラディットを親に持つ子供は、親の価値観に大きく影響されるので、正統派の価値観に基づく義務教育に馴染めず、オープンスピークに接する機会も少ない。義務教育に馴染めないので落第しやすく、低賃金労働者になりやすい。

 つまり、現実の世界では、自分の道を自分で選べるわけではなく、生まれた環境が自分の道を決めているのだ。連合は、不平等を撤廃すると言いながら、結果的には特定の価値観・言語・文化を持つ人々が生きやすく、そうでない人々が不平等な扱いを受ける世界を作り上げている。裕福で、正統派の思想を持ち、英語を話し、西洋文化を共有する子供たちが、親から地位と富を受け継いでいる。一見、黒人やアラブ人やアジア人の中心メンバーがいるという事実が、機会の平等を証明しているように見えるが、それらの成功した有色人種は例外なく上記の裕福で、正統派の思想を持ち、英語を話し、西洋文化を共有するという属性を持っている。

 以上のように、世界市民連合が作り出す世界は、表面上は公平に見えるが、実質的には世襲制である。昔の権力者たちは、いかなる体制も世襲でなければ長く続かないことを見抜いていた。体制を維持するには血のつながりが必要であることをかれらはよく知っていたし、だから王族は王族同士で、貴族は貴族同士で婚姻関係を結んだのだった。教皇を投票で選出するコンクラーヴェでさえも、表面的には民主的な選挙制度のように見えて、権力者たちが賄賂で枢機卿たちの票を買い、自分たちの親族を教皇にすることが多々あった。つまりあらゆる体制は、本質的に、思想や価値観を継承することで維持されるのではなく、親が子に権力と富を受け継がせることで存続するのである。思想と価値観はそのための道具に過ぎない。世界市民連合も例外ではなく、むしろもっとも巧妙な形でそうである。表では誰にでも機会があると謳いながら、裏では自分の子だけに機会を与えているのである。かれらは自由と平等の名の下に、特権を相続しているのだ。

 以上からも分かるように、連合の作り上げた体制は、その表向きの印象と違って、自由と平等を体現したものではない。一見、表現の自由は認められているかのように見え、連合が自分達への批判に対してオープンな態度を持っているかのように見える。たしかに、連合に対する批判や抗議活動を大衆は自由に行うことができる。トラディットさえも、危険思想に該当する主張でない限り、体制を自由に批判することが許されているし、実際かれらは危険思想にならない範囲で抗議デモを行うことがある。だが、危険思想に該当しない範囲で表現の自由を許すということは、危険思想に該当するものは許さないということであり、その危険思想が何であるかは連合側が決めているのだ。何が危険思想であるかの基準は法律によって定められ、細かく定義されており、定義に当てはまる言動を行った場合は法律で罰せられる。つまり、表現の自由を保障しているかのように見えて、実際は、連合にとって都合の悪い意見は全て危険思想に含められ、罰せられているのだ。したがって、本当の意味での批判の自由は許されていない。

 連合とリベラル・ネットワークは、大衆の見解の中に危険思想が混ざっていないかを目を光らせて観察している。リベラル・ネットワークの一員であるからといって連合のメンバーとは限らないが、連合のメンバーはほとんどがリベラル・ネットワークの一員である。世界中に広まっているリベラル・ネットワークは、いつも周りやネット上での出来事にアンテナを張り、人の言葉の端々から危険思想の片鱗を見出しては、構成員のネットワークを利用した捜索と情報交換を行い、危険思想に該当すると判断すれば警察に通報している。

 だが、それだけではない。連合は、人々が表面的に正統派の意見を述べているかだけでなく、心の中も正統派であるかを注意深く観察している。内面にいわゆる危険思想を秘めていた場合、それがいつ表に出てくるか分からないからである。だから連合は、アメプルの理念を用いて人々を内面から教化しようとする。義務教育を受けた人なら誰しも、オープンスピークで言う”普遍的良識″や”陰陽″や”対立の統合″について学んでいて、正統派の理念が何であるかをよく心得ている。そのため人々は、何に対しても正統派の思考法と価値観に照らして良し悪しを判断するようになっている。正統派になるように内面から教化されているのだ。人々は、学校や会社のお昼休みに他人がうっかり口にしてしまう危険思想の小さな証拠も見逃さない。自分自身に対しても、他人に対しても、義務教育で刷り込まれた価値観に基づいて評価をし、それに沿った言動をするのが人として当然のことだと思い込んでいる。それは小さい頃から刷り込まれるもので、”普遍的良識″と呼ばれる。”普遍的良識″とは、何事にも条件反射的に正統派の判断基準、つまり正統派の良識を適用し、その基準に沿った言動をすることを指す。その言動には、無条件にアメプルを支持し、それを批判する意見を危険思想や異端であると毛嫌いすることも含まれる。

 しかし人は、自分の置かれた環境にふと疑問を持ったり、反抗心をおぼえたりすることがある。したがって正統派であり続けるためには、心の中で湧き上がるそのような感情さえ解消しなければならない。そこで連合が利用しているのが、すべての過ちを赦して受け入れてくれるというグレート・マザーのイメージである。そのイメージを通して連合は、自らの体制が人間的な反抗や葛藤や過ちをも優しく包み込むものであると人々の頭に刷り込んで、湧き上がる敵対の感情を武装解除させるのだ。

 連合が利用するのはビジュアルなイメージだけではない。反抗・敵対する者をも受け入れるというイメージは、オープンスピーク用語の”陰陽″を通しても概念化されている。それは陰と陽という、お互い矛盾し合う対義語の組み合わせだが、オープンスピーク辞書によると、陰と陽は対立すると同時に結合した関係でもある。つまり陰陽思想とは、陰のなかに陽の側面があり、陽のなかに陰の側面があるのを認識し、相互破壊的な対立を調和的な対立へと変換する姿勢を指す。これは、同じくオープンスピーク用語である”対立の統合″に通ずる概念である。

 しかし、対立するものを調和させる”陰陽″や”対立の統合″の観点に基づくならば、連合は、いわゆる危険思想や異端を排斥してはならないはずである。正統派と異端派が対立しながらも、共存しなければならないはずなのだ。ところが現実において連合の体制は、危険思想を厳しく罰している。連合は、全てを包み込むと言いながら、気に入らないものを排除するという自己矛盾をおかしているのだ。

 連合は、宗教的な歴史観や国家主義的な歴史観を排除している。対立する歴史観が共存するように努めるのではなく、古くから受け継がれてきた歴史認識を異端であると嘲り、切り捨てる。そして連合は、自らが望む歴史観をもって、過去を自分好みに塗り替えている。かれらが過去の塗り替えに熱心な理由は二つある。一つは、現体制以外の選択肢はないと思わせるためである。要するに、過去が技術も生活も所得も文化も今に比べて劣っていたと強調し、現在への不満を和らげるのだ。連合が過去の上書きに熱心なもう一つの理由は、連合の過ちについて言い訳をするためである。連合が公にしてきた過去の認識は、新事実の発見と新たな分析手法の登場によって度々覆されてきた。例えば、表面上は友好関係にあった国が、実は裏では裏切っていたことが後になって判明したりする。そのような事実の誤認は、体制の信用に傷をつける。そこで連合は、そもそも事実というものは新たな発見によって常に捉え直されるものであると主張し、体制側の認識や判断の間違いが批判されないように仕向けているのだ。ただし、その過去の塗り替え・再解釈の作業は、連合自らの手ではなく、その影響下にある政府や民間研究所やメディアなどによって行われる。連合は自分の手を汚していないので、たとえ事実の誤認に対して批判があったとしても、それは政府や研究所やメディアに向けられることになる。

 過去は新たに発見されるもの、というのはアメプルの考え方でもある。連合は、客観的な過去は存在するものの、人間によるその記録と記憶と解釈にはバイアスがあり、過去は歪められやすいと主張する。たとえ記録と記憶と解釈が一致していても、それらが一つの価値観ないしパラダイムに影響されたものであるならば、それらが描写する過去はバイアスのかかったものになると言う。そして連合は、既存の価値観と歴史観には大きなバイアスが含まれているとし、それらを否定する。だが否定すると言っても、それらを消去する形で否定するのではない。価値観と歴史観の変遷過程を並べ、解釈とは進化するものであると強調する形で、古いものを否定するのだ。つまり、物事の解釈は、原始的で宗教的なものから科学的でバイアスの少ないものへと変遷してきたとかれらは説明する。そして連合こそが、科学的な解釈の推進者であり、貢献者であると言う。

 歴史観に限らず、連合は既存の価値観がバイアスだらけだと主張し、その除去をサポートしている。バイアスを除去することで様々な差別が無くなると同時に、物事の多面的な事実関係が明らかになるのだと言う。昔の人たちによる物事の解釈は、物事がそうあって欲しいという願望が強く反映されたもので、一面的であったと連合は主張する。そのようなバイアスや一面性を回避するために、事実を再解釈する際には自らの希望やバイアスを投影していないか、自分に都合の悪い面を無視していないかを常に警戒しなければならないと言う。この観点は”現実の多面性″と呼ばれ、オープンスピーク用語では”対立の統合″と呼ばれている。”対立の統合″とは、対立しているものは同時にお互いに依存しているという意味である。それはまた、対立している両者に利益をもたらす、調和的な対立を可能にする仕組みをも意味する。その観点から、対立する相手を排除しようとせず、その対立がむしろ自分を利するように工夫することを人々は期待されている。

 この”対立の統合″は体制側の中心的な概念であるが、なぜなら、それによってもたらされる人々の精神分裂が、連合の意図するところだからである。そもそも人というのは、自分や自分の共同体と対立するものが目の前に現れた時、自分をその対立するものから守ろうとするものである。それが自然な本能である。自我や共同体というのは、自らを最優先し、依怙贔屓して、外部から己を守るものなのである。ところが連合は、対立するものが自分を征服しようとしているかも知れない時に、相手を排除せずに、むしろ自分を利するものとして受け入れ、調和的な関係を構築せよと言う。だが、対立しながら調和をするというのは、言語矛盾であり、詭弁にすぎない。それを実践しようとすると、人々は自我を保てずに分裂してしまうだろう。だが実はそれこそが連合の隠れた狙いである。人々が自我と共同体のアイデンティティーを自ら解体するように仕向け、それが解体したところでかれらを支配下に置くというのが連合の狙いなのだ。

 かつて存在した体制は全て、対立する内外の敵との戦いに敗れて崩壊した。そこで連合は、過去の体制とは異なる戦略をとった。つまり、対立するものは実はお互いを利する側面があり、したがって対立するもの同士は率先して譲歩し合うべきだという考え方を広めた。対立するものの受け入れと自我の保全が同時に可能だという思想を広め、対立が過激化するのを未然に防ぎ、体制の支配を強化したのだ。支配のための詭弁なので、当然ながら”対立の統合″の原則を最も破っているのは、それを提唱する連合側である。つまりかれらは、正統派と対立する異端派の思想を受け入れるどころか、徹底的に排除しているのだ。その過激な排他性に比べれば、かれらが危険視するトラディットの方が、むしろ対立する相手に対して柔軟な姿勢を持っていると言えよう。力を持たぬ下層の人々は現実の様々な圧力と妥協し、不本意なものを受け入れなければならない。対立するものと調和的でなければならないのだ。それとは対照的に、連合はグローバル化を強引に進め、立ちはだかるものを徹底的に排除している。

 連合は各国の自主性と独立性を尊重すると公言しているが、本当にそれらを尊重しているわけではない。小国の自主性と独立性を守るためという大義名分で、小国に対する大国の影響力を小さくし、大国に代わって連合が世界をコントロール下に置こうというのが本当の意図である。各国の独立性・自主性を支持すると言いながらそれを奪うという矛盾した言動を行っているのである。だが矛盾はそれだけではない。連合は、社会に存在するあらゆる既得権益を潰しながらも、自分たちが既得権益になっていることを認めない。連合の中心メンバーたちは自らを大衆の公僕であると公言しながら、自らが望む通りに大衆を動かしている。さらに、家族愛のような伝統的な価値観の重要性を強調しながらも、他方では伝統的な家族観を否定するような価値観をメディア経由で刷り込ませている。これらの矛盾した言動は”対立の統合″をかれら自身は実践していないこと、その本当の意図は別にあることを表している。その意図とは、連合に対立しようとする相手を無力化させ、連合の支配を強固にすることである。

 このように、かれらの本当の意図は自由や平等や”対立の統合″の推進ではなく、それらの理念を用いた世界の支配にある。しかし、かれらが世界を支配しようとするさらに根本的な動機は……>

 

 ロストンは肩に重みを感じた。

 横を向くと、ジェーンが自分の肩にもたれかかっている。本に集中して気づかなかったが、いつの間にか寝てしまったようだ。だいぶ疲れていたのだろう。外出用のセーターを着たままで、髪も後ろに束ねたままだった。

「ジェーン」と呼んでみた。

 微動だにしない。

「ベッドで寝ないと疲れがとれないよ」

 やはり起きない。

 ぐっすり寝ているのを無理に起こすのも可哀想なので、起きるまで待つことにした。

 ロストンは本の内容を反芻した。

 第一章も第三章と同じで、知らなかった情報が詳しく説明されていた。自分が世界に対して感じ続けてきた違和感と不満には、やはりしっかりとした根拠があったのだと分かった。自分は少数派で、少数派は異端派とされているが、少数派だから間違いであるというわけではない。もし全世界が賛同してくれなくても、正しいものは正しいのだ。

 部屋を見渡すと、先ほどより少しだけ暗くなっていた。暖炉の火が弱くなったのだ。彼女の方をもう一度見ると、寄りかかった彼女の顔と身体に、くっきりとした影ができている。

 自分たちは危ないことをしていて、捕まるかもしれない。でもそれは、自分たちの意思で自ら選び取った道だった。正しさは多数決で決まるものではない。全世界が賛同してくれなくても正しいものは正しいのだ。彼は心の中でそう呟いた。



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