第16話



 やはり引き返すべきだろうか。

 ロボットのメイドに案内されながら踏み入った応接間はとても広く、大きな窓から午後の日差しが降り注いでいた。床はタイル型のスマートスクリーンになっていて、まるで本物の高級絨毯がそこにあるように映っている。その絨毯の上を、窓を背景にして、人のシルエットがこちらに向かってくるのが見えた。オフィールドだった。

 ロストンはここに来るまで、引き返すべきだろうかと何度も自問した。ここに来ることはそれなりの決断だったし、二人でやってくることはもっと重大な決断だった。気後れする高級住宅街なのも、不安な気持ちになる理由の一つだった。普段、富裕層の住んでいるこの地区に足を踏み入れることはない。大きな街路樹が立ち並び、道路の幅もゆったりと広めで、大豪邸や高級な低層マンションが点在していた。彼はオフィールドに招かれたという立派な理由があったにもかかわらず、この街に庶民の自分がいることを場違いのように感じた。すぐにでも、どこからか警備用のスマートスクリーンが現れ、見慣れない顔を疑って呼び止めるかもしれない、と不安だった。根掘り葉掘り聞かれたあげく、怪しい者と判断され、連行されるかもしれないと。

 しかし心配を払拭するように、マンションの前で待機していたメイド・ロボットは笑顔で二人を迎えたのだった。そのロボットは、髪を結んだ中肉中背の女性型で、肌が白く塗装されたものだった。二人が通されたマンションのエントランスホールや廊下は大理石でできていて、壁紙やらオブジェやら照明やら何もかも高級感を醸し出していた。ロストンが住むところも清潔で快適ではあったが、大きさや漂う豪華さがまるで違っていた。

 気が付くと、こちらに向かってくるオフィールドは何かを話していた。どこの言語かは分からなかったが、外国語を使っている。彼の背後の窓から差し込む光で表情がよく見えなかったが、電話をしているらしかった。役員なので週末も忙しいに違いない。

 近くまで来ると、逆光のなかでオフィールドの表情が浮かび上がった。彼は電話を切ると、二人を歓迎する穏やかな表情に切り替わった。その表情を見て、ロストンはそれまでに感じていた不安が和らぐのを感じた。

「ようこそ」オフィールドがジェーンを見て微笑んだ。「一緒にくる仲間とはあなたのことだったのですね」

 オフィールドとジェーンは短い自己紹介をした。会社で話し合ったことはないが、オフィールドは彼女がトゥルーニュース社の雑誌に寄稿しているのを知っていた。

「どうぞこちらへ」と二人を大部屋へ招き入れながら、彼は傍にいたロボットに言った。「部屋のスマートスクリーンを全部オンにして」

 ロボットが頷くと、上下左右の色が変わり始めた。その部屋は床だけでなく、壁と天井も全てスマートスクリーンになっていた。

 ジェーンが驚きの声をあげた。ロストンも驚いて息を飲み込んだ。部屋全体が銀河を映し出す宇宙空間に切り替わっていた。

「迫力ありますね」ロストンが言った。

「そうでしょう。自慢の全方位スクリーンでね、ついつい披露したくなるんです」

 オフィールドの顔は得意げだった。

 宇宙空間を横切り、廊下に出ると、今度は日差しに照らされた広いバルコニーが見えた。植物がいっぱいある。それもこの家の自慢らしく、バルコニーは全自動ガーデニングシステムになっていて、各植物の特徴に合わせた温度調整と水やりが全自動で行われるらしかった。観賞用の植物だけでなく、野菜の栽培と収穫も全自動で行われていて、今日の食事にもそれで育てたジャガイモとニンジンが出るという。その他にもミニトマトやナスやブロッコリーなど、色々な野菜を育てているようだった。

 そこからもう少し歩くと、ある部屋が現れた。オフィールドの後を追って入ると、壁一面が本で埋め尽くされた書斎だった。他の部屋と違って、落ち着いた感じだった。間接照明は控えめの明るさだったし、窓も小さめで、仄かな日差しを招き入れていた。

 オフィールドは、部屋の奥の大きなデスクに回り込み、両手で本棚から何かを取り出した。そしてそれを重たそうに運んで来て、ロストンのすぐ前の丸テーブルに置いた。

「未完のオープンスピーク辞書第三版です」

 厚い紙の束だった。

「結構な量ですね」

「片面のコピーだから余計分厚く見えます。ですが、第二版を修正追加したところが青色に色付けされていて、そこだけ見れば良いので、見た目よりも読むべき量は少ないです。それでももし時間が足りなかったら、またいつでも家にいらしてください」

「はい……」

「では、私は食事時間の前に戻ってきますので、ごゆっくりどうぞ。不便なことなどありましたら、うちのロボットに命令してください。もうすぐお茶を運んでくると思いますが、それが済んだら部屋の外で待機するように言ってあります」

 コピーを受け取ったロストンは、辞書に興味が湧きながらも、例の話をどのタイミングで切り出すべきか考えていた。やはり会ってすぐよりも、計画通り、別のことを話し合ってから切り出す方が自然だろうか。だが実際にここまで来てみると、むしろ時間が経つほど話を切り出しにくくなるような心理的圧迫感を感じた。

 悩んでいると、真剣な表情をしているロストンを見て何かを察したのか、オフィールドの穏やかだった顔が不思議そうな表情に変わった。

「どうされたのですか? 何か問題がありますか? 遠慮せずにおっしゃってください」

 もっと後で切り出す方が自然かもしれなかったが、もうオフィールドはこっちの様子を見て疑問に思っている。ロストンがジェーンの方を見ると、彼女は覚悟をしたような顔で小さく頷いた。今切り出してしまおうと彼は決心がついた。

「のちに、と思っていたのですが」ロストンはゆっくりと口を開いた。「実は、お話ししたいことがありまして……」

「ああ」オフィールドが思い出したように言った。「おっしゃっていた、メディア業界についてでしょうか?」

「それとも関わりはありますが……」

「ふむ」オフィールドが肩をすくめた。「では先にその話をしましょう。そちらにお掛けになって下さい」

 三人は丸テーブルを囲むように椅子に座った。ロストンとジェーンが並んで座り、オフィールドが向かい側に座った。

「では、どういったことでしょう?」オフィールドが訊いた。

 ロストンは膝の上で手を動かしながら言葉を探した。ここに来た動機ははっきりしているが、うまく伝えなければならない。自分たちが異端派だと言ってはいけないが、正統派だと思わせてもいけない。異端派だと思ってもらわなければオフィールドも自分が異端派であると打ち明けてくれるはずがないからだ。つまり、こちらからは自分たちが異端派だと明言しないが、オフィールドがそれをそれとなく察してくれなければならない。ロストンは自分の言葉のニュアンスに注意しながら口を開いた。

「実はわたし達は……あなたが世界市民連合に対して疑念をお持ちなのではないかと思っています。アメプルの原理やオープンスピークなど、連合の価値観に対して健全な批判精神をお持ちなのではないかと。今までのあなたの言動を見て、そうだと思いました。実はわたし達も社会の一員として疑念を持つ部分があるのです。そういう問題意識をお互いに共有しているのではないかと思っています」

「えっと」オフィールドがまた不思議そうな表情を浮かべて言った。「連合にも色々な問題はありますから、その在り方に対して疑問に思うことは多々あります。ですが、あなた方が訊いているのは……」

 その時、書斎の自動ドアが開いて、女性型のロボットが部屋に入ってきていた。手に持ったトレーの上には飲み物があった。

「えっと、紹介を忘れていました、うちのメイドのマリーです」オフィールドが少しそわそわした声で言った。「マリー、それをテーブルの上に」

 そう言うと、オフィールドは突然ポケットからスマートスクリーンを取り出し、仕事の連絡が入ったようだとつぶやいた。そして立ち上がり、「すぐ戻りますので、お茶を召し上がっていてください」と言って部屋を後にした。

 その様子を見て、ロストンは急に不安になった。もしかしたら自分はオフィールドのことを誤解していたのではないか? もしかしたら、彼は異端派ではなく、やはり正統派だったのではないか? 話の意図を察して、困惑し、仕事を理由にして逃げたのではないか? もしかしたら今、自分たちを警察に通報しているのではないだろうか? 色々な不安な考えが頭をよぎった。

 だがまだ何もはっきりしてはいなかった。そわそわした様子だったからといって、困惑していたとは限らない。気持ちが高ぶってそうなったのかもしれない。仕事の連絡も変なタイミングで来ただけで、自分の会社を経営し、トゥルーニュース社の社外取締役でもあるオフィールドは、当然いつも忙しいのだ。自分たちがこの家に着いた時だって彼は仕事の電話をしていたではないか。ロストンは自分にそう言い聞かせた。

 ロボットは三人分のお茶をこぼさないように丁寧に置き、次にミルクと砂糖とビスケットを置いた。そのテキパキとした動きは、まさにメイドであった。安い電気代で奉仕してくれる従者。

 それを見ながらロストンは思った。このロボットは自分の信念に基づいて振る舞うことができない。高度な機能を持っていても、ただ命令に従っている操り人形でしかない。だが、自分たちはそうではない。自由な意志を持った人間だ。だから、ここで捕まるわけにはいかない……

 ジェーンの方を見ると、緊張した様子でずっと黙っていた。

 二人の間で沈黙の時間が流れた。お茶は紅く輝いていて、徐々にフルーティーな香りが漂ってきたが、二人とも手をつけなかった。

 十分ほどすると、ようやくオフィールドが戻ってきた。

「仕事の電話が入ってしまい、大変失礼しました」そう言うとオフィールドはテーブルの上のお茶を見て言った。「まだ召し上がっていなかったようですね。お待たせして本当に申し訳ない。冷めないうちにどうぞ、ルイボスティーです」

 ロストンはそのお茶の色を見て紅茶だと思っていたが、間違いだった。輸入品のルイボスティーは、最近よく見かける飲み物だったが、彼は飲んだことがなかった。イメージでは紅茶と同じくらい苦味があり、カフェインを含むものだと思っていたが、一口飲んでみると、さっぱりしていた。

「さっきの話に戻りましょう」オフィールドが咄嗟に言った。「単刀直入にお聞きしますが、あなた方は異端派でしょうか?」

 その瞬間、ロストンは心臓が止まった気がした。ジェーンを横目で見ると、彼女も目が泳いでいる。

「それは、いや、そういうわけでは……」ロストンがおどおどしながら答えた。

「そうではない? ではなぜそんなに思いつめた表情で私に訊いたのですか? ただ連合の問題点を指摘したいだけには見えませんでしたが」

 ロストンは返す言葉が見つからず黙ってしまった。ジェーンも強張った表情で硬直している。

 その様子を見ながら、オフィールドが口を開いた。

「ご存知でしょうか。ルイボスティーは、味に癖はありますが、健康に良い飲み物です。特にこの産地のものは私のおすすめです。産地はどこだと思いますか?」

 なぜ突然お茶の話をし出したのかロストンは理解できなかった。

「わかりません」ロストンは、お茶のことなんてどうでもいい、と思いながら答えた。

 オフィールドがにっこりした。

「わかりませんか。実はこれは、数ヵ月前に南アフリカから私宛に送られたものでして……」

 オフィールドはしばらく黙った後、言葉を続けた。

 「送り主は、ソル・ストーンズです」

 ロストンはその瞬間、先ほどまでの重い緊張感と不安が、身体から一気に蒸発するのを感じた。そして歓喜のあまり飛び上がって叫びたい気分になった。ジェーンも驚いた表情になっている。

 やはり自分の観察は正しかった! 彼は異端派なのだ! 

「それではストーンズを直接ご存知なのですね?」ロストンが興奮を抑え、冷静を装いながら訊いた。

「そうです。潜伏先がすぐ変わるので、今どこにいるかは分かりませんが」

「では、彼の地下組織ともあなたは繋がっているのですか?」

「ええ、そうです。私はSS同盟の一員です。安全のため、私についてこれ以上のことはお話しできませんが」オフィールドはそう言うと、ジェーンの方を向いた。「安全と言えば、あなたは有名人なので、特に注意が必要でしょう」

 彼女は目を大きく見開いたまま、黙って頷いた。

「では私のことをお話ししたので、あなた方についてもお聞かせ下さい。あなた方は、私と同じく、異端派ということで合っていますよね?」

「はい」ロストンが答えた。

「それでどうしたいのでしょうか? SS同盟に加わりたいのでしょうか?」

「はい、そうです」

 その言葉に、オフィールドは身体の向きを少し変えて、ロストンと完全に向き合った。

 オフィールドはどのような質問をすべきか考えているようで、瞬きもせずにじっと前を見ていた。そして口を開いた。

「SS同盟に加われば、色々な活動をすることが要請されます。世界市民連合を弱体化させるためなら何でも行う覚悟がありますか?」

「あります」ロストンが答えた。

「逮捕される可能性があるとしても?」

「逮捕されるのは、正直嫌ですが、でも覚悟はあります」

「破壊活動をする覚悟は?」

「あります」

「死傷者が出るようなテロ行為でも?」

「それは……」ロストンが悩むように言った。「誰が対象かにもよりますが」

「子どもや女性の死者を出すことが我々の目的のために必要だとしたら?」

 ロストンは言葉に詰まった。そして考えた。それは一見、正しいことには見えないかもしれない。世間はそう考えるだろう。だが、体制側が移民を多く受け入れたことで、移民によるテロが起き、罪のない女性と子供が死ぬこともあるではないか? そのような犠牲の拡大を防ぐためには、それより小さな犠牲を払うことも必要になる。より良い、正しい世の中を実現するためには、犠牲が伴うのだ。

 彼は心を決め、答えた。

「もしそれが国を救うことになり、結果的にもっと多くの子供と女性を救うことにつながるのであれば、そのために私の身を捧げる覚悟はあります」

「ほう、そうですか……」オフィールドは感心したような表情をした。そして付け加えた。「では、お二人が離ればなれになって、二度と会えなくなっても構わないという覚悟は?」

「それはないわ」突然、ジェーンが沈黙を破って割り込んできた。真剣な顔だった。

 ロストンは一瞬黙ったが、彼女を見つめ、「同じです」と答えた。

「質問によく答えてくれました」オフィールドが言った。「任務を行う上で、すべてを知っておく必要がありますから」

 テーブルの上にはクリーム色のアロマキャンドルが一つ置いてあった。オフィールドが「キャンドル点火」と言うと、芯に火がつき、薄暗かった部屋が少しだけ明るくなった。するとオフィールドは、何か考え事をする顔で椅子から立ち上がり、部屋をゆっくりと回り始めた。次第に、気分を落ち着かせるようないい匂いが部屋に漂った。

「マリー」オフィールドは立ち止まると、ロボットを呼んだ。「あとでストーンズの本を手配しておくように」

 女性型ロボットは「はい」と答えると、玄関で会った時と同じようにほほ笑んだ。さっきまで人工的だと思っていた表情がどこか親近感のある表情になっていた。まるで何か本当の感情を抱いているかのように。人工的に作られた顔は人の心に訴えかける表情を上手く選べるのかもしれない、とロストンは思った。オフィールドの方を見ると、立ったまま、左手を右腕の脇に挟み、右手を頬に当てている。

「もう少し詳しく説明しましょう」

 オフィールドが再び口を開いた。

「組織の正式な一員になるには、そのための心得が必要です。あとで本をお送りしますが、それを読めばこの社会の本質が、そしてそれを克服しようとするわれわれの戦略が分かるでしょう。本を読み終え、その思想を自分のものにできた時、あなた方はSS同盟の中心メンバーとして生まれ変わる。とはいえ、SS同盟のメンバーたちがどこのだれかについては、セキュリティー上の理由でお教えできない。個人的に接触するのはおそらく私が最後でしょう。今後、直接的な接触があるとしたら、それはロボットを通してです。我々があなた方に連絡する必要がある時は、マリーを通して行います」

 そう言うと、オフィールドは再び部屋の中をゆっくり歩き始めた。

 背丈は普通だが、彼にはどこかとても大きい存在感があった。今見せている、左手を右腕の脇に挟み、右手を頬に当てる仕草にさえ、それが表れている。彼の目からは鋭い知性が感じられたが、その話し方からは胸の奥に秘めた熱意のようなものが感じられた。

 ロストンのなかで、オフィールドに対する尊敬の念が膨らんだ。オフィールドが先ほどまで見せていた気さくな表情だけを見ると、彼が体制に挑むような人だとは誰も気づかないだろう。だが重要なのは表面的な見た目ではなく、内に秘めたものなのだ。

 オフィールドは歩みを止め、小さな窓の向こうを眺めた。空にオレンジ色がかかり始めていた。

「もうこんな時間でしたか」彼は二人の方を向いて言った。「私から食事にお招きしておいて大変申し訳ないですが、実は先ほどの電話で急な仕事が入りまして、そちらに行かなければなりません。残念ながら私は一緒にできませんが、ロボットたちに指示すればすぐに食事の準備ができるので、どうぞ召し上がっていってください」 

 ロストンはどうすべきか迷い、ジェーンと目を合わせた。

 彼女が答えた。

「いいえ、家主がいないところで食事をしても何だか変ですし、わたしたちも出ることにします」

「そうですか。申し訳ない」オフィールドは残念そうな表情をした。

「いいえ、こちらこそ報告書のオープンスピーク用語のこともお話しするつもりが、先に違う話をしてしまって、機を逸してしまいました」

 そう言ってロストンは自分のカバンから一枚の紙を取り出した。

「これは報告書についての私の意見をまとめたものですが、お渡しします」

 渡されたA4用紙一枚をオフィールドは上から下へと一瞥した。

「ありがとう。あとで熟読します」そう言うと彼は、用紙をテーブルの上に置いた。テーブルの三人のティーカップにはルイボスティーがまだ残っていた。

「これから仕事なのでアルコールは飲めませんが、今日を祝って代わりにこれで乾杯しましょう」オフィールドがティーカップに手を伸ばして言った。「何に乾杯しましょうか。リベラル・ネットワークの崩壊を祈って? 連合の転覆に? それとも未来に?」

「過去に」ロストンが言った。

「戦前のことですね?」オフィールドが納得したように頷いた。

 三人はカップを持ち上げ、「過去に乾杯」とつぶやき、一気に飲み干した。

 そしてカップをテーブルに戻すと、ドアの横にいたメイド・ロボットが近づいてきて、手を前に差し出した。オフィールドはその手の平からリストバンドらしきものを取り、ジェーンに渡した。

「手首に巻いてください。防犯用スマートスクリーンがあなたたちを認識できないようにする装置です。これからは任務を行う時に必ず巻いてください」

 SS同盟はこういう装置を使ってスマートスクリーンの監視網を潜り抜けてきたのか、とロストンは驚いた。

 だがその装置は、スマートスクリーンは騙せるとしても、道を行き交う人の目は騙せない。だからまずジェーンが出発し、時間をずらしてロストンが出ることにした。

 オフィールドとロストンは部屋の玄関でジェーンを見送った。それから二人は広いリビングに移り、テーブルを挟んで座った。

「今後のために予め細かい点を確認しておきましょう」オフィールドが口を開いた。「どこかに隠れ場所をお持ちですか?」

 ロストンはミスター・アーリントンの店の部屋のことを説明した。

「なるほど、わかりました」と頷くと、オフィールドは言葉を続けた。

「ところで、ストーンズの本のことですが、所持しているだけで危険思想犯の罪になりますから、私もいま手元には置いていません。リベラル・ネットワークが出回っているコピーを見つけては発信元を辿って警察に通報したりしていますから、我々もあの本の扱いには細心の注意を払っているのです。そのうちお届けするので、しばらく待っていてください。そうだ、普段カバンを持ち歩いていますか?」

「外出時はいつもそうしています」

「よろしい。近いうちに、社内便でメッセージを送ります。読んだらシュレッダーにかけて下さい。そして帰宅時、メッセージに書いてあるルートを通ってください。その時、顔を変えたマリーがあなたに小包を渡すでしょう。あの本が入ったものです。あなたは自分のカバンにそれを入れて持ち帰ってください。数日内に読み終えて、自分の頭に叩き込んだと思ったら即破棄して下さい」

「はい」ロストンはそれについてもっと訊こうと思ったが、即座には頭の整理ができなかった。

「今後も社内ですれ違うことはあるでしょうが、これからはお互いに話しかけない方がよいでしょう。どちらかが捕まった時に、ややこしくなりますから。いつか、そんなことを恐れずに会える世界になればいいのですが」

 ロストンは夢の中で聞いた声のことが思い浮かんだ。

「それは、自由なところ……でしょうか」ロストンが自信なさげに訊いた。

 オフィールドが静かに頷いた。そして自分の腕時計を一瞥して口を開いた。

「さて、お帰りになる前に何か他に質問はありますか?」

 ロストンは考えてみたが、すぐに頭に浮かぶ質問はなかった。オフィールドやSS同盟に関係する質問の代わりに彼の心にふと浮かんだのは、なぜか、遠い昔に自分が親と一緒に暮らした白塗りの部屋、ミスター・アーリントンの店の隠し部屋、そしてあのスペースドームだった。

「さて、あなたにもこの装置を差し上げましょう」

 オフィールドはリストバンドの装置をロストンの手首に巻いた。そして二人は玄関で軽い握手をし、別れの言葉を交わした。

 玄関から十歩ほど歩いたところでロストンが振り返ると、オフィールドはまだドアを開けたまま見届けてくれていた。

 優しい顔だった。



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