第13話



 ハイムが会社を辞めることになった。ある日、彼はフードコートでロストンに近づき、そう話したのだった。オープンスピーク全国委員会でオープンスピーク辞書の編集作業に携わってきたが、今度その総責任者になったそうだ。それでそちらが忙しくなり、トゥルーニュース社での顧問の仕事からいったん離れることになったらしい。送別会をする暇もなく、「すぐ戻ってくるかもしれないよ」と言って、ハイムは去った。

 そして十二月中旬には、大雪と凍るような寒さが続いた。

 舗道や建物の表面から微熱が出るため雪は積もらなかったが、その技術のなかった昔だったらとんでもない積雪量になり、生活と交通が麻痺していたかもしれない。

 暖房のよくきいた社内ではクリスマス・ホリデー前の仕事納めのために、どの社員も普段より忙しくしていた。このシーズンには芸能、スポーツ、政治経済、アートなど全ての方面においてクリスマス・イベントがたくさんあり、メディアは取材や撮影や記事の作成などで慌ただしかった。ジェーンがエッセイを寄稿している文芸編集部でも、他国の文学について特集を組んでいて忙しいらしかった。

 社内で書かれる記事の量が増えた分、ロストンの校閲の仕事も自然と増えた。人工知能から絶え間なく送られてくる用語修正のダブルチェックを彼は黙々とこなした。外では、クリスマスに向けて花火が頻繁に上がっていた。何のイベントで打ち上げられたものかは分からなかったが、窓からとてつもなく大きい花火が見えたりした。

 街の大通りでは、スマートスクリーンから絶え間なくクリスマスソングが流れていた。軽やかなリズムで、鈴が鳴ったり、合唱になったりする。サムによると、彼の子どもたちもクリスマスソングを煩く歌っているらしい。ミセス・ドーソンは、居住区のボランティア活動で、体の不自由な人たちの住居にクリスマスの装飾を施しているらしかった。

 都心部の街頭に浮かぶ多くのスマートスクリーンには最近、新しい映像が流れていた。アラブ系の歌手がステージ上のスピーカーに片足をのせ、ギターを弾きながら歌っている映像だ。それは3Dになっていて、どの角度からも立体的に見えて臨場感があった。

 そうした多文化的な街の雰囲気と調和するように、川沿いでは中国式やロシア式の噴水ショーが頻繁に行われていた。外で見物するには寒い季節だったが、多くの人は建物の中から眺めていた。この時期のイベントに参加する観光客のおかげで外国人たちの営む各国料理のレストランも繁盛し、賑わっていた。ニュースではストーンズによるテロ行為を防ぐために街中の警備が強化されたと報道されていた。

 そういった都心の喧騒を離れ、ロストンとジェーンは時々、電器店の二階の部屋で過ごした。廊下まではとても寒かったが、部屋の中は暖炉の火で暖かかった。

 特になにか目新しいことをするわけでもなく、二人は部屋を綺麗に掃除したり、食材を買ってきて料理して食べたり、最近あった出来事について話し合ったりして、自然に過ごした。部屋は二人にとって神聖な場所であると同時に、ゆったりとした日常を過ごす空間だった。手をつなぎ、軽いキスはしたが、それ以上のことはしなかった。それに、背景はいつも同じ室内だったが、角度や表情を変えながらツーショットの記念写真をいっぱい撮った。

 気が付くとロストンはエナジードリンクをあまり飲まなくなっていた。彼女と会うだけで落ち着くので、飲む必要性を体が感じなくなったようだった。会えても一度に数時間だけの場合がほとんどだったが、重要なのは、二人のための安全な部屋が存在するという事実。電器店の二階にヴィクトリア風の部屋があるとは誰も想像できないだろう。

 彼はいつまでもこの状態が続くことを願っていた。カーテンの隙間から射し込む光の中に幸福の予感を抱くこともあった。そんな時には、安らかな気持ちになって、ジェーンの手を強く握ったりした。

 しかしまた、二人のこうした状態は週刊誌や彼女のファンに発覚され、突然終わってしまうのではないかという不安も頻繁に頭をよぎった。そんな時は、この部屋は一時的に過ごすだけの、すぐに失ってしまう脆いものに思えてくるのだった。輝く星屑が延々と回転するスペースドームも、ドームのガラスが割れればたちまち台無しになってしまう。二人の今の状態はそのようなものではないか。ガラスの内側で永遠の夢想に浸っても、ガラスは次の瞬間にはあっけなく割れて、二人は会えなくなるのではないか。

 或いは、そのうちジェーンが有名人ではなくなって、誰の関心も引かなくなったら、もしかしたら二人はひっそりと結婚をして静かな暮らしができるかもしれない。トラディットたちに紛れ、この地区の小さな工場で職を見つけ、小さな幸せを噛みしめながら過ごすのだ。彼は時々そのような妄想をした。

 だが同時に自覚もしていた。そうしたことは結局、惨めな逃避でしかないと。ひっそりと隠れて暮らすというのは、体制側に屈することであると。それは、隠れて暮らすことを強いられるということであった。連合が正義の味方のように振る舞う中、自分たちは隠れて、怯えながら生きなければならない。理不尽なこの状況を打破するためには逃げるのではなく、根本的な解決が必要だった。発覚を恐れて縮こまるだけでは何の解決にもならない。

 ロストンは思った。たしかに、下手をして二人が異端派であることが発覚すれば、ジェーンは人気と収入を失うし、自分も危険思想犯として捕まって、社会生活ができなくなるだろう。それは大きな不幸だ。だが、じっとしていても、ビクビクして暮らす不安な状況は変わらない。捕まらないための工夫をしながらも、根本的な打開策を探らなければ、いつまでたっても惨めな状況は変わらないのだ。

 ジェーンも考えは一緒だった。だから二人は、トラディットやSS同盟などの、世界市民連合の対抗勢力について話し合うことが度々あった。ただし、現実的にどうすれば自分たちが対抗活動に貢献できるのか分からなかった。

 そこで彼は、自分とオフィールドとの間には不思議な親密感が存在する、もしくは存在するように思われることを彼女に話した。時々衝動に駆られ、オフィールドの前に進み出て、自分は世界市民連合に反対しており、彼の協力を必要としていると打ち明けたくなるということも。

 ジェーンはもっと慎重に接近した方が良いという意見だったが、オフィールドがそのような人物であっても不思議はないとも考えているようだった。彼女は、実は多くの人間が密かに世界市民連合に反感を持っているが、危険思想犯、異端派という烙印を押されないようにただ支持するふりをしているだけ、と推測していた。だから何らかのきっかけさえあれば、すぐにでも広範囲な反対勢力が組織化されるだろうと考えているのだった。

 たとえばある時、彼女はこう言った。

「連合にとって、ストーンズと彼の地下組織は脅威だと思う。トラディットは動かないでいるけど、SS同盟が先頭を切って道を開けば、トラディットも立ち上がると思うの。かつては連合の内部でもイデオロギー闘争があったし、連合に対抗する政治運動もそれなりにあったわけでしょ。連合も人間が作った組織に過ぎないわ。皆が沈黙を破って一斉に反対の声をあげれば、崩れるはずよ」

 ロストンは、連合の転覆について彼女の方が自分よりも楽観的であり、連合による洗脳にも影響されていないと思った。たとえば、アメリカとヨーロッパ諸国の平和条約と自由貿易が話題にのぼった時、彼女は、諸国が平和条約を結んで自由貿易をしているのはお互いの平和や経済のためではなく、世界中のエリート層が連携して世界中の庶民を支配するためなのだと言った。それは彼がまったく思ってもみなかったことだった。だが、大いにあり得る話に思えた。彼女は物事を俯瞰で見るところがあり、思っていた以上に興味分野が広く、歴史や科学など、自分を超えた大きなものに思いを巡らせていた。

 歴史が話題になった時、彼女はアメリカが数年前までヨーロッパ諸国よりもアジア諸国ともっと緊密な協力関係にあり、ヨーロッパの一部の国々と非難し合っていたのをよく覚えていた。そして、国家関係が変わるたびに歴史の中でスポットライトを当てられる部分が変わったことも見抜いていた。スポットライトの当て方で国家間の関係を良く見せたり、悪く見せたりしていることを、誰に教わるまでもなく、自然と見抜いていたのだ。

 その話の流れでロストンは、自分が校閲部で目の当たりにした真実の隠蔽、つまり、ラムフォードの体制支持宣言が嘘であったことを示す、ボツになったスクープ記事について話した。

「その人たち、その後どうなったの?」

 話を聞き終えると、彼女が訊いた。

「わからない。転向したとはいえ、危険思想犯の烙印を一度押されたわけだから、今も人々に警戒されて遠ざけられたり、監視されたりして暮らしているんじゃないかな」

「そういう隠蔽はよくあることなの?」

「隠蔽もあるし、書き換えもよくある。過去は常に覆されるんだ。過去がどこかで生き延びるとしたら、言葉の存在しない閉じ込められた空間の中だろうね。例えば、そこにあるスペースドームのようなものの中とか。記録は色々な仕方でつなぎ合わせられ、組み合わせられ、新しく解釈され続けている。その作業は毎日、めまぐるしく進行していて、歴史は常に塗り替えられているんだ。過去も現在も確固たるものはない。確固たる唯一のものは、過去を常に解釈し直そうとする世界市民連合の意志だけ。悔しいけど、それを僕のような個人が止めることはできない。証拠を手元に置いていながら、その流れを止める力がないんだ」

「皆が協力して立ち上がるべきだわ」彼女が言った。「みんなが一斉に声をあげれば、何かが変わるはずよ」

「君は僕よりずっと楽観的だね。そうなればいいとは思う。勇気を振り絞って誰かが声をあげれば、意外にもすぐに大きなうねりとなるかもしれない。でもね、皆の声が集まる前に逮捕されて終わりになる可能性だって高い」

「でも、そうなる前に皆が一斉に動き出すことも可能だと思うの。革命ってそういうものでしょ? 体制側だって押し寄せる何百万人を逮捕することはできない。まずは誰かがスタートを切らないといけないけど」

 ジェーンの真剣な表情は彼を強く突き動かした。彼女はどんな時でも、どんな状況でも悲観せず、物事を楽観的に捉え、困難に立ち向かう芯の強さがあった。彼女のように、他のトラディットたちもそういう強さを胸に秘めているのだろうか。

 ロストンは考えた。もしかしたら、連合からの押し付けは、それに反対するトラディットに強い反骨精神を生じさせたのかもしれない。世界がどう変わろうと、覆されない自分の信念を持つことでわれわれは自分自身を保つことができる。連合が意図的に過去を覆しても、体制側の主張を鵜呑みにしなければいい。そう、毒は、飲まなければ死なないのだ。



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